ボールペン
ボールペンがない。ボールペンを失くしてしまった。
「ん?」と冗談混じりな声に出したら、頭にじわっと不信感が馴染んで、そのあと数分をかけて本格的に失くなったことを認めた。机の上を手の平で盲滅法に探してみるが、ボールペンは手に触れることがない。エナメルの筆箱の中にある文具を幼児のように「これは定規、これは消しゴム」と声で答え合わせしながら確認し、中身をいっぺん全部取り出してみる。そしてやはりボールペンだけ確認できずに筆箱の底を見る。ボールペンだけが無い、蛍光ペンやマッキーはあるのに、示し合わせたようにボールペンだけが無いのだ。
どこ行ってしまったんだろう、というかいつ触った? 何のためにボールペンを使った?
今となっては何も思い出せない。触りたかっただけ? ただ持ってみてくるくる回して、手癖の道具にしたかっただけ?
同じ場所を繰り返し繰り返し探す。段々と挙動も大雑把になり、視野だけが拡大され、効率も何も無くなっていく。黒いマッキーのお腹に探す手が触れ、マッキーは机から転がり落ち、畳の目で止まった。拾って空っぽの筆箱に戻す。マッキーではダメだ、あのボールペンの黒がいい。インクの、紙に上手に馴染む、裏写りせず臭いもしない、あの黒を求めている。セラミックスのペン先、金属の円錐形、0.7㎝の創造神が、この部屋のどこかに隠れている。
この部屋にあるのは確かだ。最後に使ってから、僕はそのボールペンを外に持ち出したという記憶はない。現に筆箱はちゃんとあるし、ボールペンだけ部屋外に持っていくなんて不自然すぎる。
まるで認知症になったみたいだな、とふざけたつもりでちょっと自虐してみた。まだ20代なのにこんなでは、将来はなにも知覚できなくなってしまうんじゃないか。そんな妄想を漫然と頭に描いてみたら、意外に心が傷ついた。硬化した脳が長い人生を無為なるものにしてしまうのは、非常に恐ろしい。
床から立ち上がり、机の周辺から離れ、何気ない仕草で間違ってそこに置いてしまう可能性がありそうな場所を探し、僕は隅々まで探してみる。タンスの上、ベッドの下の隙間、掛け布団の中。ベッドはクッション部分を持ち上げて床を見て、掛け布団は皺を伸ばすように勢いよく振ってみた。風が部屋の壁に当たる、しかしボールペンは落ちてこない。本棚のマンガの上、足がローラーの掃除機の下、安い小銭が入っている小さな抽斗の中。そしてその他の場所の考えられる全ての場所を探してみたが、ボールペンは見つからなかった。
もう完全に僕の主観を越えてしまっている。僕の意識は部屋の中に確実にいるはずのボールペンを捉らえることができない。こういうのって、ふと何気ない拍子で見つかるくせに、見つけたいときに見つからない。もはや次に疑うのは常識だ。僕は洋服棚を開き、ジャケット一着一着のポケットをまさぐってみる。子供じみた深緑色のチェック柄のピーコートは、ここ三年ぐらい、袖に腕を通した記憶がない。こんなとこにあるはずないことは僕も分かっているし、ああ実際になかった。僕は気が振れてさえいるようだ。ボールペンが在るという感触も無いのに、今履いてるジャージのポケットに手を突っ込んで探したりしている。そして当たり前のように無い。
もう探すのも飽きた。ついに飽きるという感情がやってきてしまった。僕は部屋の中で立ち尽くして、自分の呼吸を聞きながら、このどうしようもない感情をどうしたらいいのかの判断を出来ずにいた。気持ちだけが孤立している。ボールペンを使わない他の方法を考えてはみるが、アイデアの引き出しが少なく頭が悪い僕は、性格も不器用で、ボールペンがないとやる気も起きないから、すぐに考えるのをやめた。絵を描けたらよかった。僕は絵を描けない。奥行きも陰影もない平面の、誰かの真似事も出来ない、不細工なものしか生み出せない。ボールペンにアーティスティック性を持たせるには、絵が描ける人はまあそれも可能なんだろうけど、僕には言葉という媒体しか思いつかない。というかボールペンが無いんだからこんな仮定は意味がない。
でも、何でもいいんだ、未来の色がするならどんな言葉でも。ボールペンを使うなら、それは確実に黒いインク色だけど、僕は言葉の表現だけでそれを真っ赤に感ずるものに変化させることができるかもしれない。根拠のない可能性が僕に希望を見せている。まだ定まっていない自分の世界を言葉にし、それを脳に具体的な形で返還する。脳の複写である。単語を羅列し構築することで、分析力の向上に結び付くかもしれない。そんな程度が低い目論みも、なんとなく信じられるほどの、不思議な熱意が僕にはあった。
僕はボールペンで書くという行為で、何かを成し遂げようとしていたのだ。ノートもあるし、単語帳もある。学習欲は尊く、それゆえに繊細である。すぐに熱も冷めてしまう。僕は僕自身を信用していない。
しかしさっきまでの僕は、かなりの情熱に心を高ぶらせていたはずだった。マニュアルも何もない漠然とした世界で、一つずつ手が掛かりを暗記しながら、僕はボールペンを片手に前へと進んでいけるはずだった。勉強という“やりたくないもの”も大人になったという自覚のおかげで受け入れられそうだ。脳への負担は未来の自分に供物を捧げるに等しく、必ず見返りがあることを信じ、理想が現実に変わる瞬間を想像しては喜ぶ、という修練のストイックさを僕は愛せる気がした。この行為が必ず自分の糧になると、僕は絶対的に信じていた。僕には確実に進化のイメージがあった。
それがこんな小さい障害で、こんな小さい過失で、あのボールペンが無いせいで、今まで溜めに溜めていた向上心が急速に萎んでいく。部屋の隅々を探す手が、たまに自分の髪をくしゃくしゃに掻き乱す。ボールペンがあったときと、ボールペンが失くなったときの部屋の違い。なんの間違い探しなんだ、強制的にアハ体験をさせられてるみたいだ。八畳の部屋が広がっていく。
時刻は日を跨いだばっかりの深夜。家の近くにコンビニはない。あったとしても、ボールペンを買おうとする気は、すでに微妙になっている。
“最初からボールペンが無かったのだとしたら”僕は家から少し遠くにあるコンビニに行っていたのかもしれない。わざわざこんな深夜に、たかがペン一つのために、さっきのピーコートを着てみてもいい、とにかく僕はそんなちっちゃな理由で外に出たってよかった。文具店にある質の良いボールペンなんか最初に買わなければ、コンビニにある無個性の愛着湧かないボールペンで、僕は充分に満足できたと思う。
ボールペンを買った文具店は自転車で20分かかる、たかが文具店にしては遠いと感じる場所にあった。文具店のくせに自動ドアで、文具店のくせに隣にあるスーパーマーケットよりも大きくて広かった。その店には『文房具』というジャンルに属するものは殆ど置いてあった。と、思う、僕には専門的な知識が無いので、あれがないこれがないの判断はできないが、少なくとも僕の日常的にはその文具店さえあれば事は足りていた。だって髭剃りまで置いてあるし。
そこで選んだ一つのボールペンは、今現在、部屋のどこかに隠れている。数ある種類のボールペンから、僕自身が選び、僕自身の判断で買った、僕だけのボールペン。それが今、無い。裏切られた気分だ。裏切ったのは何分か前の僕だ。
ベッドに顔を埋める。寝て起きたら、身体中の細胞が取り替わって、今日の僕は二度と返ってこなくなる。喉を通る前の気持ちは口の中で溶けていき、そのまま酸素のように勝手に身体に染み込むだろう。ボールペンもその形状を有り得ないかたちで激的に変化させ、そのまま家と同化し、完璧に吸収されて、二度と僕の前に姿を現すことはないだろう。しかも僕の知らないところで、ゆっくりと、さりげなく。家は化け物で、ボールペンは食料だ。
ほら、こんな虚しい妄想に逃げるしかなくなっている。もうどうでもいい。とりあえず夢に行きたい。でもさっきから目をつむってるけど、なかなか眠れず脳が休まらない。マンガを別に読みたくないのに、読まないことに堪える必要がある、何となくな好奇心。妄想の曖昧さを現実の絵で補完しようとする。でもそのためには目を開けなくてはいけない。でも目を開けたら眠れない。時間ばっかりが過ぎていく。
何だって無駄なことばかりだ。僕はそこでやっと気づいた。明日からどうしようという不安が一時的に膨れあがり、盲目的な希望で自分を少し取り戻そうとしているだけだったんだ。
ボールペンで書きたいことなんて本当は何もないのさ。
そう現実を思ってしまったら。もう自分に何にも残らないって知ってても、やっぱりそう現実を思ってしまう。夢はまだまだやってきそうになかった。
500円のボールペンをつい先日に無くしました。なんだかやる瀬なくなったんで書きました。もう一度、買いに行きます。