30分
第一章 残り三十分
卓上のタイマーが、小さな電子音を鳴らして「30:00」を表示した。
指先でボタンを押し込むと、静かなカウントダウンが始まる。数字が「29:59」「29:58」と規則正しく刻まれていくのを見つめながら、直人は小さく息を吐いた。
「またそれかい? 直人くん」
カウンターの向こう側から、少し掠れた親しみのある声が届く。
深夜十一時半。国道沿いにひっそりと佇む小さな定食屋『かざぐるま』の店内には、油と出汁の混ざり合った懐かしい匂いが充満していた。パイプ椅子の革は端が少し擦り切れ、古い蛍光灯がかすかにジジジと低音を鳴らしている。
「ええ、まあ。癖みたいなものですから」
直人は苦笑いを浮かべ、手元のタイマーから視線を上げた。店主の和子は、白い割烹着の袖を少し捲り上げ、使い込まれた湯呑みを木製のトレーに載せている。
「三十分なんて、あっという間だよ。湯気を立ててる豚汁を冷ますのにも、ちょうどいいくらいの時間さ」
和子が差し出した湯呑みから、ほうじ茶の芳醇な香りが立ち上る。直人は両手でそれを包み込んだ。温かい。だが、不思議と湯呑みの熱さは皮膚の奥までは届かず、どこか遠い場所の出来事のように感じられた。
「彼女、本当に来るのかい? こんな雨の深夜に」
和子は店内の大型テレビを見上げた。吊り下げ式のテレビ画面では、深夜のニュース番組が流れている。画面の隅には「関東南部で局地的な大雨・夜間交通規制」のテロップが点滅していた。
「来ますよ。絶対に」
直人は確信を込めて言った。
「あいつは、時間にだけは厳しいんです。特に『三十分』という数字には、なみなみならぬこだわりがある」
「へえ、三十分ねえ」
「ええ。駅からの道を歩くのも三十分。出かける前の準備も三十分。カップラーメンの待ち時間すら『お湯を入れてから少し伸びたくらいが美味い』って言って三十分放置しようとするような奴なんです」
「それはただの無茶苦茶じゃないかい」
和子が声を立てて笑う。カウンターの端で一人、文庫本を広げていた初老の男――この店の常連である島田も、ページをめくる手を止めてふっと頬を緩めた。
「若い頃の約束ってのは、そういう変なこだわりが残るもんさ」
島田は深みのある声で言った。
「だがな、お兄さん。雨の夜の三十分は、晴れた日のそれよりずっと長いぞ」
「分かっています」
直人は腕時計に目をやった。デジタル表示のタイマーは「28:14」を示している。
「でも、僕にはこの三十分しかないんです。今夜を逃したら、もう二度と会えない」
言葉の途中で、直人はかすかな違和感を覚えた。
自分の声が、まるで水中で喋っているかのようにわずかに遅れて耳に届く。店内を流れるラジオの雑音、換気扇の回転音、テレビのニュース。それらの音が、一瞬だけフレーム飛ばしを起こした映画フィルムのように跳ねた。
直人は首を振った。ここ数日、頭の奥で起こるこの小さな眩暈のような現象には慣れつつあった。連日の寝不足のせいだろう。今日という日を迎えるために、彼はあまりにも多くのエネルギーを費やしてきたのだから。
第二章 ノイズと記憶
店内には、直人と島田、そして厨房に立つ和子の三人しかいない。
外は激しい雨が降り続いていた。アスファルトを叩きつける雨粒の音が、店舗のトタン屋根を賑やかに鳴らしている。しかし、不思議なことに、ガラス窓に吹き付ける雨の雫は、不自然なほど規則的な模様を描いて流れ落ちていた。
「直人くん、注文はどうする? いつものかい?」
和子が聞いてくる。
「あ……はい。豚汁定食を。ご飯は少なめでお願いします」
「はいよ。豚汁定食、ご飯小盛りね」
和子が手際よく鍋に火を点ける。青いガスバーナーの炎が揺れた。
直人はポケットから一枚の折りたたまれた紙を取り出した。何度も開いては畳んだせいで、四隅がすり減って白くなっている。そこには、女性の丸っこい文字で、こう書かれていた。
『十二時ちょう度に、いつもの場所で。三十分だけ話しましょう。』
差出人の名前はない。だが、この癖のある字と、わざわざ「十二時ちょう度」と「三」の字だけを少し大きく書く癖は、彼女――葵のものに違いなかった。
葵と直人が出会ったのは、三年前の春だった。
当時の直人は、大学を卒業したものの希望する会社に就職できず、小さなデザイン事務所で下請けの雑用に追われる日々を送っていた。毎日深夜までパソコンの画面と向き合い、終電を逃してはこの『かざぐるま』に駆け込んでいた。
ある雨の夜、隣の席に座ったのが葵だった。
彼女は濡れた折りたたみ傘を愛おしそうに拭きながら、店主にこう言ったのだ。
「すみません、三十分だけ雨宿りさせてください。三十分経ったら、雨が止んでも止まなくても出ていきますから」
変わった客だな、と直人は思った。世の中の人間は誰もが「早く雨が止まないか」「早く目的地に着かないか」と結果ばかりを焦っているというのに、彼女は「三十分」という時間そのものを切り取って生きているようだった。
「どうして三十分なんですか?」
思わず尋ねた直人に、葵は悪戯っぽく微笑んだ。
「人間が集中力を保てる限界って、実は三十分なんですって。悲しむのも、怒るのも、人を愛するのも、一回につき三十分。それ以上続けると、感情が途中で雑になっちゃうでしょ?」
奇妙な理屈だった。だが、その言葉を聞いた瞬間、直人の心の中にたまっていた泥のような疲労感が、すっと軽くなったのを覚えている。
それから二人は、この店で時々会うようになった。
毎週金曜日の夜十一時半。二人は並んでカウンターに座り、それぞれの三十分を過ごした。直人は今週あった失敗を話し、葵は彼女が通う美術大学での制作の苦労を語った。そして十二時ぴったりになると、葵は「はい、三十分!」と言って立ち上がり、爽やかに去っていくのだった。
――だが、半年前。
二人の関係は突然の終わりを迎えた。
直人のタイマーが「22:45」を指した。
「直人くん、お待ちどおさま」
和子が目の前にトレーを置いた。あつあつの豚汁、大根の漬物、ツヤツヤと光る白米。
「ありがとう、和子さん」
直人は箸を取った。味噌の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
一口、具材のダイコンを口に運ぶ。出汁がよく染み込んでいて美味しい。しかし、喉を通った瞬間の感覚が、どこかスカスカとしていた。まるで、味が脳の記憶を直接刺激しているだけで、実際に胃に入っていかないような感覚だ。
「おいしいです」
「そうかい。よかった」和子は嬉しそうに目を細めた。
吊り下げテレビから、アナウンサーの声が聞こえる。
『……続いてのニュースです。先月より実証実験が開始された、東日本総合医療センターの『意識再生アーカイブ事業』について、厚生労働省は本日――』
ザザッ、とテレビの画像が乱れた。
一瞬、画面の中に不可解な文字列が走る。
[WARNING: BUFFER OVERFLOW AT BLOCK 0x4F8]
「おや、また映りが悪くなったね」
和子は慣れた手つきでテレビの側面をぽんぽんと叩いた。画面は何事もなかったかのように元のニュース番組に戻る。
直人は眉をひそめた。今の文字列はなんだろうか。まるでコンピューターのエラー画面のようなコードに見えた。
第三章 仕掛けられた違和感
島田が文庫本をパタリと閉じた。
「お兄さん。待ち人ってのは、過去から来るのかい? それとも未来からかい?」
突然の問いかけに、直人は箸を止めた。
「え……? どういう意味ですか、島田さん」
「いやね。お兄さんがさっきから見ているそのタイマーだがね」
島田は長細い指で、卓上の「17:30」を指した。
「時計ってのは普通、過去から未来へ積み上げていくもんだ。だが、そのタイマーは未来を削り取ってゼロに向かっている。お兄さんは『彼女が来るのを待っている』と言いながら、実は『何かが終わるのを待っている』んじゃないかと思ってね」
直人は言葉に詰まった。
確かにその通りだった。このタイマーはカウントダウンだ。ゼロになれば、何かが終わる。だが、何が終わるというのだ? 葵がやってきて、二人が話をする。それで終わるはずだ。
「島田さん、変なこと言わないでくださいよ」直人は笑い飛ばそうとした。「ただのタイマーですよ。彼女との約束の時間が、十二時なんです。あと十七分で十二時だから……」
そこで直人は息を飲んだ。
壁掛け時計を見た。
丸いアナログ時計の針は、十一時四十三分を指している。
ならば、十二時まではあと十七分だ。
タイマーの表示は「17:02」。整合性は取れている。
……だが、何かおかしい。
直人は自分の左手首の腕時計を見た。
デジタル腕時計の表示は『23:43:12』。
そして、卓上の電子タイマーは『16:58』。
何が違う?数字は完璧に一致している。
直人は自分の心臓が早警鐘を打ち始めるのを感じた。
(なぜ、僕はタイマーを「30:00」からスタートさせたんだ?)
自分が『かざぐるま』の扉を開けたのは、何時だったか?
十一時半だ。
十一時半に店に入り、タイマーを「30:00」にセットしてスタートさせた。
ならば、タイマーがゼロになるのは「十二時ちょうど」だ。
では、なぜ自分は最初から「十二時ちょうどに葵が来る」と知っていたのか?
もし葵が十二時に来るのなら、直人は十一時半から十二時までの「三十分間」、一人で彼女を待っていることになる。
そして葵が到着したあと、彼女と話す時間はいつになる?
手紙には書いてあった。
『十二時ちょう度に、いつもの場所で。三十分だけ話しましょう。』
――待て。
十二時に葵が来て、そこから三十分話すのだとしたら、タイマーが終わる十二時ちょうどは「葵と出会う瞬間」であって、「話が終わる瞬間」ではないはずだ。
なぜ、僕のタイマーは、彼女が来るはずの十二時ちょうどに「ゼロ」になるんだ?
「直人くん?顔色が悪いよ。豚汁、口に合わなかったかい?」
和子が心配そうに顔を覗き込んできた。
「和子さん……僕、ここに来る前、どこにいましたっけ?」
直人の口から、思ってもみなかった質問が飛び出した。
和子は困ったように微笑んだ。
「何言ってるのさ。駅から歩いてきたんじゃないかい。濡れた上着をそこのハンガーにかけたでしょう?」
直人は入口横のハンガーラックを見た。
黒いウインドブレーカーが掛かっている。確かに自分のものだ。
だが、店内はこれほど激しい雨の音が響いているのに、その上着からは一滴のしずくも床に落ちていなかった。完全に乾いているのだ。
「おかしい……」
直人は立ち上がろうとした。膝がガクガクと震えた。
「落ち着きなさい、直人くん」
島田が静かな声で言った。その声には、先ほどまでの「客」としての軽いトーンがなく、酷く冷静で、どこか諦念を含んだ響きがあった。
「残り時間、あと一十二分だ。焦っても時間は増えないよ」
「島田さん……あなた、何を知っているんですか?」
島田は持っていた文庫本をテーブルに置いた。
表紙のない、まっさらな白紙の本だった。島田はこれまで、何も書かれていない真っ白なページをめくり続けていたのだ。
第四章 剥がれ落ちる世界
世界から「音」が消え始めた。
雨の音が急に遠のき、代わりに電子的な高周波音――キーーーンという不快なノイズが耳奥で鳴り響く。
直人は頭を押さえた。
「和子さん! 島田さん! これはいったい何なんですか!?」
和子は寂しそうな、けれど温かい眼差しで直人を見つめていた。割烹着のポケットから、彼女は小さな端末を取り出した。それは昭和の定食屋には絶対に不釣り合いな、透明なガラス状のタブレットデバイスだった。
「直人くん。あなたは本当に強い子ね。過去三回のセッションでは、十五分過ぎたあたりで自己矛盾に耐えきれなくなってエラーを起こしていたのに。今回は十一分前まで自我を保てている」
「セッション……? エラー……?」
直人は自分の手を見た。
蛍光灯の光にかざした自分の皮膚が、時折チカチカとドット状に透過し、向こう側のテーブルの木目を透かしてみせている。
「僕……僕は……」
「思い出しなさい、直人」
和子――いや、彼女の声はいつの間にか、聞き覚えのある「別の女性」の声へと変化していた。
「あなたは半年前、雨の国道で事故に遭ったの。トラックの居眠り運転に巻き込まれて……あなたの肉体は、もうこの世界には存在しない」
衝撃が直人の頭をぶち抜いた。
記憶の濁流が雪崩のように流れ込んでくる。
雨の夜。ヘッドライトの眩しい光。耳をつんざくクラクション。衝撃。
病院の集中治療室。白い天井。規則的な心電図の音。
そして、泣きじゃくる葵の顔。
「ここは……何なんだ……?」
「ここは『東日本総合医療センター・デジタル遺品アーカイブ』のサーバー内よ」
島田が静かに説明を続けた。彼の姿も少しずつ揺らぎ、輪郭がノイズでぼやけていく。
「私はシステムエンジニアの島田。彼女はあなたを担当していた臨床心理士の和子先生だ。私たちはあなたの脳から抽出された構造化データ――つまり『意識の複製』が、安定して対話できるかをテストするためのアバターだよ」
直人は目を見開いた。
「僕が……AI……? ただのデータなのか……?」
「ただのデータなんて言わないで」和子の声が切なく響く。「あなたの魂の記録よ。脳死判定を受けたあと、ご遺族の同意のもとで、あなたの最後の思考パターンがクラウドに保存された。でも、デジタル化された意識は『自分が死んだ』という事実を直接突きつけられると、過剰なストレスで自己崩壊を起こしてしまう」
「だから……この定食屋を作ったのか」
「そう。あなたの記憶の中で最も安全で、心が安らぐ場所。『かざぐるま』の風景と、私たちの会話。そして『葵さんが来るのを待っている』という目的を与えることで、あなたの意識を安定させていたの」
直人は卓上のタイマーを見た。
「09:12」
「じゃあ……この『三十分』という時間は……」
「一つのセッションの上限時間よ」島田が端末を操作しながら答える。「人間の記憶データをサーバー上で完全稼働させるには、膨大な計算資源と冷却電力が必要になる。病院のクラウドサービスがあなたに提供できる『会話の枠』は、一回につき正確に三十分間だけなの」
「じゃあ……葵からの手紙は……?」
「それは、本物の葵さんから届いた最後のメッセージよ」
和子が透明な画面を直人に見せた。
そこには、現実世界のエグゼクティブ画面が表示されていた。
日時:2026年9月28日 23:51。
接続元:東京・東日本総合医療センター ターミナルルーム04。
『患者名:朝日 直人(デジタルアーカイブ・ID: N-8802)』
『ステータス:契約更新手続中』
『備考:本日24:00をもって、遺族による無料保持期間(1年間)が終了。クラウドサーバー維持契約の延長、またはデータの完全消去を選択してください』
直人は絶句した。
葵からの手紙にあった『十二時ちょう度に、いつもの場所で。三十分だけ話しましょう。』という意味。
それは、現実世界の葵が、今夜十二時を迎えるにあたって、直人のデジタルデータを完全に消去して「お別れ」をするか、あるいは莫大な費用を払ってサーバー契約を更新し、彼をデータとして残し続けるかを決断する、その「最後の三十分」のことだったのだ。
第五章 伏線の結び目
「06:45」
タイマーの数字が減っていく。
店内はもはや、定食屋の形を保ちにくくなっていた。
壁の木目はデジタルコードの列に変わり、トタン屋根を叩いていた雨音は、キーボードのタイピング音と冷却ファンが回る重低音へと変貌している。
「葵は……葵は今、どこにいるんだ?」
直人はかすれる声で尋ねた。
「彼女は今、病院のコンソールルームにいるわ」和子が言った。「ガラス越しに、あなたのサーバーユニットを見つめながら、ずっと泣いている。この一年間、彼女はあなたのデータを維持するために必死で働き、費用を払い続けてきた。でも、医療機関からは『これ以上、故人のデータに執着するのは彼女自身の人生を縛ることになる』と、今日の消去を勧められているの」
「彼女は……僕を消そうとしているのか?」
「迷っているのよ」和子は直人の手を握った。データの手は冷たかったが、そこに込められた優しさは本物だった。「だから、最後の三十分間だけ、あなたとの『接続』をリクエストしたの。彼女は十二時ぴったりに、このバーチャル空間にログインしてくる。そして、あなたと最後の三十分を過ごしたあと……決断を下す」
直人は、胸の奥が締め付けられるような激痛を感じた。
データになった自分に、心臓なんてあるはずがないのに。
(待てよ……)
直人は頭の中で、これまでのすべての違和感と、記憶の欠片を繋ぎ合わせ始めた。
――「あいつは、時間にだけは厳しいんです。特に『三十分』という数字には、なみなみならぬこだわりがある」
――「人間が集中力を保てる限界って、実は三十分なんですって。悲しむのも、怒るのも、人を愛するのも、一回につき三十分」
なぜ葵は、昔から「三十分」という時間にこだわり続けていたのか?
出会ったあの日、雨の定食屋で彼女が言った言葉。
直人は目を見開いた。
「和子さん……島田さん……。僕と葵が出会ったのは、本当に三年前なんですか?」
島田がふっと寂しそうに微笑んだ。
「気づいたかい」
「葵の……葵の家族は……?」
「彼女のお父さんだよ」島田が静かに言った。「葵さんのお父様は、五年前に事故で亡くなった。そして、彼女のお父様もまた……この医療センターの初期実験として、デジタルアーカイブに保存されていたんだ」
衝撃が直人を突き抜けた。
「葵は……高校生の時から、父親のデータと会うために、毎週医療センターに通っていたんだ。一回につき『三十分』の面会時間を守って。父親のデータが途中で壊れないように、悲しみが限界を超えないように……彼女は『三十分』という枠の中で、死者と向き合う術を誰よりも知っていたんだ!」
そうだったのだ。
彼女が『かざぐるま』で「三十分だけ雨宿りさせて」と言ったのは、現実世界で父親との三十分間のバーチャル面会を終えた直後、疲れ切った心を休めるためだったのだ。
彼女にとって「三十分」とは、生者と死者が触れ合える、許された唯一の奇蹟の時間だった。
「02:15」
カウントダウンが迫る。
もう時間はほとんどなかった。
「直人くん」和子が言った。「十二時になったら、葵さんがこの扉を開けて入ってくる。あなたは……彼女に何を伝えるつもり?『僕を消さないでくれ、ずっとここにいたい』と乞うこともできる。あるいは『もう楽にしてくれ、僕を消してくれ』と頼むこともできる。あなたの言葉が、彼女の決断を決めるわ」
直人は自分の手を見つめた。
指先はすでに透明な光の粒子となって溶けかけている。
彼は卓上の豚汁を見た。
もう湯気は上がっていない。だが、そこには和子が彼の記憶のために作ってくれた、温かい愛があった。
島田が持っていた白紙の文庫本を見た。そこには、これから描かれるはずだった未来のページがあった。
そして、自分が着ていた乾いたウインドブレーカー。
雨の日に濡れて帰ってきた自分を、葵がいつも「バカねえ」と言ってタオルで拭いてくれた記憶。
直人は深く、深く息を吸い込んだ。
データの身体に、確かな「意志」が満ちていくのが分かった。
「00:30」
「00:29」
「00:28」
店舗のドアに備え付けられた古い真鍮のベルが、カラン、と涼やかな音を立てて鳴った。
外の激しい雨のノイズが止み、完全な静寂が訪れる。
ドアが開いた。
そこに立っていたのは、レインコートを着た女性だった。
雨粒に濡れた髪、少し痩せた頬、そして……泣き出しそうな、けれど愛おしさに満ちた大きな瞳。
「直人……」
葵の声だった。
現実世界の、本物の葵の意識が、このネットワークの果てに接続されたのだ。
時計の針が、重なり合った。
十二時ちょうど。
卓上のタイマーが「00:00」を指し、電子音を鳴らした。
そして次の瞬間、タイマーの画面が自動的に再設定され、新しいカウントダウンを刻み始めた。
『29:59』
『29:58』
彼女と過ごせる、最後の「三十分」が始まった。
第六章 30分間の答え
葵はゆっくりと店内に入ってきた。
彼女が足を踏み出すたびに、崩れかけていた定食屋の空間が、色鮮やかな光を取り戻していく。彼女の「記憶」と「想い」が、この虚構の世界にリアルな質感を与えていくようだった。
「ごめんね、遅くなって」
葵は消え入りそうな声で言った。カウンターの椅子に腰掛け、直人の隣に座る。
「ううん。ぴったり十二時だよ。相変わらず時間に正確だな、葵は」
直人は微笑んだ。
和子と島田の姿は、すでに気配を消していた。ここからの三十分は、二人だけの領域だった。
葵は自分の両手をテーブルの上に置き、じっと直人の顔を見つめた。
「直人……ここ、寒くない? 寂しくない?」
「全然。和子さんの豚汁は美味しかったし、島田さんの話も面白かったよ。すごく居心地がいい場所だ」
「そっか……よかった」
葵の目から、一筋の涙がこぼれ落ち、テーブルに落ちた。その涙はデジタルデータのはずなのに、木目のテーブルに小さなしみを作った。
「私ね……今日、決めるために来たの」
葵は震える声で切り出した。
「この一年間、私、ずっとあなたの言葉を探してた。直人ならどうして欲しいのかなって。このままサーバーの中でおじいちゃんになるまで生き続けてほしいのか、それとも……私を解放するために、さよならを言いたがっているのか……」
直人は葵の手の上に、自分の手を重ねた。
触れ合った瞬間、お互いの心が直接流れてくるような温もりがあった。
「葵。僕ね、さっき思い出していたんだ。君が言っていた『三十分』の話」
葵がハッとして顔を上げた。
「人間が感情を保てるのは三十分が限界だって話。あれ、本当だったよ」
直人は優しく言った。
「僕ね、自分が死んだって知った時、すごく恐ろしかった。悔しくて、悲しくて、世界を恨みそうになった。でもね……この三十分間、君を待って、君の顔を見ていたら、その怒りも悲しみも、全部消えていっちゃったんだ」
「直人……」
「愛する気持ちも、感謝する気持ちも、三十分あれば十分なんだよ。それ以上長く持ち続けようとすると、執着になっちゃう。思い出が傷ついちゃうんだ」
直人は葵の目をまっすぐに見つめた。
「君は今まで、お父さんの時も、僕の時も、たくさんの『三十分』を死者のために使ってくれた。ずっと過去を振り返って、雨宿りをし続けてくれた。でもね、葵。雨はもう止んでいるんだよ」
直人が窓の外を指さした。
いつの間にか、不自然に流れ落ちていたガラス窓の雨粒は消え、雲の切れ間から澄んだ月光が差し込んでいた。
「僕の三十分は、今日で終わりだ。だから葵……最後のボタンを押してくれ」
葵は首を横に振った。ボロボロと涙が溢れ出していく。
「嫌だよ……! 押したら、本当にあなたが消えちゃう!画面の向こうでも会えなくなるんだよ!?」
「消えないよ」
直人は自分の胸を指さした。
「データとしての僕が消えても、君がこの『三十分』の思い出を持っている限り、僕は君の中で生き続ける。君がこれから歩いていく未来の、すべての三十分の中に、僕は一緒にいるんだから」
タイマーの数字が減っていく。
「10:00」
「05:00」
「01:00」
葵は大きく息を吸い込み、涙を拭った。
事故のあの日から止まっていた時間が、ゆっくりと動き出す音が聞こえる気がした。
彼女は鞄から自分のスマートフォンを取り出し、画面に表示された『データ削除承認ボタン』に指を置いた。
その手は、もう震えていなかった。
「直人」
葵は最高の笑顔を作った。三年前に出会ったあの夜と同じ、少し悪戯っぽくて、眩しい笑顔を。
「三十分間、つき合ってくれてありがとう」
「こちらこそ」
直人は微笑み、彼女の手を包み込んだ。
「最高の三十分だったよ。バイバイ、葵」
「00:00」
静かな電子音が鳴り響いた。
光が、溢れ出していった。
定食屋の風景が、カウンターが、湯呑みが、そして直人の姿が、柔らかい白い光の中に溶けていく。
葵は静かに目を閉じた。
指先の下で、スマホの画面が『処理が完了しました。ご利用ありがとうございました』という静かな表示に変わる。
目を開けると、そこは病院の冷たいコンソールルームだった。
ガラスの向こう側で、静かにファンを回していた黒いサーバーユニットのアクセスランプが、ひとつ、またひとつと消灯していく。
葵は立ち上がった。
窓の外を見ると、東の空が少しずつ白み始めていた。雨は完全に上がり、澄み切った朝の空が広がっている。
彼女は腕時計を見た。
午前六時ちょうど。
葵は深呼吸をし、病院のエントランスに向かって歩き出した。
これから始まる新しい一日へ向かって。
真っ直ぐに、力強い足取りで。




