最終話:歴史のさいを投げる
紀元前15年。ローマの冬は、大理石の彫像さえも凍てつかせるような静寂と共に訪れた。私の吐く息は白く、視界は朝霧で霞んでいる。だが、私の心はかつてないほど澄み渡っていた。
私は、生涯で最後となるであろう正装に身を包んでいた。かつてカエサルの軍団兵として泥にまみれた茶色のマントではない。元老院議員や貴族たちが纏う、上質な羊毛で織られた純白のトガだ。だが、その布の重みは、かつて背負った鎧や攻城兵器の部品よりも遥かに重く、私の老いた肩にずっしりと食い込んでいた。
私の腕の中には、革の紐で固く縛られた十巻のパピルスがある。それは単なる書物ではない。私が戦場で見た死、建設現場で流した汗、書斎で削り取った魂、そのすべてをインクに変えて定着させた、私の人生そのものだ。
「師よ、お迎えの輿が参りました」 弟子のマルクスが、緊張で声を裏返しながら告げた。彼の目には、誇らしさと、そして別れを予感する寂しさが入り混じっている。
「行こうか、マルクス」 私はゆっくりと立ち上がった。膝が軋むが、痛みはない。向かう先はパラティヌスの丘。ローマの守護者にして、この世界の唯一の頂点――インペラトル・アウグストゥスの御前である。
皇帝の宮殿は、圧倒的な「静謐」に支配されていた。かつてカエサルが暗殺され、血で洗うような内乱が続いたあの狂騒は、もう過去のものだ。そこにはアウグストゥスがもたらした「ローマの平和」が、冷徹な幾何学となって空間を満たしている。
謁見の間。 列柱の影が、冬の低い日差しによって長く伸び、床のモザイク画を切り裂いている。玉座に座るアウグストゥスは、まるで彼自身が神殿の御神体であるかのように微動だにしなかった。彼は私よりも遥かに若いが、その瞳には世界地図をすべて飲み込んだ者の、底知れぬ疲労と、氷のような知性が宿っている。
「ウィトルウィウス。……待っていたぞ」 皇帝の声は、劇場の音響効果のように、低く、しかし部屋の隅々まで響き渡った。「かつて我が義父カエサルと共に、ガリアの荒野で戦車を駆けた技師よ。……持ってきたか」
私は老体を折り曲げて跪き、震える手で十巻の書物を捧げ持った。 「陛下。これが、私が生涯をかけて集めた建築の真理。そして、陛下が築かれる帝国の礎となるべき『法』のすべてでございます」
侍従の手を経て、最初の巻物が皇帝の手に渡った。アウグストゥスは無言で紐を解き、パピルスを広げた。乾いた紙が擦れる「カサリ」という音が、広大な広間に、まるで落雷のように響いた。
皇帝の視線が、私の書いた序文の上を滑っていく。私は額に脂汗が滲むのを感じた。これは駆けだ。私はこの書の中で、皇帝の権威を称えつつも、建築家という職業を「皇帝の単なる道具」ではなく、「世界の理を知る賢者」として定義した。もし皇帝の機嫌を損ねれば、この書は焚書となり、私の名は歴史から消える。
「……ほう」 皇帝が、わずかに眉を動かった。「『建築家は、筆記に巧みであり、図画に熟達し、幾何学に通じ……哲学を聴き、音楽を知り、医学に通じ……』か」
皇帝は顔を上げ、私を射抜くように見つめた。「欲張りな老人だ。お前は、石を積む職人に、哲学者アリストテレスになれと言うのか?」
「恐れながら、陛下」 私は顔を上げ、声を絞り出した。「建築とは、国家そのものの姿でございます。土台が歪めば政が乱れ、比率が狂えば民の心も荒みます。陛下は今、煉瓦のローマを受け継ぎ、大理石のローマを残そうとされておられます。ならば、その大理石を支えるのは、職人の腕力ではなく、揺るぎない『知性』でなくてはなりません」
沈黙が落ちた。私の心臓の鼓動だけが、耳元でうるさく鳴り響く。アウグストゥスは、パピルスをゆっくりと巻き戻し、そして、かすかに微笑んだ。それは、支配者が見せる慈悲というよりは、同志に向ける共犯者の笑みだった。
「……良いだろう、ウィトルウィウス」 皇帝は言った。「私は軍事力で『外側の平和』を作った。だが、お前の言う通り、都市の内側に『秩序』がなければ、帝国はいずれ内側から腐り落ちるだろう。……この書を受け取ろう。これは、我が帝国の図書館に納められる」
皇帝は立ち上がり、窓の外に広がるローマの全景を見下ろした。「お前の名は、石に刻まれるよりも長く、人々の記憶に刻まれることになるだろう。『建築十書』……。これが、ローマの遺言となるか」
私は深々と頭を下げた。頬を、一筋の熱いものがつたった。かつて、バリスタで他者の家を焼き、城壁を砕いたあの破壊者が。今、この偉大な指導者の前で、未来を築くための言葉を認められた。私の人生は、この瞬間のためにあったのだ。
それから、どれほどの時が流れただろうか。季節は巡り、ローマには柔らかな春の風が吹き始めていた。だが、私の時計の針は、もう止まりかけていた。
私は自宅のテラスにある寝椅子に横たわり、ぼんやりと空を眺めていた。もはや、起き上がる力もない。視界は霧がかかったように白く、音は遠くの水底から聞こえるように鈍い。 マルクスが、私の冷たい手を握りしめ、何かを懸命に話しかけているのが分かるが、その言葉の意味はもう頭に入ってこない。
死が、近づいている。それは恐怖ではなかった。かつて私が恐れた「重力」が、ようやく私を許し、優しく大地の底へと招き入れているような感覚だった。
「……マルクスよ」 私は、もつれる舌を動かした。「はい、師よ。ここにいます」「私の書は……写本されたか?」
「はい。すでに十部が作られ、各地の図書館へ送られました。アレクサンドリアへも、アテネへも」
そうか。なら、いい。 私は目を閉じた。まぶたの裏に、私が愛した幾何学の世界が広がる。完全な円。絶対的な正方形。そしてその中心で、手足を広げて踊る人間たち。
ふと、奇妙な感覚に襲われた。風が吹いたのだ。テラスの風ではない。もっと遠く、時間の彼方から吹いてくる風だ。かつて感じた「空気の波紋」。私の残した言葉が、時間を超えて同心円状に広がっていくのが見える。
100年後。ローマは燃えているか? 500年後。私の書いたラテン語は、まだ通じるだろうか? 1000年後。……世界は深い静寂の中にあった。私の書いたパピルスは、修道院の埃っぽい棚の奥で、敬虔な修道士たちの手によって写し取られ、沈黙の中で守られている。
だが、その闇の向こう側に、私の知る「比率」を遥かに凌駕する、異形の光が見える。それは、石で作られた巨大な「レース」だった。壁を捨て、光を求めた名もなき者たちが、重力を嘲笑うように空へと石の骨格を突き立てている。私の説いた「剛健な厚壁」は消え去り、そこには色鮮やかな硝子の光が降り注いでいた。彼らは私の「数」を、神への祈りという名の「高さ」へと変貌させたのだ。
「……面白い。そう来たか、未来の若者たちよ」
私が投じた一石は、一度、その「光の迷宮」を彷徨うことになるだろう。秩序は一度解体され、祈りという名の狂気によって再構築される。だが、その迷宮のさらに先――。千五百年の時を超えた花の都フィレンツェで、再び私の名を呼ぶ男が現れることも、私は確信している。
「歴史のさいは……投げられた……」
指先から力が抜ける。重力が消え、私は純粋な「比率」だけの存在となり、天上の円環へと溶けていく。 私の魂を乗せた言葉の礫は、ローマの石畳を跳ね、泥濘の中世を突き抜け、やがて霧深い北方の森へと到達する。
――十二世紀、フランス。 湿った土の匂い、鈍色の空が垂れ込める建設現場。そこには、古代の「安定」を捨ててまでも、天の光を直接掴み取ろうとする一人の男が立っていた。
第二の物語、ゴシック ―― 闇を裂く光の階。 その幕が、今、静かに上がろうとしている。
(第一章:ウィトルウィウスの物語 古代ギリシャ・ローマ建築編 完)
マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオ
(Marcus Vitruvius Pollio, 紀元前80年頃 - 紀元前15年頃)
現存する世界最古の建築理論書『建築十書(De Architectura)』を記した、古代ローマの建築家・技術者。
軍人としての顔: ユリウス・カエサルのローマ軍団に所属し、工兵としてガリア戦争などに従軍しました。建築家といっても宮殿ばかり造っていたわけではなく、攻城兵器バリスタやスコーピオンの設計・整備を担当する、バリバリの軍事技術者でした。小説で描いた「破壊を知る者」という設定は、この経歴に基づいています。
アウグストゥスへの献呈: カエサルの死後、初代皇帝アウグストゥスに仕え、ローマの平和な治世を支えるために『建築十書』を献上しました。
「強・用・美」の提唱者: 建築には3つの要素が不可欠であると説きました。
強(Firmitas): 自然災害に耐えうる堅牢さ。
用(Utilitas): 使いやすく、機能的であること。
美(Venustas): プロポーションが調和し、美しいこと。 この定義は、2000年経った現代の建築学でも基本とされています。




