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ヨーロッパ建築の記憶 〜時代を築いた九人の巨匠〜  作者: 歴史の学び直し
第一章:ウィトルウィウスの物語(古代ギリシャ・ローマ建築)
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第五話:不滅の十書

 ローマの夜は、泥のように重い。ファヌムのバシリカを完成させてから、数年の月日が流れていた。私の髪は冬の霜のように白く変わり、かつてガリアの戦場で重い攻城兵器を組み立てた腕は、今や陶器のカップを持ち上げるだけで微かに震えるようになっていた。


 だが、私の戦いは終わっていなかった。むしろ、本当の闘争はここから始まったのだ。石を積むことなど、これに比べれば児戯に等しい。私は今、人生で最も巨大で、最も困難な「建築」に挑んでいる。それは、空間に建てるものではない。時間の中に建てるものだ。  ――『建築十書デ・アーキテクトゥラ』。


 深夜の書斎。安物のオリーブ油が燃える独特の臭いが、部屋に充満している。壁には、私が生涯をかけて収集した無数の図面、ギリシャ語のパピルス、そして私自身が書き殴ったメモが、あたかも怪物の鱗のように張り付けられていた。


 私は、インク壺に葦ペンを浸す。先端から滴る黒い雫。それが、私の残り少ない命そのものに見えた。


「……言葉が見つからん」


 私は低く唸り、書きかけたパピルスを握りつぶした。乾いた音が、静寂を引き裂く。私の目の前にある壁は、「翻訳」という名の絶壁だった。建築の真理は、すべてギリシャ人が発見した。彼らはそれを「ハルモニア(調和)」や「エウリュトミア(整った形)」といった美しい言葉で定義している。だが、我々ローマ人の言葉(ラテン語)は、農民と兵士の言葉だ。「耕す」「戦う」「支配する」ための単語は豊富だが、「抽象的な美」を語る語彙が決定的に欠けている。


 どうすればいい?この崇高な概念を、どうすれば無骨なローマの石工たちに、あるいは政治家たちに理解させることができる?


「師よ。また悩み事ですか」


 背後から、弟子のマルクスが部屋に入ってきた。手には、夜食の干しイチジクと薄めたワインの盆を持っている。彼もまた、私の狂気じみた執筆生活に付き合い、目の下に濃い隈を作っていた。


「マルクス、私は今、新しい言葉を造っているのだ」  私は血走った目で彼を見た。 「ギリシャの『シンメトリア』という言葉だ。これは単なる左右対称ではない。指と手、手と腕、腕と全身……それら部分と全体が、ある一定の比率で連動している状態を指す。だが、これをローマ語でなんと言えばいい? 『釣り合い』か? 『比例』か? 違う、どれも軽すぎる!」


 私は机を叩いた。 「いいかマルクス。私はただのマニュアルを書いているのではない。私は、ローマという野蛮な国に、『知性』という背骨を通そうとしているのだ。剣で世界を征服することはできる。だが、文化で世界を征服しなければ、ローマはただの巨大な暴力装置で終わるだろう」


 マルクスは溜息をつき、私の背中に毛布を掛けた。 「師の情熱は分かります。ですが……第1巻の構成案を見て驚きましたよ。建築家に必要な教養として、医学、音楽、天文学、果ては哲学まで挙げているではありませんか。これでは、誰も建築家になれません」


「なれなければ困るのだ!」  私はワインを一気に煽り、枯れた喉を潤した。 「お前も現場で見たはずだ。単に石を積むだけの親方が造った家を。風通しが悪く、湿気が溜まり、住む者が次々と熱病にかかるあの家を。あれは殺人だ。剣を使わない殺人なのだ」


 私は新しいパピルスを広げ、震える手で図を描き始めた。 「医者は、病人を治す。だが建築家は、都市そのものを健康に保たねばならない。そのためには『医学』を知り、風向きと日当たりを知らねばならん。だから『天文学』が必要なのだ」


 私の脳裏に、第1巻第1章の冒頭が浮かび上がった。  ――建築家は、筆記に巧みであり、図画に熟達し、幾何学に通じ、歴史を多く知り、哲学を聴き、音楽を知り、医学に通じ、法律を知り、天文学の理論を把握していなければならない……。


 これは、未来の同業者たちへの挑戦状だ。単なる技術屋で終わるな。世界全体を設計する「知の巨人」であれ、という。


 執筆は、肉体労働だった。第3巻と第4巻で「神殿」と「柱」について書き終えた頃には、私の右手の指は変形し、ペンの形に固まってしまっていた。だが、筆を止めるわけにはいかない。次は、第5巻。「劇場」と「音楽」だ。


 私は深夜、机の上に青銅の器を並べ、それを小さなハンマーで叩いていた。キーン……という澄んだ音が、狭い書斎に響く。


「音とは何か。それは空気の波紋だ」  私は独り言を呟く。 「水面に石を投げれば波が広がる。音も同じだ。半円形の劇場において、役者の声という『石』を、いかにして客席の隅々まで波紋として届けるか」


 ここで、私の軍人としての過去が顔を出す。バリスタの弦を張る時、左右の弦の張力が均等でなければ、石は真っ直ぐ飛ばない。その張力を確かめる時、我々は弦を弾き、その「音程」を聞き分けた。兵器の調整も、楽器の調律も、根底にある数式は同じなのだ。


 私はパピルスに、音階の図を描き込む。ギリシャの賢人アリストクセノスの理論を、ローマの劇場設計に応用する。  ――客席の下に、計算された空洞を作り、そこに調律した青銅の壺を設置せよ。それは声を増幅させる魔法の共鳴装置となる。


 書き進めるうちに、不思議な感覚が私を襲った。書斎の壁が透け、未来の光景が見えるような錯覚に陥るのだ。私の理論に基づいて建てられた巨大な石造りの劇場。そこで何千人ものローマ市民が、一人の詩人の朗読に耳を傾け、涙している。私の書いた「数字」が、感動という「感情」に変換されている。これこそが建築だ。石と数字を使って、人の心を震わせる魔術。


 季節が巡り、ローマに夏の熱気が訪れた頃、私は第8巻「水」の章に取り組んでいた。老いた体には、この暑さが堪える。だが、だからこそ「水」の尊さが身に染みた。


 私は、自分がかつて水道建設の現場で、水脈を探して荒野を歩き回った日々を思い出していた。早朝、日が昇る前に地面に伏せ、湿った土から立ち上る微かな湯気を見る。特定の植物――イグサや葦――が生えている場所を探す。水は、都市の血液だ。どんなに美しい神殿があっても、清らかな水がなければ文明は死ぬ。


「マルクス……。水道の勾配についてだ」  私は汗を拭いながら、書記机に向かう弟子に声をかけた。 「100フィートにつき、最低でも半フィートの下り勾配が必要だ。水は正直だ。少しでも計算を誤れば、水は停滞し、腐り、疫病を呼ぶ。……書き記しておけ。水路の内壁には、油を混ぜた特別な漆喰を塗れとな」


 マルクスは黙々と筆を走らせている。彼も気づき始めていた。この書物が、単なる建築書を超えて、国家運営のマニュアルになりつつあることを。


 そして、最後の難関。第10巻。「機械マキナ」について。ここで私は、あえて建築の領域を逸脱し、軍事技術について筆を執った。投石機、攻城塔、水汲み水車。なぜ平和のための建築書に、兵器のことを書くのか?


 それは、この書物を捧げる相手が、皇帝アウグストゥスだからだ。彼は平和をもたらしたが、その平和は圧倒的な軍事力によって維持されている。私は、彼に伝えたかったのだ。  「陛下。建築家とは、平和な時には都市を美しく飾り、戦時には最強の盾となる。この二つは表裏一体、同じ『技術』から生まれる双子の兄弟なのです」と。


 バリスタの構造図を描きながら、私は自嘲した。結局、私は最後まで「破壊」と「創造」の間を揺れ動く振り子だった。だが、その矛盾こそが、私の建築を強固なものにしたのだ。


 ある夜明け前。私はついに、最後の巻物を巻き終えた。全十巻。積み上げれば、私の膝の高さまであるパピルスの塔。 インクの染みた指先は感覚がなく、目は霞んでほとんど見えない。だが、胸の中には、奇妙なほど澄み切った静寂があった。


「……終わったか」


 誰もいない部屋で、私は呟いた。その声は、ファヌムのバシリカが完成した時の歓喜の叫びとは違う。もっと静かで、深い、海の底のような安堵だった。


 私は立ち上がり、よろめく足で窓辺に立った。東の空が白み始めている。ローマの街並みが、青白い朝霧の中に浮かび上がっていた。そこにあるのは、雑然とした煉瓦の家々、未完成の神殿、曲がりくねった路地。まだ、私の理想とする「秩序ある都市」にはほど遠い。


 だが、私には見える。この書物が読まれ、写本され、全土に広まった後の世界が。私の定めた「比率」に従って、整然と並ぶ列柱。私の考案したコンクリート(ローマン・コンクリート)によって、空を覆う巨大なドーム屋根。清潔な水が溢れる水盤。 一瞬、幻を見た。窓の外のローマの風景が、高速で変容していく。石が組み変わり、より高く、より巨大に、より美しく。  私の知らない時代の、私の知らない建築様式。だが、その根底には、必ず「円と正方形」の人体図が刻印されている。


「……ふふ」


 笑いがこみ上げてきた。私は死ぬだろう。この肉体は土に還り、原子へと分解される。だが、私の思考は、このパピルスという翼を得て、永遠に飛び続けるのだ。1000年後の建築家が、壁の厚さに悩んだ時、彼は必ず私に相談しに来る。  「ウィトルウィウス先生、どうすればいいですか?」と、この本を開くのだ。


 私は、未来の友と会話ができる。これ以上の幸福が、どこにあるだろうか。


 扉が開き、マルクスが顔を出した。 「師よ、朝です。……それは?」  彼は机の上に積まれた十巻の書物を見て、息を呑んだ。


「完成だ、マルクス」  私は、我が子を抱くように書物に手を置いた。 「これを、皇帝陛下の元へ。……いや、その前に」


 私は一番上の巻物、第1巻を手に取り、その冒頭の一文を指でなぞった。そこには、私が生涯をかけて辿り着いた確信が、見えないインクで記されている。


 ――建築とは、人間そのものである。


「マルクス。私が死んだら、墓石には何も掘らなくていい」 「そんな、不吉なことを」 「いいや、事実だ。私の墓は、このローマという都市そのものなのだから」


 私は窓を大きく開け放った。朝の光が書斎に雪崩れ込み、埃っぽい部屋を黄金色に染め上げた。風が吹き抜ける。それは、新しい時代のページをめくる音のように聞こえた。

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