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ヨーロッパ建築の記憶 〜時代を築いた九人の巨匠〜  作者: 歴史の学び直し
第一章:ウィトルウィウスの物語(古代ギリシャ・ローマ建築)
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第四話:石に宿る魂

 雨が降っていた。ローマの冬の雨は、空から落ちてくるというよりは、鉛色の絵の具が空気を侵食していくかのように重く、冷たい。私は、アドリア海沿岸の街ファヌム(Fanum Fortunae)に建設中の、バシリカ(公会堂)の現場に立っていた。足元はぬかるみ、数千の高価なサンダルを飲み込む泥の海と化している。


 だが、私の体を芯まで冷やしているのは、この雨ではなかった。目の前に鎮座する巨大な基壇石。その表面に走った、髪の毛一本ほどの亀裂。その黒い線が、私には死神の鎌の軌跡に見えた。


「……言ったはずだ、ウィトルウィウス」


 背後から、現場監督のルキウスの声がした。雨音に混じっても、その声に含まれる嘲りの色は消えていない。 「あんたの『黄金の比率』は、神殿の模型を作るにはいいだろうさ。だがここは現実だ。あんたがギリシャかぶれの理屈で柱を細くし、梁のスパンを広げた結果がこれだ。重力が、あんたの芸術を笑っているぞ」


 私は無言で、濡れた石に手を這わせた。指先に伝わる微細な段差。これは表面の傷ではない。構造的な悲鳴だ。このバシリカは、私が第3話で見出した「人体の比率」を初めて適用した野心作だった。柱はイオニア式の優美なプロポーションを持ち、空間は光に満ち溢れるはずだった。だが、石を積み上げた途端、地盤が悲鳴を上げたのだ。


「地盤沈下だ」  弟子のマルクスが、雨水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら報告に来た。 「昨夜の雨で、西側の土壌が緩みました。一点にかかる荷重が限界を超えています。師よ……このまま工事を続ければ、屋根を乗せた瞬間に、バシリカは崩壊します」


 周囲の職人たちの視線が痛い。彼らは口にこそ出さないが、目は語っていた。  ――所詮は、軍上がりの技術屋か。  ――あるいは、老いぼれの妄想か。彼らの信頼が、雨と一緒に流れ落ちていく音が聞こえるようだった。


 私は目を閉じた。  『全ては人体が語っている』。私はそう断言した。ならば、この失敗もまた、人体の中に答えがあるはずだ。私は雨の中で、自分自身の肉体に意識を潜らせた。私は今、泥の中に立っている。足の裏はどうなっている? ただ平らに置かれているのではない。足の指が泥を掴み、足首の関節が微細に振動し、ふくらはぎの筋肉が鋼のように張り詰めて、不安定な地面からの反作用を相殺している。 そうだ。人間が立っていられるのは、美しいからではない。「骨」と「筋肉」という、醜いほどの抵抗機構が内部にあるからだ。


 美しさ(Venustas)だけでは、建築は立たない。強さ(Firmitas)。圧倒的な、自然をねじ伏せるほどの強さがなければ、美しさはただの脆い夢だ。


「……掘れ」  私の口から漏れた言葉は、雨音にかき消された。  私は腹の底から声を張り上げた。 「掘るのだ! 基壇を外せ! 石を退けろ!」


 ルキウスが血相を変えて詰め寄った。 「正気か!? もう工期は半分過ぎているんだぞ! 今から基礎をやり直すだと? 予算はどうする! 誰がその金を出すんだ!」


「金の話は私が皇帝陛下とする!」  私はルキウスの胸倉を掴み返した。老いた腕のどこにそんな力が残っていたのか、大男のルキウスがたじろいだ。 「今、我々が戦っているのは金ではない。地球だ。この巨大な獣のような重力だ。獣を黙らせるには、小手先の修正では効かぬ。その足元を、鋼のように固めるしかないのだ!」


 私は泥の中に杖を突き立て、叫んだ。 「杭を持ってこい! 焦がしたハンノキ(Alnus)だ! 一本や二本ではない。森を一つ丸ごと切り倒して持ってこい!」


 その日から、現場は地獄と化した。 優雅な神殿建設の現場は、泥と騒音にまみれた土木工事の戦場へと逆戻りした。


 私の指示は狂気じみていた。基壇の下を深く掘り返し、そこへ先端を焼き焦がしたハンノキの杭を打ち込む。  ドスン、ドスン、という杭打ち機(重りをつるした滑車)の音が、昼夜を問わずファヌムの街に響き渡る。  職人たちは泥まみれになりながら、杭を隙間なく、まるで蜂の巣のようにびっしりと地面に打ち込んでいく。 「杭の頭が揃うまで打て! 隙間を作るな!」  私は怒号を飛ばし続けた。


 さらに、私は「ローマの秘密兵器」を投入した。ポッツォラーナ(火山灰)だ。ヴェスヴィオ火山の周辺で採れるこの灰は、石灰と混ぜると水の中でも固まる性質を持つ。私は杭と杭の隙間に、この特製のモルタルを流し込ませた。ハンノキは水に浸かると腐らない。そして火山灰のモルタルは、時が経つほどに石よりも硬くなる。  私は、泥の海の底に、人工の岩盤を造り出そうとしていたのだ。


 しかし、その代償は大きかった。数週間後、ローマから財務官が視察にやってきた。絹のトガを泥で汚さないよう、輿に乗ったまま現場を見下ろすその男は、軽蔑を隠そうともしなかった。


「ウィトルウィウス殿。報告によれば、あなたは装飾用の大理石を買うはずの予算を、すべて泥の中に埋めてしまったそうではないか」財務官の声は冷ややかだった。「皇帝陛下は、ローマの威光を示す輝かしいバシリカを望まれた。だが、目の前にあるのはなんだ? 泥沼と、木の棒きれだけだ。あなたはローマの金貨をドブに捨てているのか?」


 現場の空気が凍りついた。職人たちが手を止め、私の背中を見つめている。私は泥だらけの手を拭おうともせず、輿の前に進み出た。


「財務官殿。あなたは人体において、最も金がかかっている場所はどこだと思われますか?」 「なんだと? ……髪飾りや、衣装であろう」 「いいえ。骨です」  私は自分の肋骨を叩いた。 「見栄えの良い皮膚や髪を作るのは容易い。しかし、それを支える骨格が脆ければ、人は病み、死にます。一度死ねば、いくら着飾ろうと死体は死体だ。建築も同じです」


 私は足元の、杭が打ち込まれた地面を指差した。 「この地下には、確かに莫大な金が埋まっています。誰の目にも触れず、誰からも賞賛されない木材たちが。……ですが、百年後を見てください」 「百年後だと?」 「はい。百年後、あなたの着ているその美しいトガは朽ち果て、私の肉体も灰になっているでしょう。ですが、このバシリカだけは立っています。なぜなら、私が『見えない場所』にこそ、最大の誠実を注ぎ込んだからです」


 私は財務官の目を射抜くように見つめた。 「ローマの栄光とは、表面の金箔のことですか? 違います。ローマがローマたる所以は、見えないインフラ――水道、道路、法律、そしてこの『基礎』にあるはずだ。私が埋めているのは金貨ではない。ローマの永劫アイオーンです」


 財務官は言葉を失った。しばらくの沈黙の後、彼は「……完成した暁には、その言葉が真実か虚勢か、はっきりするだろう」と言い捨てて去っていった。首の皮一枚がつながった。


 だが、本当の戦いはこれからだった。 基礎が固まった後、再び石を積み上げる時が来たのだ。


 私は、柱の設計にも修正を加えた。 イオニア式の柱頭。その特徴である渦巻き装飾ボルートを、単なる飾りとして扱うのをやめた。私は職人に命じて、渦巻きの幅を広げ、その上の受けアバクスを厚くした。


「これは枕だ。渦巻き(ボルータ)は、天からの重みを優しく受け流すためにある」  私は職人たちに説明した。 「人間の背骨の間には、軟骨がある。あれが衝撃を吸収しているのだ。この渦巻きは、屋根の重さを優しく受け止め、柱へと流すための『軟骨』だと思え」


 職人たちの目に、理解の色が宿り始めた。彼らはもう、私を狂った老人とは見ていなかった。私が語る「人体」の話が、比喩ではなく、構造力学の真理であることを肌で感じ始めていたのだ。


 そして、運命の日が訪れた。全ての柱が立ち、屋根が架けられ、最後の足場が外される日。雨は上がり、冬の澄んだ空気がファヌムの街を包んでいた。


 ルキウスが震える手で合図を送る。巨大な滑車が回り、足場がゆっくりと解体されていく。    ギシッ……。  屋根の全重量が、柱にかかる音がした。数千トンの重みが、梁を通り、柱頭のクッション(渦巻き)を通り、柱を伝い、基壇を抜け、そして地下深くに眠る数千本のハンノキの杭へと到達する。


 全員が息を呑んだ。  沈むか。  割れるか。


 ……音は、しなかった。バシリカは、微動だにしなかった。まるで最初からそこにあった岩山のように、静寂の中に堂々と立ち尽くしていた。


「……勝った」  誰かが呟いた。その声はさざ波のように広がり、やがて爆発的な歓声へと変わった。職人たちが抱き合い、空へ向かって叫んでいる。ルキウスが私の元へ歩いてきた。あの大男が、子供のように目を赤くしている。 「ウィトルウィウス……。あんたの言った通りだ。重力が、降参しやがった」


 私はバシリカを見上げた。  美しい。  だが、その美しさは、以前私が紙の上で描いた「線の美しさ」とは別物だった。それは、重力という暴力と戦い、血を流し、泥にまみれ、それでも立ち続けることを選んだ、強靭な意志が放つ美しさだった。


 私は震える手で、懐から手帳を取り出した。書き加えなければならない。建築には「比率」だけでは足りない。そこには、三つの要素が不可分なものとして存在しなければならないのだ。


 私は木炭を走らせた。


 強(Firmitas)。  自然の猛威に耐え、崩れぬこと。見えざる基礎に誠実であること。


 用(Utilitas)。  使う人々を守り、機能を果たすこと。


 美(Venustas)。  そして、それら全てが調和し、見る者の魂を震わせること。


 この三つは、三位一体だ。強さのない美は虚飾であり、美のない強さは野蛮だ。私は今日、泥の中でその真理を知った。


 「師よ、中へ入りましょう! 光が……光が綺麗です!」  マルクスが手招きしている。私は泥だらけのサンダルを引きずり、バシリカの内部へと足を踏み入れた。


 高い窓から差し込む光が、白い大理石の床に落ちている。その光の中で、柱たちは静かに呼吸をしていた。私は柱に触れた。冷たい石の感触の奥に、確かに温かい血が流れているのを感じた。それは、私たちが注ぎ込んだ汗と、地下に埋めた木々の魂だった。


 私は柱の陰で、人知れず涙を拭った。破壊者だった私が、ようやく何かを遺せた。このバシリカは、私が死んだ後も、ローマが滅びた後も、きっと立ち続けるだろう。なぜなら、これは石で作られた「人間」なのだから。


 だが、物語はここで終わらない。この成功は、私にさらなる大きな使命を突きつけることになる。私はこの知識を、私一人のものにして墓場へ持っていってはならない。 私は皇帝アウグストゥスの顔を思い浮かべた。次はいよいよ、この真理を「書物」という形にして、永遠に固定しなければならない。それは、石を積むことよりも遥かに困難で、孤独な戦いになるはずだ。


 私はバシリカを後にした。背中で輝く白い建築が、私に「行け」と命じている気がした。

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