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ヨーロッパ建築の記憶 〜時代を築いた九人の巨匠〜  作者: 歴史の学び直し
第一章:ウィトルウィウスの物語(古代ギリシャ・ローマ建築)
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第三話:肉体という小宇宙(ミクロコスモス)

 ローマの午後は、白濁した湯気と、鼻をつくオリーブオイルの匂いに満ちていた。私はアグリッパがカンプス・マルティウスに建設した公衆浴場テルマエの、大理石のベンチに深く腰を下ろしていた。老いた背骨が、熱を帯びた石の硬さに悲鳴を上げる。だが、この痛みだけが、私がまだ現世に留まっている証のようにも感じられた。


 視界の先では、数百人の男たちが全裸で行き交っている。彼らの肌は蒸気で濡れ、窓から差し込む陽光を浴びてテラコッタのように輝いていた。政治の議論に花を咲かせる元老院議員、昨夜の博打の負けを嘆く商人、そして戦傷を自慢し合う兵士たち。金属製の肌かきストリジルが、油と汗にまみれた皮膚をこそぎ落とす「ジャリ、ジャリ」という音が、巨大なドーム屋根に反響し、まるで蜂の巣の中にいるような羽音となって私の鼓膜を叩く。


 私は自分の腕を見た。かつてガリアの森で剣を振るった腕は、今や枯れ木のように痩せ細り、浮き出た血管が不格好な地図を描いている。 「……醜いな」  自嘲が漏れた。建築家とは因果な商売だ。永遠に残る美を追い求めながら、自分自身の(肉体)は刻一刻と崩壊していくのだから。


 ふと、隣に座っていた大柄な男が立ち上がった。荷運び人夫だろうか、丸太のような太腿を持つ男だ。彼が床に置いた重い水桶を持ち上げようと、膝を曲げ、腰を落とした瞬間――。


 私の技術者としての目が、無意識に「解析」を始めた。


 腓腹筋(ふくらはぎ)が収縮し、踵が上がる。大腿四頭筋が膨張し、骨盤という名の支点が固定される。背骨が弓のようにしなり、負荷を分散させる。


 その一連の流れるような動作を見た時、私の脳裏に、かつて戦場で整備したバリスタ(攻城兵器)の記憶が重なった。腱は、動物の腸を編んで作った「ねじりバネ」だ。骨は、強固な樫の木で作った「アーム」だ。関節は、油を差した「滑車」だ。


 いや、違う。順序が逆だ。我々人間が知恵を絞って作った兵器や機械は、すべてこの「肉体」という、神が設計したオリジナルの模造品に過ぎないのではないか?我々が造る機械には、常に「摩擦」という無駄がある。部品同士が擦れ合い、熱を持ち、やがて壊れる。だが、目の前の若者の肉体はどうだ。数百の筋肉と骨が連動しているにもかかわらず、そこには一切の澱みがない。完璧なエネルギー変換効率。   「……完璧な、機械だ」


 私は蒸気で霞む目をこすった。ここには「答え」がある。私が書斎で悩み、パピルスの上で計算しても解けなかった「建築の究極の比率」が、この汗臭い空間に無造作に転がっている。


 私は居ても立っても居られず、浴場を出た。濡れた体に冷たい風が張り付くのも構わず、隣接するパライストラ(運動場)へと急いだ。


 そこは、屋根のない開放的な回廊に囲まれた砂地だった。若者たちがレスリングや円盤投げ、槍投げに興じている。砂埃が舞い、肉体同士がぶつかり合う鈍い音が響く。私は回廊の柱の陰に身を隠し、獲物を狙う狩人の目で彼らを観察した。


 一人の槍投げ選手が目に留まった。ギリシャの※1彫刻家ポリュクレイトスが『ドリュフォロス(槍を持つ人)』として彫り出しそうな、理想的な均整を持つ男だ。彼が投擲の準備のために、槍を水平に構え、両手を大きく真横に広げた。


 その瞬間、世界が凍りついた。


 私の視界に、目に見えないグリッド線が走った。私は懐から手帳を取り出し、震える手で木炭を走らせた。


 まず、彼が直立し、両手を広げた姿。私は自分の親指を定規代わりにして、遠近法で彼の寸法を測る。右手の指先から、左手の指先までの長さ。頭のてっぺんから、足の裏までの長さ。……同じだ。完全に一致する。つまり、人間が両手を広げた時、そのシルエットは完璧な「正方形」の中に収まるのだ。


「正方形……地上の秩序」


 建築において、正方形は安定と平等の象徴だ。それが、我々の体の中に組み込まれている。だが、それだけではないはずだ。神の設計が、そんな単純な図形だけで終わるはずがない。


「おい、そこの若いの!」私はたまらず声を上げた。回廊の陰から薄汚い老人が飛び出してきたことに、選手たちはぎょっとして動きを止めた。「頼む、そのまま動くな。いや、違う。今度は手足を広げてみてくれ。そう、空中の鳥のように! 大の字に!」


 若者は気味悪そうに私を見たが、私のあまりの剣幕と、身につけている外套が良質なものであることに気づき、渋々従った。彼が足を大きく開き、両手を斜め上に掲げる。


 私は息を呑んだ。重心が変わった。直立不動の時の重心は骨盤のあたりにある。だが、手足を広げた時の「中心」はどこだ?  全ての四肢の頂点から、等距離にある一点。


 ――へそ(アンビリクス)だ。


 私の目は、彼が引き締まった腹の中央に持つ、小さなくぼみに吸い寄せられた。そこを中心点として、コンパスの針を刺す。そしてぐるりと回す。私の脳内で、炎のラインが走った。指先、反対の指先、右足のつま先、左足のつま先。それら全てが、へそを中心とした一つの「円」の軌道上に、狂いなく乗っている。「アンビリクス」こそが、天の円と地の正方形を結ぶ不動の中心点なのだ


「円……天上の完全性」


 膝が震えた。私はその場に崩れ落ちそうになるのを、柱にしがみついて堪えた。正方形と円。この世で最も根源的で、かつ相容れないはずの二つの幾何学。それが、一人の人間という肉体の中で、矛盾なく重なり合っている。これは奇跡だ。いや、証明だ。人間とは、泥から作られた人形ではない。小宇宙ミクロコスモスなのだ。宇宙の運行法則そのものが、この小さな皮膚の袋の中に凝縮されているのだ。


 私の頬を、涙がつたった。美しい。あまりにも合理的で、あまりにも美しい。私が今まで悩んでいた「柱の太さ」や「神殿の高さ」の悩みなど、この真理の前では児戯に等しい。答えは最初からここにあったのだ。我々の体の中に。


 私は手帳を握りしめ、走り出した。どこへ行く気だ? 決まっている、現場だ。私の発見を待っている、あの石の塊たちの元へ。


 ローマの街中を、狂人のように走った。スブッラの雑踏を抜け、フォロ・ロマーノへ。今まで見慣れていた風景が、全く違って見えた。市場の屋台の高さ、凱旋門のアーチのカーブ、石畳の幅。それら全てに対して、私の脳が勝手に「人体との誤差」を計算し始める。 「あの屋根は低すぎる、頭蓋を圧迫する」 「あの階段は急すぎる、足首の関節の可動域を無視している」  世界が、数字の網メッシュ()で覆われていく。


 建設中の神殿に辿り着いた時、日は既に傾きかけていた。夕日が、並び立つドーリア式の円柱を赤く染めている。職人たちは一日の仕事を終え、道具を片付けている最中だった。


「師匠! またどこへ行っていたんですか!」  弟子のマルクスが、呆れたように駆け寄ってくる。「現場監督がカンカンですよ。明日の朝までに柱の設計変更が決まらなければ、工事を中断すると……」


「マルクス」


 私は弟子の肩を掴んだ。私の手は汗と興奮で冷たくなっていた。 「レグラ(定規)を捨てろ」 「は?」 「既存の定規はすべて捨てろ。我々には、もっと正確な定規がある」


 私は彼を、積み上げられた巨大な円柱の前に引っ張っていった。直径1メートルはある、巨大な大理石のドラム(円筒)だ。 「マルクス、お前の足の大きさを測れ」 「足、ですか?」 「そうだ。そして、その長さで、この柱の根元の直径を測るのだ」


 マルクスはわけが分からないまま、自分のサンダルを脱ぎ、柱の切り口に足を当てた。 「ええと……一つ、二つ……ちょうど、足六つ分です」 「そうだ! 六つ分だ!」  私は叫んだ。 「男の足のサイズは、身長の六分の一だ。だから、男神を祀るこのドーリア式神殿において、柱の高さは、根元の太さの六倍でなければならない!」


 周囲の職人たちが、手を止めて集まってきた。 「おい、爺さん何言ってんだ?」 「六倍? なんで足なんだ?」


 私は足元の石板を拾い上げ、先ほど見た「円と正方形の人体図」を、石の表面にガリガリと刻みつけた。火花が散るほど強く、深く。


「見ろ。これが神の設計図だ。  顔の長さは身長の十分の一。  手首から中指の先までも十分の一。  胸の幅は四分の一。  この比率を守らない建物は、たとえ黄金で飾ろうとも、生理的な不快感を人間に与える。なぜなら、それは『自分自身』と似ていないからだ」


 私は職人たちを見回した。彼らは荒くれ者だが、美しさに対しては正直な目を持っている。彼らの視線が、私の描いた図と、自分たちの手足を行き来する。 「……確かに」  一人の老職人が呟いた。 「俺たちの親方は、いつも『親指の幅で測れ』と言っていた。インチ(親指幅)って単位は、そこから来てる。俺たちの体自体が、道具だったってことか」


「その通りだ」  私は頷いた。私は建築家ではない。私は翻訳者に過ぎない。神が肉体に書いた暗号を、石に書き写すだけの存在。


 私は神殿の奥、薄暗い内陣(セラ)を見上げた。そこにはまだ神像はない。だが、私には見える。この数学的秩序によって組み上げられた空間そのものが、神なのだ。


「マルクス、羊皮紙だ。今すぐ持ってこい」  私は柱の基壇に座り込んだ。膝の震えは止まっていたが、今度は指先が情熱で震えていた。 「書くのですか? 『建築書』の続きを」 「ああ。第3巻、第1章。『神殿の構成と均衡について』だ」


 夕闇が迫り、誰かが松明を灯した。揺らめく炎の中で、私はペンを走らせる。インクが紙に染み込む速度すらもどかしい。


 ――人体の設計において、自然は次のような仕組みを与えた。  ――すなわち、顔は顎から額の生え際までで、身長の十分の一であり……。  ――へそは、人体の中心である……。


 風が吹き抜け、書きかけの羊皮紙をめくった。その風は、かつて戦場で感じた血生臭い風ではない。未来から吹いてくる風だ。1500年後、フィレンツェの片隅で、あるいはミラノの工房で、まだ見ぬ天才たちがこの記述を読み、私と同じように打ち震える姿が見える。


 私は、孤独ではなかった。この「比率」という真理の中にいる限り、私は過去の創造主とも、未来の芸術家とも繋がっている。   「……全ては、人体が語っている」


 私はペンを置き、夜空を見上げた。星々が、完璧な円を描いて回っていた。



ーーーーーーーーーーー



※1彫刻家ポリュクレイトス: 紀元前5世紀のギリシャの巨匠で、人体の理想的な比率カノンを数学的に体系化し、傑作『槍を持つドリュフォロス』によって「動的な均衡」を確立した人物です。


※2フォロ・ロマーノ: 古代ローマの中心部に位置する公共広場で、政治・経済・宗教の重要施設が密集し、国家の心臓部としてあらゆる道と権力が集まる場所でした。

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