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ヨーロッパ建築の記憶 〜時代を築いた九人の巨匠〜  作者: 歴史の学び直し
第一章:ウィトルウィウスの物語(古代ギリシャ・ローマ建築)
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第二話:迷宮の数式

 夜が深い。永遠の都ローマが寝静まり、※1テヴェレ川のせせらぎと、時折通り過ぎる夜警の足音だけが聞こえる刻限。私は一人、書斎という名の狭い牢獄に籠もっていた。


 目の前には、パピルスと羊皮紙の山が崩れ落ちそうに積み上がっている。それらは全て、ギリシャ語で書かれた先人たちの知恵だ。ヘルモゲネス、ピテオス、さらには伝説のイクティノス……。彼ら「ギリシャの巨人」たちが遺した言葉の森を、私は毎晩、(なた)を振るうようにして切り開いていた。


 蝋燭の炎が揺れ、私の影を漆喰の壁に大きく映し出す。  目が痛む。頭の奥で、無数の数字が羽虫のように飛び回っている。


「……違う。これでは計算が合わん」


 私は羽ペンを投げ出し、インクで汚れた手で顔を覆った。ギリシャの建築は美しい。それは「※2完全数」によって支配されているからだ。ギリシャの賢者が定義した完全なる数「6」と「28」、そして宇宙を象徴する「10」。彼らにとって数字は神そのものであり、神殿はその数字を具現化した結晶だった。だが、ここはローマだ。我々が使うのは、切り出したばかりの純白の大理石だけではない。安価な凝灰岩、焼いた煉瓦、そして火山灰を混ぜたコンクリートだ。素材が違えば、強度が違う。強度が違えば、ギリシャの理想的な数式をそのまま当てはめれば、建物は自重で崩壊する。


 私の使命は、ギリシャの「美」を、ローマの「実用」という粗野な器に移植することだ。だが、その翻訳作業は困難を極めた。美しさを取れば強度が足りず、強度を取れば美しさが死ぬ。このアンビバレンス(二律背反)の迷宮の中で、私は出口のない回廊を何日も彷徨っていた。


 ふと、昼間の石工の若者の顔が浮かんだ。『全ては人体が語っている』私はそう言い切った。だが、具体的にどうやって? 指の長さ? 足の大きさ? それをどうやって、高さ20メートルの神殿の設計図に落とし込むというのか。共通言語が必要だ。誰にでも分かる、たった一つの基準が。


 私は再び羊皮紙を引き寄せた。インク壺にペンを浸す。黒い液体が、夜の闇のように滴り落ちる。書くのだ。書くことでしか、思考は結晶化しない。


 翌朝、私はアウグストゥス帝が建設を計画している劇場の予定地に立っていた。そこはまだ、雑草が生い茂るただの窪地だった。だが、私の目にはすでに、半円形の客席と、三層に重なる舞台背景が見えていた。


「ウィトルウィウス殿! ここです、ここにもっと座席を詰め込みたいのです!」


 耳障りな声が私の思考を遮った。元老院議員のひとりで、この劇場の出資者である男だ。彼は身振手振りを交えて、私の図面に文句をつけていた。 「これでは収容人数が少なすぎる。市民は娯楽を求めているのだ。もっと段を急にして、隙間なく席を作れば、あと千人は入るだろう」


 私はため息を殺し、努めて冷静に答えた。 「議員。段を急にすれば、確かに人は入ります。ですが、それでは『声』が死にます」 「声だと?」 「はい。劇場とは、ただ人が座る場所ではありません。あそこは巨大な楽器なのです」


 私は窪地の底、舞台となる場所へと降りていった。そして、議員に向かって手を叩いた。 パン! 乾いた音が空しく響き、すぐに風にかき消された。


「今は音が拡散しています。ですが、適切な角度で客席を配置すれば、役者の囁き声でさえ、最後列の観客の耳元に届くようになる。……いいですか、議員。ここでもまた、人体が答えを持っています」


 私は自分の耳を指さした。「音は、水面の波紋のように広がります。しかし、それは障害物に当たると跳ね返り、干渉し、濁る。人間の耳の構造を見てみなさい。音を集め、鼓膜へと導くあの複雑な曲線。あれこそが劇場の形状の正解なのです」


 議員は不満げに鼻を鳴らした。「理屈はいい。私は金を出しているのだ。派手で、巨大で、誰もが驚くようなものを作れと言っている」


 これだ。ローマ人の悪癖だ。彼らは「大きさ」と「量」でしか価値を測れない。私はギリシャの※3賢人アリストクセノスの音楽理論を説こうとしたが、無駄だと悟って口をつぐんだ。豚に真珠、ローマの政治家に音響理論だ。


 だが、諦めるわけにはいかない。もし音が響かない劇場を作れば、役者は声を張り上げ続け、喉を潰すだろう。観客は台詞が聞き取れず、すぐに飽きて野次を飛ばすだろう。それは「機能(Utilitas)」の敗北だ。


「……議員。一つ、提案があります」私は妥協策ではなく、隠し持っていた秘策を切り出した。 「座席の数は、あなたの言う通りにしましょう。その代わり、客席の石積みの間に、特殊な『壺』を埋め込む許可をいただきたい」 「壺? 骨董品でも飾るつもりか?」 「いいえ。青銅で作った、調律された共鳴壺エケイアです」


 これは、私の実験的な試みだった。数学的に計算された大きさの壺を、客席の下に等間隔で配置する。舞台からの声がその壺と共鳴し、特定の周波数を増幅させる。いわば、劇場の石組みそのものをスピーカーに変える技術だ。


「その壺があれば、あなたの望むぎゅうぎゅう詰めの客席でも、神の声のように台詞が響き渡るでしょう。どうです、世界初の試みです。『魔法の劇場』として、あなたの名はローマ史に残る」


 「名が残る」という言葉に、議員の目が俗っぽく輝いた。「……悪くない。よかろう、その壺とやらを採用してやる」


 単純な男で助かった。私は心の中で冷笑し、すぐに職人たちへ指示を飛ばした。だが、問題は解決したわけではない。その「壺」をどこに、どのような間隔で置くか。それはミリ単位の計算が必要な、新たな迷宮への入り口だった。


 その日の夕暮れ。私は再び書斎に戻り、机に向かっていた。 劇場、神殿、水道橋……。ローマが求める建築は多岐にわたる。それらすべてを貫く、統一された法則が見つからない。イオニア式の柱の図面を睨みつけていた時だ。不意に、視線が柱の「底面」の直径に吸い寄せられた。


 直径。円の幅。もし、この「柱の太さ」を基準単位モジュールにしたらどうだ?


 私は震える手で、新しいパピルスを広げた。仮に、柱の底面の直径を「1」とする。 そうすれば、柱の高さは「9」。  柱と柱の間隔は「2・25」。 神殿の基壇の高さは……。


 計算が、走り出した。堰を切ったように、数字が繋がり始める。これだ。これなのだ。絶対的な「メートル」や「尺」などいらない。その建物における「ある一つの部品モジュール」の大きさを決めれば、そこから倍数計算ですべての寸法が自動的に決定される。


 それはまるで、人間のDNAのようだった。指の太さが決まれば、手の大きさが決まり、手の大きさが決まれば、腕の長さが決まる。建築物は、巨大な怪物ではない。たった一つの細胞から増殖し、秩序を持って組み上がった有機体なのだ。


「見つけたぞ……」


 深夜の書斎で、私のしわがれた声が漏れた。これが「対称性シンメトリア」の正体だ。左右対称という意味ではない。個々の部材が、全体の調和のために適切な比率で結びついている状態。


 私は猛然と書き始めた。インクが飛び散るのも構わず、羽ペンを走らせる。この発見があれば、どんなに巨大な神殿でも、どんなに小さな家でも、美しさを損なわずに設計できる。ローマの職人たちに、「この柱の太さを基準にして、高さはその9倍だ」と教えるだけでいいのだから。


 外では夜明けを告げる鶏の声が聞こえ始めていた。だが私の目は、かつてないほど冴え渡っていた。迷宮の出口が見えた。私はその出口の扉に、ラテン語でこう名付けた。


 ――『モデュルス(基準寸)』と。


 これで戦える。無知な議員とも、頑固な職人とも、そして崩れようとする重力とも。私はインクの染みた指を眺め、ニヤリと笑った。それは、難攻不落の城壁を崩すための急所を見つけた時の、工兵の笑みだった。


「さあ、ローマよ。私がお前に、秩序という名の骨を与えてやろう」

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