第一話:鉄と砂の記憶
乾いた風が吹いていた。ティベル川の方角から運ばれてくるその風は、建設現場特有の白い石粉を巻き上げ、私の古びた外套の裾を情け容赦なく叩きつける。口の中がじゃりつく。だが、私にとってはこの不快な感触こそが、生きているという実感そのものであった。
目の前には、未だ骨組みだけの神殿がそびえ立っている。足場の上では、何百人もの奴隷や職人たちが蟻のように這い回り、滑車が軋む音、石鑿が硬い大理石を叩くカーン、カーンという乾いた音が、不協和音となってローマの青空に吸い込まれていく。私はその喧騒から少し離れた日陰で、一本の樫の杖を握りしめ、足元の砂を見つめていた。
私の手は、老いている。浮き出た血管はまるで古い木の根のようで、指の関節は長年の酷使によって変形し、こわばっている。だが、この指先は覚えているのだ。石の冷たさを。木のしなりを。そして、それらが組み合わさった時に生まれる、恐ろしいほどの力の奔流を。
かつて、この手は「死」を組み立てていた。第六鉄軍団の工兵隊長として、※1ユリウス・カエサルに仕えていたの軍団に所属していた頃、私の仕事は神殿を建てることではなかった。攻城兵器――バリスタやスコーピオンと呼ばれる巨大な投石機や弩砲を設計し、調整することだった。ガリアの森深く、あるいは小アジアの乾いた荒野で、弾道学の理に従い、石を空へと放った。計算は完璧でなければならない。ねじり上げた腱の張力、風向き、石の重量。すべてが数式通りに噛み合った時、放たれた石塊は美しい放物線を描き、敵の城壁へと吸い込まれる。次の瞬間、轟音と共に壁は崩れ、その下で人間が――ついさっきまで呼吸をし、家族を愛し、神に祈っていた人間が――赤い泥のようなものへと変わる。
私は優秀な技術者だった。だからこそ、数えきれないほどの「秩序ある破壊」を生み出した。壁を壊すたび、私は心のどこかで何かが削げ落ちていくのを感じていた。破壊は一瞬だ。どんなに強固な石積みも、暴力という物理法則の前では脆い。だが、その瓦礫の山の上に立ち、勝利の歓声を聞きながら、私はいつも虚無に囚われていた。「壊すことは、誰にでもできる。だが、この混沌とした世界で、二度と崩れぬものを建てることは、神の領域ではないか」と。
「……師よ。ウィトルウィウス師?」
不意にかけられた若い声に、私は記憶の泥沼から引き戻された。目の前に、一人の若い石工が立っている。まだ二十歳にもならぬ若者だ。手には粗削りな図面を持ち、困惑したように眉を寄せている。「現場監督が、師の指示に納得がいかないと叫んでおります。『柱の収まりが悪くなる』と。いかがいたしましょうか」
私は溜息をつき、杖の先を砂に突き立てた。現場監督のルキウスのことだ。彼は優秀な男だが、建築を「経費」と「工期」のパズルだと勘違いしている節がある。「ルキウスには後で私が話す。それより若者よ、お前はその図面を見て、何を感じる?」 「はあ……。立派な、※2イオニア式の柱だと」 「違う」 私は首を横に振った。それでは駄目なのだ。
「全ては人体が語っている」
私の口から漏れた言葉に、若者はきょとんとした。私は構わずに、杖の先で砂の上にゆっくりと図形を描き始めた。まずは、へそを中心とした「円」。コンパスなど使わずとも、私の体は完璧な円を描く術を知っている。かつて弾道の計算で嫌というほど円弧と向き合ったからだ。 次に、その円に接するようにして、四角い「正方形」を描く。
「神は最高の傑作を産み落とした際に、人類がこれから辿るであろう全ての美を、その物へと詰め込んだのだ。いいか、よく見ろ」
私は若者の手を取り、その腕を水平に広げさせた。「お前の身長と、両腕を広げた長さは等しい。お前の顔の長さは、身長の十分の一だ。足の大きさは、身長の六分の一だ。知っていたか?」 「いえ……知りませんでしたが、それが建築と何の関係が?」
「大ありだ!」私は声を荒げた。周囲の職人たちが驚いて手を止めるほどに。「関係があるどころではない。それこそが全てなのだ。なぜ我々が、パルテノンの神殿を見て美しいと感じるか分かるか? なぜエジプトのピラミッドを見て、畏怖はしても安らぎを感じないか分かるか?」
私は若者の肩を掴み、背後にそびえる建設中の円柱を指さした。「あの柱は、ただの石の棒ではない。あれは『人間』なのだ。※3ドーリア式の柱は、装飾を持たず、太く、力強い。あれは戦士の肉体だ。イオニア式の柱は、頭部に渦巻きの髪飾りを持ち、すらりと伸びている。あれは貴婦人の肢体だ。我々が柱の太さを決める時、それは強度の計算ではない。神が人間に与えた『最も心地よい比率』を、石の中に再現する儀式なのだ」
若者は圧倒され、口を開けたまま私と柱を交互に見つめていた。私は熱くなった呼吸を整え、砂の上の図形に視線を落とした。
ローマは今、アウグストゥス皇帝の御世となり、黄金の時代を迎えようとしている。煉瓦の街は大理石へと変わりつつある。 だが、街が豪華になればなるほど、私は危機感を募らせていた。 職人たちは技術をひけらかし、意味のない装飾で柱を埋め尽くすようになった。政治家たちは、ギリシャの模倣ばかりを求め、その本質にある「数理」を見ようとしない。このままでは、建築は死ぬ。ただの豪華な箱、魂の入っていない抜け殻の街になってしまう。
私は杖を握り直し、砂に描いた正方形の隅を強く突いた。
「私はただ、後世へと続く長い歴史のさいを、ただ後押ししたに過ぎない……」
そう、私の役割は、新しい何かを発明することではないのかもしれない。かつてギリシャの巨人たちが空を見上げて掴み取った星々の理を、このローマの土の上に、誰にでも分かる「形」として定着させること。それが、多くの命を奪った元軍事技術者が、人生の最期に果たすべき贖罪なのだ。
向こうから、顔を真っ赤にした現場監督のルキウスが歩いてくるのが見えた。きっと、また工期の遅れを怒鳴り散らすつもりだろう。私は若者にウィンクをして見せた。「見ろ、あのルキウスの歩き方を。怒りに任せて大股で歩いているが、その歩幅でさえ、彼の身長と一定の比率を保っている。彼自身が、宇宙の法則から逃れられない証拠だ」若者が、ふっと吹き出した。
私は杖を持ち上げ、砂埃を払った。戦いはこれからだ。無理解という名の壁を、今度は兵器ではなく、論理と美学で打ち崩さねばならない。
私は懐から、書きかけの羊皮紙の束を取り出した。そこには、私が生涯をかけて集めた知識のすべて――天文学、幾何学、音楽、そして人体の神秘――が記されようとしている。タイトルは『建築について(De Architectura)』。だが、私の中では別の名で呼んでいる。これは、未来への遺言状だ。
ルキウスが私の目の前まで来て、口を開きかけたその時、私は彼を制して、建設中の神殿の基壇を指さした。 「ルキウス、あの第三の柱だ。少し膨らみが足りない」「はあ!? あんた、またそんな細かいことを! 定規で測れば真っ直ぐでしょうが!」「定規で測るな。目で測るのだ」 私は自分の目を指さした。「人間の目は、完璧な直線を『凹んでいる』と誤認する。神は我々の目に、あえてそのような『歪み』を与えた。ならば建築もまた、その歪みに寄り添わねばならん。中央をわずかに膨らませろ。エンタシス(ふくらみ)をつけるのだ。そうして初めて、その柱は人の目に『真っ直ぐ』に映る」
ルキウスは呆れ果てて天を仰いだが、私は譲らなかった。これは譲れない戦いだ。なぜなら、全ては人体が語っているのだから。
西日が差し込み、私の影と神殿の影が、砂の上で一つに溶け合った。私は再び歩き出す。石の中に眠る「人間」を、この手で叩き起こすために。
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簡単な用語紹介。
※1ユリウス・カエサル: ローマを共和政から帝政へと導いた伝説的な独裁官で、軍事の天才であり、ウィトルウィウスがかつて仕えた主君です。
※2イオニア式: 柱の頭部に羊の角のような渦巻き装飾があり、ドーリア式より細く優雅な柱で、彼はこれを「女性的な気品」の象徴と見なしました。
※3ドーリア式: ギリシャ建築で最も古く、装飾のない円盤状の頭部と太い柱が特徴で、ウィトルウィウスはこれを「男性的で剛健な美」と定義しました。
※4アウグストゥス皇帝: カエサルの養子で、ローマ帝国の初代皇帝となり、戦乱を終結させて「ローマの平和」を築いた人物です。




