一枚の証明
その絵は、倉庫の最奥で見つかった。
地方の旧家から寄贈された大量の資料の中に、
他の作品とは別の包みに収められていた一枚の油彩。
署名はない。
だが構図、色調、筆致――
どれを取っても、近代日本絵画の巨匠・鷹宮玄堂の晩年様式と矛盾しなかった。
「未発表作の可能性はありますね」
そう口火を切ったのは、
贋作派の中心人物として知られる美術史家、久坂だった。
私は外部から呼ばれた研究員として、その場に同席していた。
議事録係という立場で、意見を挟む権限はない。
ただ、
疑う側の人間が、最初に可能性を肯定したことが、
なぜか記憶に引っかかった。
---
久坂は、奇妙な学者だった。
誰よりも贋作研究に厳しく、
誰よりも多くの作品を退けてきた人物。
それなのに、この絵に関しては、
彼は一度も「贋作だ」と断じなかった。
代わりに、必ずこう言う。
「贋作であると証明するには、
決定的な欠陥が必要です」
そして静かに付け加える。
「現時点では、それが見当たりません」
---
鑑定会は長期戦になった。
顔料分析、年代測定、
キャンバスの繊維、下描きの痕跡。
贋作派は考えうる限りの疑念を提示し、
本物派は一つずつそれを検討する。
奇妙だったのは、
久坂が、贋作派の議論を常に先回りして整理していたことだ。
「その反論は、ここで止まります」
「それ以上は、推測になります」
「証明の域を超えません」
彼の言葉は、
贋作派を前進させると同時に、
必ず“越えてはいけない線”を引いた。
---
ある夜、展示室で二人きりになった。
「先生は、どうして贋作派に?」
半ば冗談のつもりで尋ねると、
久坂は少しだけ考え、絵から目を離さずに答えた。
「疑う側に立たなければ、
疑いがどこまで通用するかは分からないでしょう」
「本物派にいた方が、楽なのでは?」
「ええ。でもそれでは――」
久坂は一拍置いた。
「――否定されなかった、という事実は作れません」
その言葉は、
学問的な説明としては正しかった。
それなのに、どこか制作意図のような響きがあった。
---
最終鑑定会の日。
贋作派は、もはや新しい疑念を出せなくなっていた。
議論は出尽くし、
残っているのは「可能性」だけだった。
最後に、久坂に意見が求められた。
「私には、
この作品を贋作だと証明できる根拠はありません」
それは、
敗北宣言であり、
同時に、決定打だった。
結論は「真作として扱う」。
その瞬間、
議論は終わった。
---
数年後、その絵は国立美術館の常設展示となった。
図録にはこう記されている。
> 「疑念を徹底的に検討した結果、
否定できなかった作品」
不思議な解説文だった。
だが誰も、それを問題にしなかった。
---
久坂は、展示開始を待たずに亡くなった。
整理された研究室からは、
鷹宮玄堂に関する膨大な資料が見つかった。
模写、分析、比較図版。
奇妙だったのは、
晩年期の作品だけが異様に多いことだ。
その中に、
今回の絵とよく似た構成の習作があった。
構図だけが、わずかに違う。
「研究用の再現でしょう」
誰かがそう言った。
私は否定しなかった。
---
帰り際、
完成した図録をめくっていて、手が止まった。
あの絵の解説文にある一節。
> 「要素が過不足なく配置された、
異様な完成度」
その表現は、
久坂がかつて展示室で口にした言葉と、
一字一句同じだった。
学術用語ではない。
批評の常套句でもない。
---
もし仮に。
久坂が、
「贋作であることを証明できない状態」を
最初から完成形として設計していたとしたら。
もし仮に。
そのために、
最も厳しい立場――
贋作派に身を置いていたのだとしたら。
---
贋作であることを証明できないこと。
それは、
本物と認めさせるための、
最も確実な方法だった。
---
その絵は、今日も展示されている。
1枚の絵として。
そして同時に、
1枚の証明として。




