報われなかった愛の終わりに
あの人、夫だった一太郎様が亡くなって、三年が経った。
たった十年――短い結婚生活だった。
最後の一年は肺の病で療養病棟に入っていたから、
本当に同じ屋根の下で過ごせたのは九年にも満たない。
午後の光が障子を透かし、仏壇の花を淡く照らしている。
手を合わせ、視線を落とすと、奥にある机が目に入った。
何度も片付け、埃を払ったその机は、主の帰りを待つ犬のように静かで、寂しかった。
何気なく引き出しに手をかける。
――あれ、と思った。
いつもは滑らかに開くのに、奥で何かが引っかかっている。
ゆっくり引き出すと、寄れて茶色くなった小さな封筒が一枚。
整った筆跡で「小山田 文 様」とある。
差出人は――松島。
息が詰まる。
その筆跡を、私は知っている。あの人の字だ。
だが「松島」は偽名。
しかも、文字の線が若い。
きっと若い頃に書かれたものだろう。
封は、してなかった。
中を確認したら――空だった。
それでも、封筒の名字を見ただけで、口の中が乾く。
もう何十年も経ったというのに。
――私の結婚が決まったとき、心の底から安堵した。
ようやく、彼が私のものになると。
それが、私の本当の気持ちだった。
本来なら、彼は大学を卒業したら私と結婚するはずだった。
けれど卒業後、彼は「勉強のため」と英国へ留学した。
あの頃の英国留学は、半ば永遠の別れを意味した。
手紙は半年に一度届けば良い方。
私は女子師範学校に進み、教師になる夢を持っていた。
けれど、初恋の彼と結婚できる方が嬉しかった。
ただ、その初恋の彼には婚約者がいた。
名は松島 澄江。
女学院時代の友人で、親友と言ってもよかった人だ。
彼女が婚約者だと知ったとき、息が止まるほど苦しかった。
それでも私は、彼女を好きでいた。
おっとりとして上品で、誰にでも分け隔てなく接する人。
成り上がりの娘と蔑まれていた私にも、友として笑いかけてくれた。
二人が並んで歩くのを、何度か見た。
彼が浮かべる、柔らかく優しい笑み。
私には一度も向けられなかった笑みだ。
「婚約者になればきっと」と信じた。
だが、その笑みは恋ではなく、情の色を帯びていた。
澄江さんの話は、私たちの間では禁句だった。
父は澄江さんの生家の跡地に大きな店を建て、彼の家の銀行が出資した。
その経緯を、私は長く知らなかった。
けれど、ある時ふと、父の仕掛けた策で澄江さんの家が傾いたのだと悟った。
確証はなかったが、胸の奥に澱のような罪悪感が沈んだ。
それでも、私は何の手立ても取らなかった。
彼女に顔向けできぬ思いと、一太郎さんへの未練が同じ重さで私を縛っていた。
延々と進まなかった結婚の宴。
ようやく日取りが決まったときに、これで彼女の存在におびえなくてすむ。
そう思ってしまったのだ。
私は澄江さんの今を調べ、結婚の宴に招待状まで送った。
「私が妻になるのだ」と示すために。
昔の彼女と今の彼女が違うと、見せつけるために。
正直に言えば、きっと私は彼女の返事を期待していなかった。
多分、心のどこかで、矜持高い彼女が今の彼女の状況で返事なんてしてこないだろう、と高をくくっていたのかもしれない。
それなのに。
杉山 鈴 様
結婚披露の宴のご招待、どうもありがとうございます。
あなたからのお手紙を手にしたとき、懐かしい女学院の日々が胸によみがえりました。
本来ならば、直接お祝いを申し上げるのが礼儀と存じますが
まことに勝手ながら、当日は伺うことが叶いません。どうかお許しください。
おふたりのこれからが、どうか穏やかで、あたたかな幸福に満ちていますように。
遠くから、心よりお祈り申し上げます。
かしこ
松島 澄江
手紙に封筒はなく、粗末な便箋が三つ折りにされ、端を糊で押しつけただけのものだ。
手に取った途端、紙のざらりとした感触が指先に広がる。
光にかざせば、薄茶色の繊維がまだらに浮かび、端は少し毛羽立っている。
文面の墨はところどころ滲み、筆圧の強弱がはっきりと残っていた。
昔、彼女が送ってきたのは、淡い桜色の上質紙だった。
滑らかな表面に金の縁取り、封を切るとふわりと香水が香った。
あの優雅さは、もうどこにもない。
けれど。
筆使いといい、言葉使いといい、彼女は彼女のままだった。
暮らしは変わっても、行間に流れる気配だけは、何ひとつ色あせていない。
文字の行間から、かすかな息遣いまで聞こえるような気がした。
読めば読むほど、彼女の清廉さが私の罪悪感を刺激する。
私は、彼女の今を見せつけたかった。
昔とは違うことを示し、今、隣にいるのは私だと、
一太郎様の目を私に向けさせたかったのだ。
それは自己中心的で、醜い計算かもしれない。
だけど、そんな計算の奥に、愛されたいという必死の想いがあった。
彼の心を私だけのものにしたくて、認められたいと願い、それが叶わない焦りに押し潰されそうで。
だから私は、彼に「私を見て」と願い、彼女の存在を否定したくて、招待状を送ったのだ。
それが、どんなに醜くても、私の本当の姿だった。
そう、本当に――なんて愚かで醜い女だろう。
その卑怯さを、彼は許さなかった。
罵られることすらなく、ただ静かに距離を置かれた。
私たちの夫婦生活は、可もなく不可もなく続いた。
一太郎様は真面目な人で、浮ついた噂ひとつなかった。
妻としての立場を脅かされることは決してなかったけれど、その眼差しに、愛情の色は最後まで宿らなかった。
互いに役割を全うするだけの日々。
それが、私たちの家庭だった。
一度だけ、泥酔した彼が澄江さんのことを口にした。
「夢のような人だった。
本当に好きになったのは、あの人だけだった」
その声が、今も耳の奥で反響する。
彼の心に、私はいなかった。
結婚後も、ふと遠くを見つめる横顔を何度も見た。
手紙の送り先、小山田 文――その名に覚えはない。
だが、松島という偽名が澄江さんに関わると直感した。
調べればわかる。
しかし、真実を知るのが怖かった。
彼が、ひそかに出した手紙――きっと、これがその、一通なのだろう。
それが、澄江さんあての恋文だとしたら、私は。
だが結局、私は好奇心を抑えられずに調べて、小山田文を訪ねた。
初対面の彼女は、戸惑いを隠さず私を迎え入れた。
質素ながらも、なぜか澄江さんを思わせる空気が漂う部屋。
彼女が語ったのは――
両親が離縁され、澄江さんは母方に引き取られたこと。
二年足らずで母を亡くし、治療費を稼ぐため代用教員となったこと。
その道を整えたのは、彼女の夫と……あの人だったということ。
あの人が小山田文と会ったのは、一度だけ。
「学生の僕にできることは何もなかった。
せめて、僕の守れる範囲で彼女の笑顔を守りたい」
そう打ち明けたそうだ。
あれが、あの人なりのけじめだったのだろう。
彼女を守るため、自ら遠ざかったのだ。
封筒の中は空だった。
中身を処分したのか、出せなかったのか――わからない。
ただ一つ確かなのは、
私はあの人のすべてを手に入れたわけではなかったということ。
そして今、遺品に触れるこの瞬間にも。
私の隣には、やはりいない人の影が、
淡く、揺れている。
窓辺に目をやると、一太郎様が丹精込めて育てた朝顔の蔓が、陽に透けていた。
ふと、女学院時代の澄江さんの笑顔が蘇った。
…そういえば朝顔は澄江さんが好きだと言っていた…
何故今まで思い出さなかったのだろうか…
夏は朝顔だと、何も考えずに愛でていた自分にはもう戻れない。
その緑の眩しさに、思わず目を伏せる。
やるせなさが胸を締めつけるように痛かった。
春の嵐と旅立ち の鈴視点の話になります。