影の君と光の歌姫は愛を歌う
名門女子音楽学院、リュミエールアカデミー。
大理石の柱に囲まれた講堂には、一際澄んだソプラノの声が響いていた。
歌うのは光の歌姫、公爵令嬢レイア=ド=アマデアス。
彼女は花さえ枯れ落ちる美貌と、有り余る才能に恵まれた、まさに天に選ばれた歌姫だった。
「なんて素敵なの」
「さすがレイア様。首席での卒業は間違い無しね。いくつもの劇団からスカウトの話もあるんでしょう?」
「学院を卒業した後はヴァンサン王子との婚姻もあるわ。歌姫で王妃様なんて、レイア様の未来は明るいわね」
「リリアン様も、生きていればきっと今頃」
「しっ、ダメよそんなこと口にしちゃ。あれはおいたわしい事故だったんだから」
「そうよね……。でも心配だわ。あれだけ眩い存在だと、影の君に拐われちゃうんじゃないかしら」
「いやだわ。そんなありもしない作り話」
「でもこの前、寮監が見たって噂よ。レイア様が夜中にこっそり出かけてるの。もしかしたら」
誰もが彼女を讃え、羨望の眼差しで見つめる中、女生徒たちの噂話に影が差す。
そんな噂話を耳に、レイアは小さく微笑んだ。
深夜、音の無い真っ暗な講堂にて。
そこで開かれるのは、誰も知らない秘密のアリア。
ステージの中央に立つと、どこからともなく声が降ってくる。
「こんばんはレイア」
低くしゃがれた声にレイアは闇に向かって手を伸ばした。
「今宵も、あなたの声を聴かせて」
「ええ、影の君」
学院に古くから、光のように眩い歌声は、影の怪人を呼び起こすという怪談がある。
その怪人こそが、影の君。
影の君は才能溢れる歌姫を愛し、その者に天上の歌声という祝福を与える。
しかし、祝福には代償が伴う。
その歌は影の君にしか届かず、歌姫は無限の闇の中へ拐われてしまい、二度と戻ってはこられないという。
「――――♪――――♪」
レイアもその怪談のことは知っていた。
だが彼女は恐れることなく、自らの歌を求める観客に歌った。
月が天にかかり、ほんの少し傾く僅かな時間の中、たった一人のために歌い続けるのだ。
歌が終わろうと拍手は無く、喝采も何も無い。
影の君はいつも姿を見せず、歌が終わるとどこかへ消える。
レイアもまた一礼して講堂を後にするのが決まった流れであったが、その日だけは違った。
「ねえ影の君。まだどこかにいる? 今日の歌はどうだった?」
返事どころか物音一つ無い。
それでも構わずレイアは闇に向かって声を捧げた。
「ここに来るのは今日で最後。明日は学院の卒業式なの。私、王子様と結婚するのよ。そしたらもう、あなたのために歌えなくなる。……今までありがとう」
楽しかった、と彼女は言った。
「誰からの期待も、評価も忘れて、ただ歌うことだけに没頭するこの時間が好きだった。まるで……まるで、大切な親友と過ごしているかのようで。ねえ、影の君。もしもあなたが本当に噂のとおりの怪人なら。もしも、あなたが」
唇を噛み、その先の言葉を噤む。
代わりに別の言葉を紡いだ。
「さようなら」
闇に向かって一礼し講堂を去る。
その時。
「レイア」
その声はレイアのすぐ後ろで聞こえた。
振り返ろうとすると手を握られ、行動を遮られる。
懐かしさを覚える声と、手袋越しに伝わるざらついた肌の感触に、レイアはグッと胸のうちに熱いものを込み上げさせた。
「私には、あなたに贈れるような言葉は無い」
「……なら、どうして引き止めるの? なら、どうしてこの手を掴むの? 影の君……どうしてあなたは、そんな寂しそうな声をするの?」
影の君は沈黙した。
それを語る資格は無いのだとばかり。
「都合が悪いときは、いつだって黙るのよ。昔からちっとも変わってない。あなたの悪い癖だわ。私が……私が、気付いていないとでも思ったの? 声がしゃがれても、姿が見えなくても、あなたの声はすぐにわかったわ。あなたなんでしょう? ねえ、リリアン」
振り向きそこにいたのは、マントとシルクハット、闇に浮かぶような真っ白な仮面に身を包んだ、怪人の風貌に相応しい姿であった。
リリアン=ノクターン。
出自は平民ながら、レイアとは親友だった少女の名。
レイアと同じく歌の才能を有し、かつてはレイアと並んで双翼の名を冠したほどの逸材であった、
三年前、不慮の事故で命を落とすまでは。
「私がどれだけ涙を流したと思っているの? どれだけ悲しみに打ちひしがれたと思っているの? なのにあなたは私に顔も見せない。胸の内さえ明かさない。あなたはいったい」
「私は……あの時死んだ。死んだはずだった」
舞台装置の不具合により火事が起き、誰もがリリアンは死亡したと思っていた。
だが事実ではそうではない。
「私は幸運にも生き延びた。けれど全身に酷い火傷を負い、二目と見られない醜い姿になった。喉も焼け爛れ、声も耳に障るようになってしまった。こんな私じゃ、あなたの前に姿を見せられない。そのまま消えてしまえばよかった」
一目見ては沸き、一声聞いては焦がれた。
光に誘われてしまったと、リリアンは言った。
ならばせめて、影の君として彼女を支えよう。
この醜い姿でもレイアを支えられる。
学院の地下に身を潜め、仮面で顔を隠し、舞台の裏から彼女の助けになろう。
自分はレイアの影でいい。
そう、思っていた。
「だけど……どうしても、あなたを忘れられなかった。私は、まだ、あなたのことを」
「そんなの……私だって同じよ……!」
静謐の講堂に声が響く。
「私のリリアン……大切な人……! 私が初めて恋をしたあなたを、忘れられるわけないじゃない……!」
レイアの初恋であり、かつて唇を交わしたただ一人の恋人。
燃え上がるような恋は、忘却の彼方に消えることはなく、レイアの心に燻り続けた。
「リリアン、お願い……。あなたが私をまだ好きでいてくれるというなら、その顔を見せて。その手で私を抱きしめ、その声で愛を歌って」
レイアはそっとリリアンの仮面を外した。
「酷い顔でしょう」
「そんなことない。どんなあなただってキレイだわ」
百の愛を紡ぐよりも一度の口付けを。
二人は愛おしさの中で同じ熱を共有した。
「リリアン……リリアン……」
「レイア……。この我儘が許されるのなら。あの男に、あなたの歌を聴かせないで。あの男に、あなたの唇を捧げないで。あなたは私のもの……。視線も、声も、命も、全部……」
「ええ、全部あげる。全部あなただけのものにして。愛しの影の君。どうか私を拐って」
レイアの婚約は、学院の理事たちや親の望む、政略の結晶のようなものだった。
第一王子のヴァンサンとの間には何も無く、リリアンという最愛を喪った彼女はその穴を埋めるべく、戸惑いながらもその道を選ぼうとしていた。
だが、その間違いは怪人の手によって正される。
卒業式が行われる学院の大劇場で、レイアは首席として歌った。
純白のドレスに身を包み、ヴァンサンの隣で最後のアリアを捧げる。
歌声が頂点に達し、パフォーマンスとしてレイアが客席へと降りたその瞬間。
天井から、巨大なシャンデリアが落ちた。
悲鳴。
爆音。
ガラスの破片が飛び散り、ヴァンサンはシャンデリアの下敷きになった。
「あ、ぁ、誰か、助け……」
ヴァンサンは虚ろな目で手を伸ばした。
骨が砕け、内臓が潰れ、放っておいても助かりはしないだろう。
しかし即死しなかったのは彼にとっての不運で、リリアンにとっての幸運であった。
ヴァンサンの目の前に現れたリリアンは、仮面を外した顔で王子の傍に立った。
「私のことを、覚えている?」
「ひっ、だ、誰、だ……」
「三年前、お前は私を事故に見せかけて殺そうとした」
「三年前……まさか、貴様……!」
「平民ながらレイアの隣に立つ私に嫉妬し、あまつさえレイアを自分のものにするべく、お前は」
「あ、あれ、は……違っ……す、すまなかった……たす、助け……」
「もう囀らないで。私の耳に、レイア以外の声は要らない」
リリアンはガラスの破片を手に、ヴァンサンの喉を裂いた。
血が真紅の薔薇のように広がったのを最後に、彼女は舞台の上から消えた。
客席が阿鼻叫喚となる中、レイアは舞台の奥へ逃げた。
彼女の足が向かったのは、学院の最下層に存在する、封鎖された地下劇場。
そこでリリアンは待っていた。
狂気と愛の狭間で微笑む少女は、マントを広げ歌姫を迎えた。
「おいでレイア」
「ああ……リリアン。私だけの影の君」
リリアンの腕の中でレイアは涙を流し、震える指でリリアンの頬に触れた。
「もう二度といなくならないで。愛してる。愛してるわリリアン」
どんな未来を辿ろうとも、その歌はどこへでも届く。
レイアはそっと唇を重ねた。
永遠の愛を誓う狂気の契り。
そしてこの瞬間、レイアは光の中から姿を消した。
ただ夜な夜な、地下劇場から聴こえるソプラノが、たった一人のために響き続けていた。
その妖しい旋律は、狂おしいほどに愛おしく。
『オペラ座の怪人』、めっちゃおもしろいです。
まだ未視聴の方はぜひ。
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他にもいろいろな百合を書いておりますので、興味がある方はどうか一読いただけましたら幸いですm(_ _)m