第二話 金田TTC
金田TTCーー元プロ卓球選手の金田弘道選手が開いた卓球クラブで、金田コーチ以外にも実績のあるコーチが数人在籍しておる有名な卓球クラブだ。
全部で3つのコースがあり、初心者コース・上級者コース・金田コースと分かれている。
初心者コースは文字通り卓球初心者が通うコースで、卓球を初めて見たい人や基礎を学びたい人が推奨される。
上級者コースは本格的に卓球をしたい人が推奨されており、実績として県大会やブロック大会まで勝ち進むくらい実力を身につけた人が数多くいるらしい。
そして金田コース。こちらは金田コーチが自ら卓球を教えるスペシャルコースで、入会するには条件が決められている。
それは、金田コーチに認められることだ。金田コーチを試合をして、その中で金田コーチに認められれば金田コースに入会することができる。
金田コースは上級者コースよりもさらに上ーー将来プロを目指す選手ばかりが在籍しているらしい。全員が、樋上さんと同等の才能を持つ人たち。
僕の夢に近づくためには、この金田コースに入会する必要がある。これは必須だ。
けどーー不安だなぁ。樋上さんは絶対大丈夫って言ってくれたけど、本当にそうか?
「あさひ、着いたわよ」
「え、もう着いたの!?」
「ずっと考え事してるみたいだったけど、大丈夫なの? どこか調子が悪いとかだったら言ってね。別の日でも大丈夫だから」
「ううん、全然元気だよ。緊張しちゃってぼーっとしてたかも」
「ふふ。それならよかった」
車から降りると、目の前に金田TTCの建物があった。
「すげえ。ネットの写真と同じだ」
「それはそうでしょ」
母さんにツッコまれ、確かにその通りだなと冷静になった。
とはいえ、想像よりも大きい建物ではあった。さすがは元プロが開いている卓球クラブなだけはある。
中に入ると、一階に卓球用品が売っているスペースが展開されていた。ラケットやシューズ、ラバーもたくさん種類がある。
そして奥にあるカウンターに人が立っていたので、母さんが話しかけた。
「すみません、ここのクラブへの入会希望なんですけれども」
「あ、もしかして春野さんですか?」
「そうです」
「話は聞いてます。クラブは2階と3階でやってるんです。今ご案内しますね」
カウンターに離席中の置き、僕たちは店員さんに続いて2階へと上がった。
階段を登るにつれて、少しずつピンポン球が跳ねる音が聞こえてきた。
緊張と、ワクワクが同時にやってくる。これからどんな卓球が待っているんだろう。
「ここです」
2階にはちょっとした休憩スペースが用意されており、その手前に卓球場へと続く扉があった。扉の一部から中の様子が見える。
卓球台が3台並べられていて、全ての台で激しいラリーが繰り広げられていた。僕も早くやりたい。
「そこのソファーで座って待っててください。金田を呼んできます」
「ありがとうございます。あさひ、座りましょ」
「うん」
少しの間待っているとガラリと扉が開き、さっきの男の店員さんともう1人男の人が出てきた。
写真で見たことがある。その人こそが、金田弘道選手だった。なんか、オーラがある。
「お待たせして申し訳ない。金田弘道と申します」
「春野です。こっちが息子のあさひです」
ぺこりとお辞儀をしてこんにちはと挨拶をする。
「今日はわざわざご訪問していただいてありがとうございます。話はうちの樋上から聞いてます。早速ですが、うちのクラブのコースについてご説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
「そのことなんですが、すでに決めてるみたいなんです。あさひ」
母さんに促され、僕は金田さんの目を見ながら言った。
「金田コースを希望します」
「うん、希望はわかった。ということは、金田コースへの入会条件もすでに知っているってことでいいのかね?」
「はい」
「よし。なら早速、俺と試合をしよう。ラケットとシューズは持ってきてるかい?」
「はい」
「ではお母様、ちょっとあさひ君をお借りします。その間によろしければうちのクラブについて、こちらの内海から軽く説明をさせていただきたいのですがよろしいですか?」
「問題ございません。息子をよろしくお願いします」
「母さん、行ってきます」
母さんに笑顔で見送られ、僕と金田さんはその場を去った。
いよいよ金田コース入会のための試合が始まる。
扉の先は下駄箱が置かれた空間になっていて、さらにその先にもう一個扉があった。その扉の先が卓球場だ。
「すまないみんな! 一旦ストップしてくれ!」
卓球場に入るなり、金田さんは大声でそう言った。金田さんの声に反応して全員動きを止めてこちらを見る。
「今から金田コースの入会テストを行う。悪いが一旦休憩にしてほしい」
「わかりましたー」「はーい」「それじゃあしょうがないよね」
全部で4人が練習をしていたが、それぞれ納得したように練習をやめて部屋から出ていく準備をし始めた。
そんな中、1人だけこちらに向かって歩いてくる人物がいた。
「樋上さん!」
「あさひ、来たんだな」
「はい。樋上さんのおかげです」
「んなことねえって」
照れくさそうに笑う樋上さん。僕の恩人だ。
「コーチ、今からテストすんの?」
「そうだ。金田コースを希望らしいからな」
「あのさ、いつもって1セットしか見ないじゃん?」
「ああ。1セット試合をしたら相手の実力がわかるからな」
「今回だけ3セットマッチにしてやってくんない?」
「何? それはどうして?」
「あさひの本当の強さは、2セット目以降からが本番なんだよ。もし3セットにしてくれたら俺が言ってる意味がわかるよ」
「しかし、今までと試験方法を変えるのはフェアじゃないんだが......」
「絶対面白いものが見れるって。俺が保証するからさ。お願いだよコーチ。あさひの本来の実力が見れないんじゃそれこそフェアじゃないよ」
「うーん、確かにそうか。しょうがない。お前を信じて、今回だけ特別に3セットマッチにしよう」
「ありがとうコーチ。審判はやるからさ」
なぜだかわからないが、樋上さんの交渉で3セットマッチでの試験に変更になった。
僕の本来の実力が2セット目以降に現れるって? え、そうなの?
自分自身でもわかっていないことだが、実際に僕と試合をした樋上さんがそういうのだからそうなのかな?
*****
「よろしくお願いします!」
軽い準備運動を行い、試合が始まった。じゃんけんで僕が勝ったので、いつも通りレシーブを選択した。
相手のサーブを先に見て分析する時間が欲しいというのが僕の定石だからだ。
金田さんが構え、ラケットを振るった。ラケットの角度、腕の動き、そして球の軌道を観察して、下回転のサーブを判断する。
こういう時は、ツッツキで返すのが常識だ。フォアを前に突き出し、なるべく短行き道になるような角度で打つ。
だが、僕の予想よりも球がラケットの上で跳ねてしまい、相手のチャンスボールになる高さになってしまった。
まずい!
すぐに後ろに後ろに大きく下がる。その瞬間、金田さんがニヤリと笑った。
スマッシュがくるーーと身構えた僕の予想を裏切り、金田さんはネット近くに球が行くように球の下側を強く擦ってストップを選択したのだ。
慌てて前に戻るがもう間に合わない。球が2回3回と弾み、金田さんに1点が入った。
やられた。完全に読みで裏をつかれた。
「すげえ」
派手なプレーは一切なかった。でも細かい技術は一級品だ。僕相手には、全力を出すまでもないってことか。ーーそんなの、もったいない!
せっかく金田さんと卓球ができるんだ。それも、最大で3セットもだ。
絶対に本気にさせる。本気の金田さんと試合をするんだ!
もっともっと、金田さんのプレーを見るんだ!
「まずは1点だね。もっと頑張らないと、金田コースには入れないよ?」
「はい!」
今の一連の動き、全部金田さんの手のひらの上で転がされていた。
まず最初のサーブ。動きと球の軌道で下回転って判断したけど、多分斜め右回転だったんだ。下回転寄りではあるけど、少し斜め右だったから水平にしたツッツキで球が浮いてしまった。もっと球の軌道を見ていれば防げたはずだ。
でも収穫はあった。まずは一つ、金田さんの手札が割れた。
間も無くしてもう一本のサーブが放たれた。
速い!
バック側に目掛けてスピードのあるサーブが向かう。
一歩出遅れてしまい、すんでのところでバックハンドが間に合うが、またもや相手のチャンスボールになってしまった。
さっきはストップだった。今度はどっちだ。スマッシュか、また同じか。
どっちにも対応できるように半歩下がった位置で構える。
金田さんはラケットを後ろに回していた。勢いをつけるためのフォーム。これはスマッシュだ!
そう確信し、さらにもう一歩後ろに下がった。
だが、金田さんがとった選択はまたしてもネット際へのストップだった。
フェイント。さっきとは違って、僕の反応を見てスマッシュのフォームで僕を釣ったんだ。
「はは、すごいや」
思わず出た本音。まだたった2回の攻防なのに勉強になった。こんな戦い方もあるんだ。
次は僕のサーブだ。正直、サーブはあんまり得意じゃない。僕の手札は純粋な下回転のサーブと、右回転のサーブだけだ。サーブの回転も金田さんや樋上さんみたいな威力はない。
でもそれがどうした。サーブで点を取れないなら、その後のレシーブだ。
いつも頭の中でイメージしてる、僕の憧れの卓球。
絶対に諦めない。どんな状況からでも粘ってチャンスを作るんだ!
サーブは下回転を主軸でいくことに決めた。下回転ならネットの手前に狙って落とせるし、いきなりドライブで決められることがない。
ツッツキからお互いの隙を探り合うそんな卓球が展開できる。
「さっ!」
自分自身に気合を入れるために声を出し、サーブを打った。
フォア側に行くようになるストレートコースのサーブ。金田さんの反応はーーそうか!
金田さんはラケットの角度を立て、手首のスナップを効かせて掬い上げるように僕のサーブに対応した。台上でのドライブ。フリックと呼ばれる技だ。
クロスに打たれた球を、ドライブで返球する。が、あのコンパクトな動作だったのに回転の量が凄まじく、押し負けてしまった。
僕のドライブはネットを超えず、ネットに当たってそのまま落ちた。
これで3-0。3連続で点を取られている。流れは良くない。良くないけどーードキドキが止まらない。
次はどんな手を使ってくるんだろう。どんなすごい卓球をしてくるんだろう。
金田さんの行動一つ一つを見るのが楽しくて仕方がない。
やっぱりここに来てよかった。だって、こんなにすごい人と卓球ができるんだ。
「さっ!」
そのまま金田さんの卓球に対応できず、1セット目は11-6で負けた。
*****
2セット目。チェンジエンドを行い、次は僕のサーブからだ。
1セット目はサーブが全く通じなかった。それどころか、僕のサーブから金田さんの攻撃に繋げられることが多かった。
金田さんの行動を深読みしすぎたのと、動きに釣られすぎたのが原因だ。もっとシンプルに、球の軌道を見るんだ。目の前に来た球に集中すれば、少なくともフェイントには対応できる。
サーブの種類はまた下回転を主軸にいく。やっぱりいきなり強打をされにくいから僕が想定してる流れに持って行きやすい。
下回転に対して、金田さんはツッツキで対応してきた。フリックではない。僕のミスを誘発することが目的か。
ツッツキは球の下側を擦って球の軌道が短くなるようにする打ち方だ。でもそれって、原理は僕のサーブと同じってことだよね?
だったら、さっきのゲームで金田さんがやったのと同じことができる!
金田さんのフォーム、ラケットの角度?手首の動かし方を思い出す。
できる!
そう確信し、僕は金田さんのツッツキに対してフリックをした。
さっきまで一度もやらなかった僕の行動に驚いた様子の金田さんだったが、僕のフリックに対してドライブを打ってきた。このドライブは回転量が凄まじく、普段の打ち方だと回転に負けてまともに打ち返せない。
だから、もっと膝を曲げて腰を落として、さらに球を打つタイミングをもうワンテンポ遅くする。
打点が低くなったところから縦に擦り上げる時間を少しでも長くするんだ。あと、角度も調整する。目の前にドライブのお手本がいるんだ。同じタイミング、同じ角度で!
狙うコースは、フォアストレート!
ラケットに当たった球は、今まで聞いたことがないような音を立てた。ラバーで綺麗に擦ったドライブはこんな音が鳴るんだ。
ギリギリを攻めたフォアストレートへのドライブに金田さんの体は反応してみせたがラケットが届かずにピンポン球はそのまま突き抜けていった。
金田さんのミス以外で、自分のサーブから点数を取ったのはこれが初めてだった。
「よし!」
まるで1セット獲ったかのようなガッツポーズをしてしまったが、それくらい嬉しかった。
気を引き締めろ。まだまだこれからだ。ここからが僕のターンだ。
*****
基礎的な動きはまだまだ。技術も全てにおいて荒削りで、到底陽介と競り合った選手とは思えなかった。ついさっきまではだ。
1セット目の後半から、その兆候はあった。俺のプレーをじっと観察して、自分のプレーの反省よりもそっちに集中を割いているとは思っていたがーーまさかこんな展開になるとはな。
チラリと陽介が持っている点数板を見る。
カウントは4-8。春野君がリードしている。さっきまでとは別人のようだった。
俺の攻撃やフェイントに、全て回答を出している。時折俺のプレーを真似たような動きも見られた。
この子はスロースターターとはまた違う。相手の卓球を分析して自分の中に落とし込むスタイルなんだ。まだ中学1年生なのに、なんて子だ。
まるで、土屋颯人の生き写しみたいな卓球じゃないか。
それに、なんて楽しそうに卓球をしやがるんだ。こっちまで楽しくなってきたじゃねえか。
面白くなってきやがった。この子はまだまだ伸びる。いや、俺が伸ばして見せる。
とはいえ俺にも元プロの意地がある。悪いが次のセットは全力で獲らせてもらうぜ!
*****
「やった!」
2セット目は僕が獲った。これで3セット目の挑戦権を得た。
いい流れだ。僕のやりたい卓球が全部できてる。調子もどんどん上がってきた。
3セット目も絶対獲る!
サーブは金田さんからだ。さっきのセットは一度もレシーブをミスらなかった。今回もさっきと同じようにやる!
「え」
金田さんがさっきまでと違う構えをして、思わず驚きの声が出た。
フォアの面を使ったサーブじゃない。台の中央に立ち、バックの面を上側にした。そして、球を切るようにサーブを放った。
回転はフォームで判断するな。球の軌道を見るんだ。
左回転ーーそれならチキータで返す!
ボールの左側をなぞるように、肘を大きく動かして手首のスナップを効かせて打つ。
よし、うまく行った。多分次はドライブで返してくるはずーー嘘だろ!
金田さんはピンポン球をギリギリまで自分側に引き付け、そして球の真下を擦った。
ネットをスレスレに通ったピンポン球は、台の上で低い軌道を保ったまま跳ねた。決して速い球ではない。だが、強いした回転がかかった球は普通の打ち方では返せない。
回転重視のループドライブで返すのが正解だけど、上手くいくかわかんない。やるしかないんだけど!
「あっ!」
失敗した。回転が足りなくて、ネットに引っかかってしまった。
「隠してたつもりはないんだけどね。俺の現役時代のプレイスタイル、知らなかっただろ?」
「カットマン、だったんですね」
「そういうこと。ラバーが粒高じゃないから気付けなかったのも無理ないけどね」
「カットマンの可能性が全く頭になかったです。やられました」
それに実際にカットマンと試合をするのが初めてだったから、なおさら頭の中に選択肢として用意されてなかった。
カットマンは珍しい戦型だ。プロですらごく僅かしかいないほど珍しい。
まさか金田さんの現役時代がカットマンだったなんて。
くそ! ちょっとググればわかることなのに、僕はホームページばっかり見て金田さんの過去を全く調べてなかった。自分の甘さに腹が立つ。
「さあ、次行くよ!」
「はい!」
今日は本当にいい日だ。いろんなことが経験できたし、初めてカットマンと対戦できる。
この試合が終わるまでに、絶対に金田さんのカットを返す!
さっきは回転が足りなかった。もっと球が下がったところで打たないと。縦に擦って、掬い上げるイメージで!
*****
「ありがとうございました!」
「お疲れさん」
3セット目、11-3。最後の方になってようやく僕のドライブが入るようになったけど、コースが甘すぎて結局相手の攻撃のチャンスになってしまった。
完敗だ。もう1セットあったら、もっとカットマンと試合ができたのに。もう1セットやりたかったなぁ。
「外に自販機がある。喉が渇いたろ? ご馳走するよ」
「ありがとうございます!」
「陽介もいいぞ」
「やりー。審判やってよかったー」
休憩所にある自販機で金田さんに飲み物を買ってもらい、椅子に座って休憩した。
僕は休憩の間、金田さんに今日の試合で金田さんがどんなことを考えて試合をしていたのかをたくさん質問した。少しでも金田さんの考えを吸収したかったからだ。
金田さんは嫌な顔ひとつせずに、僕の質問に全て答えてくれた。
ひと段落ついたところで、金田さんが咳払いをして改まった顔でこちらを向いた。
「春野君。試験の結果なんだが、心の準備はいいかね」
「はい。お願いします」
「金田コースへの入会をーー」
「ごくり」
「認めます」
「え? ほんとに? やった!!!」
「そんな喜んでくれると思わなかったよ。うん、君は十分に金田コースに値する実力者だ。ようこそ金田コースへ。あさひ」
「はい!」
これでもっと金田さんと卓球ができる! 樋上さんとも、もっともっと!
「あ、試験終わったみたいですね」
そう言って姿を現したのは、あの店員さんだった。確か、うつみさんだったっけ。
「おう内海。金田コースの新メンバーだ。詳しいことは後で説明する」
「それはおめでとうございます。よかったね、あさひ君」
なんだか照れるな。
「内海、お母さんは下にいるのか?」
「はい。座って休憩してもらってます。あさひ君のコースが決まったのなら手続きのご案内をしてもよろしいでしょうか?」
「そうしよう。俺も一緒に行く。あさひ、一旦下に行こうか」
「わかりました」
金田さんとうつみさんに続いて下に降りると、母さんが椅子に座って待っていた。
「すみません、お待たせしました。あさひ君の試験が終わったみたいなので、よろしければこれから入会の書類をご記入いただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「構いませんよ。あさひ、どうだったの?」
僕はピースサインをして答えた。
「合格だって! 金田さんのコースに入れるんだよ!」
「そう。よかったわね」
母さんが笑ってくれた。母さんがこうやって微笑んでくれるだけで、嬉しくなる。
「お母さん、是非私どもの手で息子さんを育てさせてください。元日本代表の金田弘道の名にかけて、必ず立派な選手に育てます」
「息子をよろしくお願いいたします」
「それと実はご相談があります」
「なんでしょうか?」
「息子さんのラケットです。今使用しているラケットは初心者用のセット用品です。ラバーもかなり消耗されていて、先ほど試合をしている最中もそれが原因での失点が目立っていました。そこで、息子さんのラケットを新調することは可能でしょうか? お金はかかります。ですが、これから上を目指すにあたってこれは避けられません」
ラケットの交換。僕だって少しは考えたりもした。でも卓球のラケットは決して安いものじゃない。ラバーだって、定期的に交換するとなればお金はたくさんかかる。
だから今まで言えなかった。母さんに迷惑をかけたくなかったから。
「母さん、僕なら大丈夫だよ。このラケットだって気に入ってるし、まだまだ使えるよ」
「あさひ、もう遠慮しなくていいの。私はあなたの卓球を応援するって決めたんだから」
「母さん...」
「金田さん、息子のラケットを選んでいただけますか? 予算はいくらでも構いません。この子にあったものを選んであげてください
「お任せください。この後あちらのショップで選ばせていただきます」
「そういうわけだから。あさひ、選んでもらいなさい」
母さんは僕の頭を撫でると、うつみさんから書類を受け取った。
ありがとう、母さん。僕、絶対に強くなるから。
「入会の手続きは以上になります。金田コースは基本的に毎日練習に来ても良いことになっています。営業時間内であれば好きな時間に来ていただいて大丈夫です。私か、金田が対応しますのでご安心ください」
どうやらうつみさんも金田コースに在籍しているコーチみたいだ。優しそうだし、かっこいいし卓球も強そう。
「わかりました。今後は息子が1人でここに来ることになると思います。練習の頻度についても基本的には息子に任せようと思っていますので、どうかよろしくお願いいたします」
「はい。とはいえ毎日練習してはオーバーワークになってしまいますからね。ある程度メニューは作成させていただきますのでご安心ください」
確かに、いくら毎日来てもいいからって毎日ハードな練習をしていたらどこかで限界が来る。僕としては毎日卓球をしたいけど、怪我をしたら元も子もない。
「さて、それじゃああちらでラケットを選びましょうか。お母さんもご一緒していただいても?」
「もちろんです」
実はここに来た時からあの卓球ショップのコーナーがすごく気になっていた。
いざ近づいてみると、ラケットもラバーもたくさんありすぎてよくわからない。これじゃあ僕には選べないな。そもそもどれも違いがわからないし。
「さっき試合をしてて思ったんだが、あさひは土屋颯人選手を目標にしてるのかな?」
「はい。僕のヒーローです」
「やっぱりそうか。君のプレーは彼と同じくどんな場面からも逆転の目を狙う粘りの傾向がある。それに、試合が進むにつれて相手のプレーを自分の中に落とし込んでいくトレースの才能もある。だから、ラケットはこれが1番適しているかな」
そう言って渡されたラケットには、土屋颯人モデルと書かれていた。
「このラケットは実際に土屋颯人選手が使っているものと同じラケットだ。彼のプレーは存じてると思うが、どんな場面にも対応できるオールラウンダーだ。このラケットはそんなプレーを支えるのに適している」
おお! おお! 土屋選手と同じラケットだ!
グリップの色は青を基調にしていてすごくかっこいい。
「ラバーはずっと考えてたんだが、フォア面はこの攻撃性に優れたラバー。特にスピードに特化していてあさひのパワー不足を補ってくれる。そしてバックはこのブロックに特化したラバーがいいだろう。君のプレーをもっと多彩にしてくれるはずだ。回転も今までよりかけやすいから、擬似的なカットも可能だ」
「すごい。これが、僕の新しいラケット」
かっこいい。これが組み合わさった時、一体どうなってしまうんだ! 今からワクワクが止まらないんだけど!
「あさひ、靴も買いましょう。今学校の上履きで練習してるんでしょ? 私卓球専用の靴があるって知らなくてごめんね。好きなの選んでいいから」
「えっと...」
卓球用シューズをじっとみる。普通の靴と比べてやっぱり高い。けど、母さんはきっと遠慮してほしくないんだ。
「あの、靴もプレーにあったものがあるんですか?」
「いろいろあるが、正直にいうと好みだな。自分が好きなのを選んでもらって構わないよ」
「じゃあ」
僕は1番最初に目についた青色の靴を選んだ。ラケットとお揃いにしたかったからだ。
「それではこのままお会計をして、そのままラケットにラバーを貼らせていただきますね」
「あ、まだ待ってください。あさひ、そこの練習着も買いましょう。あなた学校のジャージしか持ってないでしょ。上下セットで3着ずつくらい買っておきましょう」
「でもジャージ動きやすいし流石に...」
「いいから。これは私が選びます」
母さんはそういうと次々と卓球用の練習着を選んでいった。なんか楽しそうに見えたのは気のせいかな。
「お待たせしました。これでお会計をお願いします」
「はい。会員割引で全品10オフになりまして、ご会計は78000円になります」
「カードでお願いします」
会計が終わると、うつみさんがすぐにラケットとラバーを持って奥の部屋にラバーを貼りに行った。
「母さん、ありがとう」
「だから遠慮する必要ないのよ。母さんも久しぶりにあさひにいろいろ買ってあげれてなんだか楽しかったわ」
母さんの満足げな顔から、本当にそうだったんだろうなと思った。
うつみさんの説明によると、ラバーを糊で貼って乾かすのに少し時間がかかるらしい。それまでここで待機ということになった。
「新しいラケット、楽しみだなぁ」
「ふふ。そんなに嬉しかったの?」
「だって、土屋選手と同じラケットだよ。早く打ってみたい」
一体どんな感じなんだろう。初心者用ラケットとどれくらい違うんだろう。
期待に胸を膨らませて、母さんといろんな話をしながらラケットの完成を待った。
*****
いい親子愛を見せてもらった。こっちまで胸がほっこりしたじゃねえか。
歳をとると涙腺が緩むって本当だったんだな。
「おかえりコーチ。あさひは?」
「下でラケットの完成を待ってる。あのラケットをじゃあすでに限界だったからな」
「だよね。むしろラバーも限界の初心者用のラケットでよくあんなプレーできたもんだよ」
「だな」
そう。あのラケットで俺や陽介に喰らい付いてきたところが、あさひの異常さを引き立たせている。工夫を凝らして、騙し騙しプレーしてたんだろう。
そのあさひが新しい性能のいいラケットを持ったらどうなるか。今からその進化を見れるのが楽しみで仕方ない。まあ、使いこなすのには苦労するだろうがな。
だが使いこなした時、あいつはとんでもない選手になるはずだ。俺の勘がそう言ってる。
「ねえコーチ、あさひって卓球歴どれくらいだと思う?」
「そういや聞いてなかったな。技術はそこそこあるが、基礎的な部分がまだまだ甘い。多分練習しながら見よう見まねで、己のセンスだけで強くなっていったタイプだろうな。2年ちょっとってところか?」
「残念」
「じゃあもっと上か?」
「今年からだって」
「おいおい嘘だろ」
「本当だよ。去年のオリンピックで土屋選手を見てやりたくなったんだってさ。で、中1から卓球を始めたってわけ」
「じゃあ、まだ3ヶ月ちょっとしか経ってないのか」
「俺もびっくりした。でもあさひは自分の異様さに気づいてないんだ。むしろ、他と比べて遅れてると思ってる」
「脅威の成長スピードだな」
「しかもあいつの中学、あまりいい環境じゃないんだ。練習メニューすらなくて、練習相手もろくにいないから、部活が終わった後、地域のママさん卓球に参加して練習してるって言ってた。動画とかで自分で勉強してるんだって」
「おいおい、さらにびっくりしたじゃねえか」
あの歳で、自分が成長するために自分の頭で考えて練習できるやつなんてそうそういない。あいつの凄さは、センスや成長スピードなんかよりも、卓球にかける思いそのものなのかもしれない。
「俺さ、自分のことずっと強いって思ってたんだよ。人より卓球の才能とかあるのかなって。でもさ、あさひに出会って考えが変わったんだ。本当の天才はあいつみたいなやつなんだって」
「お前の考えは否定しない。陽介がそう思ったのならそれでいいと俺は思う。だがな、あさひの方がお前より才能があったらどうなんだ? お前はそこで諦めちまうのか?」
「コーチ、俺が諦めると思う? むしろこれ以上ないまでにモチベ上がってるよ。コーチ、俺もっと強くなりたい。あさひに負けないくらい強くなりたい。そんで、将来あいつと同じチームで世界と戦うんだ。コーチみたいにさ」
「それでこそ樋上陽介だ。今まで以上にビシバシいくから覚悟しておけよ」
「おす!」
陽介は最近天狗になってた部分があった。うちのクラブではほぼ敵なしの状態だし、同地区にライバルと呼べる存在がいなかった。
あさひの存在がいい刺激になってくれた。こいつはこいつでまだまだ伸び代がある原石だ。
これから先のことを考えると骨が折れる思いだが、未来ある若者を育てるためだ。
俺の全部を使って、こいつらを世界に羽ばたかせようじゃねえか!
そのためには、あいつの力を借りる必要があるな。
「さて休憩は終わりだ。練習再開するぞ。ちょっと電話かけてからいくから先に中入っててくれ」
「はーい」
俺はポケットからスマホを取り出すと、電話帳をスクロールして長らく連絡をとっていなかった人物に電話をかけた。