はじまりの時②
目の前には、大きなパンケーキ。
お兄ちゃんの前には、大盛のミートスパゲッティ。
「さあどうぞ。遠慮なく食べて」
こ、こんな状況なのにウキウキしてしまうわたしは、いけない女学生なのでしょうか。
「……ほんとうに、そっち持ちなんだろうな?」
「疑わない疑わない。というかいいの、ミートスパで? シャツに飛ばないか怖いんだけど」
「関係あるかっ」
お兄ちゃんがスパゲッティにフォークを入れるのを見てから、わたしもパンケーキに取り掛かります。
食べたかったんです、これ。たっぷりのホイップクリームに、薄めのもちもちしたパンケーキ。周りには、はなやかに飾られたイチゴと鮮やかな花! 女の子の憧れが一皿に詰まっていると言っても過言ではありません。 口に入れると、幸せが湧き上がりました。
(おいしい……!)
なんでお菓子ってこんなにおいしいんでしょう? たっぷりのバターにたまご、なぜかすごく貴重なものを食べている気になります。いえ、私たちの家計では十分贅沢なメニューなのだけれど……なぜか、人生十四年目にして、見ることさえ初めての気がしてくるのです。
そんなわたしを、想実さんはニコニコと嬉しそうに見ているのでした。
◆
「それじゃ、ちゃんと話してもらうぞ」
「ちゃんと、って。全部話したと思うけど」
長谷部はアイスティーをすする想実に詰め寄る。
「俺達、現代の学生なんだ。図に書くなりなんなりして解説してもらおうか」
言うと、想実はノートを取り出して広げた。
「まずは……私達の住む人間世界」
想実は大きく円を描く。
「そして、地球」
その上に重ねるように、また一つ円を書く。
「獣は地球によって生み出されたの。地球を汚染した、人間を喰らうために」
「乱暴な話だな……」
そのために、妹が犠牲にされようとしている。
それだけは、あってはならない。
「私はそれに対抗する者」
人間世界の丸の上に、想実だろう、ニコニコしたマークをひとつ。
「あのボイルドは、地球のルール側。獣を目覚めさせ、人類を滅ぼそうとする者」
地球と人間の輪の間に、ボイルドを表すクママークを描く。
「私はボイルドと戦い、可能ならば獣との共存を目指さねばならないの」
「共存? 人間を喰う奴と?」
長谷部は驚いた。
「えぇ。ボイルドはいわばルールの具現化。生命のない現象。けれど、獣は生まれ出た生命。おいそれと殺すわけにはいかないわ」
「殺す……」
姫花は小さく腕を押さえた。ある程度穏やかだった想実の口から出た、殺すという言葉。ひょっとすると、自分も殺されてしまうかもしれない、そんな恐怖を抱いたのだろう。
「わたし、ひょっとして、誰かにバレたら……」
「大丈夫よ。普通の人間は獣の呪いなんて言葉を信じないもの。それに、ボイルドという邪魔のいない状態で獣と話し合えば、人間を食べずに済む解決策が出てくるわ」
「……そんなうまくいくか?」
「いくわ」
想実は言葉を切る。
「いかなきゃ、ならないの」
その眼には、静かな熱が滾っていた。
「俺は妹を守れればそれでいい。お前の目的は関われない」
「それでいいわ」
想実は笑顔を浮かべた。
と、そこに人影が現れる。
「盛り上がってるね」
「あら、晴海」
白衣に四角い仮面。警戒する長谷部達に、想実はにこやかに紹介する。
「こちら、晴海よ。私の仲間なの」
「よろしく」
そう言って、晴海は握手を示してきたが……正直、白衣にお面の外見がシュールすぎる。長谷部は半歩引きながら手を握った。当然ある程度温かったが、違和感があるくらいには奇妙だった。
◆
ロイヤルグランデを出ると、再び世界が歪んだ。
「姫花、看板の裏に隠れてろ」
「無茶しないでね……!」
目立たない場所に隠す。
寒気は感じない。自在武器のおかげか、それとも武器を手にして気がハイになっているのか……。
ビルの影から、巨大な腕が現れる。ぬらりと姿を見せたのは、その腕に見合う巨体。長谷部の倍は遥かに超える。
しかし、怯えるわけにはいかない。
長谷部は自在武器を剣に変え、ボイルドに切りかかった。
「うわっ!」
だが、巨体のなせる技だろうか、刃すら弾かれる。長谷部は驚愕し、隙が出来た。この自在武器ならば、どんなものですら敵わないと思っていたのに。
「長谷部君!」
想実の糸に絡まれ、地面に墜落することは防がれた。だが、ボイルドの足裏が迫ってくる……!
「踏み潰しかよ!?」
「私から離れないで!」
想実が糸を出し、球状に編み込む。ボイルドの巨体は長谷部達に当たることはなかったが、それでも膠着状態なのは変わらない……!
空間ごと軋むような衝撃が二,三度来ただけで、既に軋みが起き始めている。
「だ、大丈夫かこれ!?」
「大丈夫よ! ちょっとミシミシ言ってるだけだもの、これくらい……!」
糸は量を増し、押し戻そうとするが、相手が重すぎるのか戻らない。
◆
「お兄ちゃん、想実さん……!」
わたしは見ていることしかできません。おろおろし、うろつき、涙を浮かべることしか。
「オトウサン」のことを思い出しました。「オトウサン」の暴虐から、いつもお兄ちゃんはわたしを庇ってくれました。いつもわたしは、後ろで怯えていることしかできませんでした。
しなかった。
何もできずに、ただそれだけ。
「……何かしたいかい?」
晴海さんに声をかけられ、わたしはハッと顔を上げました。
「で、でも、わたし、なんにもできなくて……お兄ちゃんみたいなすごい武器も、想実さんみたいな能力もなくて……」
「君ならできる」
晴海さんは言いました。
「しかし、やりたくないならできないな。彼らは潰されるだけだ」
ボイルドは質量を増していきます。
わたしの脳裏に、どんどん嫌な想像が膨れ上がる。結界が破れ、倒れたお兄ちゃんと想実さん。髪も服もボロボロになって、破れて、立ち上がれないほどひどい目に遭う。
「そんなの……嫌です」
気が付くと、絞り出すように呟いていました。
怖い。今にも涙は零れてしまいそう。でもやらなくちゃ。
動けるのは、わたししかいないんだから!
「教えて下さい、晴海さん! わたしだけができる、方法を!」
「しかし、その前に一つ確認しておきたいことがある」
「な……なんですか。ひょっとしてわたし、獣ってものになっちゃうんじゃ……!」
「いいや違う。けれど、これは世界の無意識と接続する方法だ。君は一時的に、人間を超えた存在になる。それでも良いかい」
……ええと。
「そんなことですか」
「……あのね」
晴海さんはこめかみを押さえました。どうやら呆れているようです。
「結構大事なとこだと思うんだよ、私的に」
「お兄ちゃんが傷つかないんですよね。お兄ちゃんを食べる怪物になんてならないんですよね。……だったらわたし、人間でもなんでも辞めてやります」
「人間のダイナミック辞職、だな」
晴海さんはかぶりを振ると、機械をわたしへと接続しました。正体不明のワッペンが、両腕に張り付きます。「この機械を中継にして、君に無意識を接続する。そうすれば君から二人にマナが送られ、強化される。間違いなくあのボイルドを倒せるだろう」
ボイルドは結界を覆っています。合間から微かに青い光が見えるだけ。
もう、少しの猶予もありません。
「君には、全ての知識が流れ込んでくる。けれど驚くことも拒絶することもない。ただ受け入れればいいのだから」
「はい!」
わたしは大きく息を吸いました。
直後、紡ぎ出されるのは、自分とは思えないほど澄んだ声。マナに満ちた、魔力ある声。不思議と驚きはありません。晴海さんの言ったことを思い出します。何も考えず、何も拒まず……見えない存在を、ただ受け入れるだけ。
(これが、接続……!)
ふわりと、大きな水槽の中に入っている感覚。水の中に浮かんでいて、けれど見えない優しい存在がたくさんいて、感じられ、側にいて包まれている。
ぱきん、と大きな音がしました。想実さんの結界が光り輝き、巨大ボイルドを押し返していました。
「こ、これ……この声、姫花か……!?」
「よく分かったわね。さすがお兄ちゃん。……姫花ちゃん、リンカーとなることを選んだのね……!」
想実さんが結界を解きます。ボイルドは大きくのけぞっていましたが、やがてもう一度攻撃してくるでしょう。その前にケリをつけなければ。
頑張って、お兄ちゃん!
「私が動きを止めるわ。長谷部君、お願い!」
「了解!」
想実さんから飛び出した糸がボイルドを絡め取ります。お兄ちゃんは自在武器を双剣へと変え、卵のように膨らんだ腹を一刀両断しました。
ボイルドは破裂し、綿が空へと舞い、還っていきます。
完全に気配が無くなったのを感じ、わたしは歌を止めました。たちまち包まれていた感覚は消失し、春の温い夜が帰ってきます。
◆
「姫花、大丈夫か!?」
「うん!」
振り向いた姫花は、少しだけ変わっていた。昨晩はずっと不安そうに俯いていたが、もう自信満々に微笑みすらしている。
「サンキュ。姫花の歌で、元気出たぜ」
「晴海、姫花ちゃんに変化はない?」
機械のモニターを見ていた晴海が頷く。
「あぁ。状況終了後、元に戻っている。姫花さん、もう繋がっている感覚はないかい?」
「バッチリです。……お兄ちゃん、わたしの歌どうだった? そ、その、下手じゃなかった?」
「姫花の歌が下手だった時なんてあるか! だよな、想実!」
「ともあれ」
想実がウィンクをする。
「終わったんだから、何か軽く食べていきましょ」