はじまりの時①
朝起きて。制服、クリームイエローのセーター、灰色のスカートを着て。トレードマークの梅の花飾りを頭に付けます。お兄ちゃんからもらった、大切な花飾り。
自然に出た欠伸に、昨日のことを思い出します。
すごく恐ろしい怪物に出会ったこと。
それを、とてもかっこよく倒してくれたのは、お兄ちゃんと知らない人。
まるで夢のようだけど、窓から差し込んでくるの光はいつも通りで、カーテンを開けると低い塀越しに高いビルがたくさん見える、都会の中の一軒家で……ほんとうにあんなことがあったとは思えないくらい。欠伸を噛みながらリビングへ向かいます。
「おはよう、お兄ちゃん」
「おはよ、姫花」
なんとなく昨日のことも聞きづらく、わたしはいつも通りふきんを濡らすとテーブルの準備に取り掛かりました。
あんな怖い怪物を前に、お兄ちゃんは怯むことなく倒していきました。今も、そんなことは感じさせないくらい、ごく普通の朝で。
(ほんとうに……夢だったのかな)
疑うと、あの寒気が上ってくるようで。わたしはこれ以上、考えることをやめました。
「姫ちょ! 英語の宿題やってきた? ちょっと見せてよ!」
「……あ」
ひよちゃんに言われて気づきました。わたしの英語のノートも空っぽだったことを。
「珍しいね。姫ちょが英語やってないなんて」
「数学なら分からないこともないけれど」
「き、昨日忙しくって……」
「……ひょっとして、お父さん絡み?」
「え?」
ひよちゃんの言葉に、顔を上げました。声を潜めて、心配するように。
「ちょっと、ひよ。あんまり聞きださないほうが……」
たまちゃんも、小さな声でひよちゃんに耳打ちします。
「何かあったら、あたしらに言いなよ。警察もやり込めてるってウワサ出てるけど、あたしは姫花ちょの味方だからね」
「ひよちゃん……」
わたしは笑顔を浮かべました。
「ありがとう。何かあったら、相談するね」
……そっか。
ひよちゃんもたまちゃんも、「オトウサン」のことを言ってたのか。遅まきながら、わたしは気づきました。 「オトウサン」。苗字は木島。銃器まで持っているという噂の、この街一番の乱暴者。四十代ながら、暴力に酔う……不安定なひと。わたしたちの「オトウサン」でありながら、わたしが幼いころにすでに離婚しているそうです。
「オトウサン」のことを考えると、いつも不安になります。「オトウサン」は、お兄ちゃんに目をつけていて……様々な場面でお兄ちゃんを傷つけていたのです。
ぎゅっと手を握りしめました。
……。
二人に、笑顔を返しました。
「大丈夫。昨日はそういうのなかったから……ただ単に、忘れちゃっただけ」
「ならいーんだけど。いやよくない。あたしのみならず、姫ちょまで危機に陥ってしまった」
きらり、とひよちゃんはたまちゃんを見。
「最後の綱は分かっているな! キミしかいない、たまみ!」
「自分でやれ。と言いたいところだけど……」
たまちゃんは小さく溜息をつきながら、机からノートを取り出しました。
「姫花も関わってるならば事情は違う。姫花のような小動物が廊下に立たされるのは心苦しい」
途端、たまちゃんの顔がぱあっと輝きました。がっしぃ! とヘッドをロックされます。い、息が詰まるっ。
「よかったね姫ちょ! 姫ちょの小動物ぶりが世界を救ったよ!」
「た、たまちゃん、大げさだよ……」
「過大解釈でもなんでもなかろうっ! ガチで女子中生を救うことは! しいては子供を救うことが! 良い未来へとつながるのであるっ!」
どばしゃーん、と荒波が見えた気がしました。
けれど、たまちゃんの好意は棚ぼたでも嬉しい訳で。
「ごめんね、たまちゃん」
「代わりに頭を撫でさせてもらおう。うりうり」
宿題を写す間中、背の高いたまちゃんの、癒し枠になっていたのでした。
そして、放課後。
「起立、礼。さようなら」
わたしは帰宅部なので、帰り道は自由。校門ではなく、真っすぐ高校棟へと向かいます。中高一貫だから、お兄ちゃんとの待ち合わせに便利なのでした。ひよちゃんから声をかけられます。
「ひゅーひゅー。愛しのお兄様とのサバトが始まりますな」
「サバトサバト」
……さばと?
「か、からかわないでっ。た、ただ一緒に帰るだけだよ」
交代で家事をしているから、部活に入る時間はありません。
それぞれの部活へ向かう二人と別れ、高校棟へ。
二年生の廊下へと進むと、賑やかな声に包まれます。目当てのクラスへ向かうにつれ、お兄ちゃんの友達である夜野さん、朝日さんや、クラスの人に混じって、お兄ちゃんのとても楽しそうな声が聞こえてきます。思わず笑顔が浮かびます。昨日のことは、夢なのか分からないけれど……お兄ちゃんが幸せである、それだけが真実なら良いのです。
少しだけ、窓の外を眺めると、飛行船がのんびりと浮かんでいます。わたしは二―三の教室を覗きました。
「長谷部、姫花ちゃん来たぞー」
「お熱い兄弟愛ですな!」
(うぅ、朝日さんもからかう系?)
みんな、仲の良い兄弟にはこんなかんじなんでしょうか?
案の定、お兄ちゃんのひっさつチョップが飛んでいました。
「馬鹿言うなっ! 姫花、帰ろうぜ」
そして、校門を出ようとしたとき。
「……」
お兄ちゃんが立ち止まりました。
「……お兄ちゃん?」
顔を見上げると、ものすごく気まずそうな顔で。
「姫花、……こっちから帰るか」
「う、うん……?」
くるりと踵を返し、裏門へ。心なしか足は速く、黙ってわたしの手を握ります。
まさか、「オトウサン」……?
裏門に着くと、白い人影が見えました。
「げ」
お兄ちゃんが呻きます。
「ぜはっ、ぜはぁっ……逃げることないじゃない……」
きれいにまとめ上げた金髪をぼさっとさせ、きっちりとした白いスカートスーツを少し着崩し。息を切らした、想実さんがいました。
「来るのかよ、ここまで!」
「来るわよっ! だって昨日、」
『私は真海想実というの。明日、また会いに来るわ』
「って別れ際に言ってたじゃない!」
そ、そんなこと言ってたっけ……? 怪物ばかりに目が行って、一見普通のOLである想実さんまで覚えてなかったような。反省。
「あんまりにも現実離れしすぎてるだろ! まさかホントに来るとは……」
「ふっ。まぁいいわ」
想実さんは不敵に笑い、財布を取り出し。
「ロイヤルグランデの、好きなメニューで手を打ちましょう」
「……!」
ロイヤルグランデ、といえば、ちょっと高級なファミリーレストラン。長谷部家の家計では誕生日しか行けない贅沢!
ストロベリーパンケーキが、脳裏をよぎりました。
「……!」
お兄ちゃんも目を見開いて、いえ、考えていることは分かります。脳裏には、きっとデカ盛りミートスパゲッティがよぎっています。