スラックスが空を飛んでいる
空に。
スラックスが。
飛ぶ瞬間を、長谷部(十七)は見た。
その隣では、彼の妹、長谷部姫花(十四)が同じく見上げている。
露出した膝と腿を通り抜ける春風の感触。
下着をめくられた感覚を、知っているだろうか?
ひとりでにベルトが外れ。
スラックスが、ひらりと。
ぺしゃりとそれが地面に落ちたころ、全ての感覚が戻ってくる。
虚ろな目で、長谷部はスラックスを見つめた。折れ曲がった学校指定の灰色スラックスは、微かな砂が付き、まさかそんなことがあろうかという思いがけぬ事態に、ただ膝を屈している。
ろくなもんじゃないことを、長谷部は今知った。
「ぎゃああああああああああ!??!??!?!??!?!??!?」
絶叫が住宅街へと響き渡る。
「なっ! なななんななん!?!??!??!?!」
奇声を上げながらスラックスを履きにかかる。いきなり自分から離脱したとは思えないほどあっさりスラックスは足に入り、しかしバックルが締まらない。正しくは閉めても落ちてしまうのだ。見ると、分厚いベルトがかまいたちに遭ったかのように、中ほどですっぱりと着られていた。
全て、まさか、この奇人に!?
「ごめんねー。語るきっかけがなかったから、つい」
「コミュニケーション下手か!?」
思わずツッコみ、いやそこではないと思いなおす。
「ベルト切るなんて……お前はいったい何なんだ!?」
「私はこういう者です」
何もかも間違った出会いのくせに、奇人は名刺を差し出してきた。ダンゴ? しによん? に結ばれた金髪、青い目、真っ白なスカートスーツ。その実態は……!
『怪奇専門呪術師◆真海 想実』
「信じられるかっ!」
長谷部は名刺を振り払った。怒りと羞恥と怒りがないまぜになった地面へのキックもつけて。
「そうね、信じてくれないわね……」
想実は溜息を吐くと。
「これなら信じてくれるかしら?」
ひらりと指を反らす。すると、再びスラックスが風に舞い上がり……また飛んでいった。
「信じろってのか!? この行動で!?」
信じるというまで、長谷部はスラックスをめくられ続けるというのか!? 人間技か、幻か!? そもそも、触ってすらいないのに、勝手に足からスラックスが抜けて飛んだ。人ならざる行為であるのは間違いない。
「わ、分かった……信じるから、スラックスをもとに戻してくれ! 恥で死にそうだ」
「お兄ちゃん、姫花はそんなことで嫌いにならないよ! お兄ちゃんがいつだってカッコいいこと知ってるもの」
「サンキュ、姫花……!」
最愛の妹の、ちょっぴり天然な励ましを心に留めつつ。
「信じてくれて助かったわ」
奇人が微笑む。途端、スラックスがぴったりと止まった。ベルトの切れ目も完璧に繋がり、そもそも切れたことすらなくなったように。
……本当に、呪術師なのか。
……呪術師って、他人のスラックスを剥がす職業だったっけ?
「あなたの妹には呪いがかけられているの」
「わ、わたしに?」
「姫花に!? ……それは、その……」
長谷部は元に戻ったスラックスを見つめながら呟いた。
スカートがひらりっ、なアレなのか。
だとしたら兄の威厳をかけて阻止しなければならない。
奇人は静かな声で言った。
「えぇ。とてもレアな呪い……獣の呪いよ」
「……け、獣っ?」
とりあえず、スカートがアレな呪いではないことに安心した。だが、獣という名前は安心できない。そもそも、呪いが妹にかけられていると?
長谷部は、今のやりとりがなければ、鼻白んでいただろう。
「獣の呪いは人間を喰う怪物の呪い。私は目覚めの阻止を行う者なの」
「どうやって……」
「目覚めを望むボイルド達を、掃討することで」
奇人は答え続ける。だが、なにひとつピンとくるものがない。オークとか、魔王とか、ファンタジーな言葉ならイメージもついただろう。
目覚め。
ボイルド。
……やっぱり電波な女の……そう思ったとたん、奇人の指が小さく動いた。
それだけの動きだったが、長谷部は慌てて疑いを止めた。三度スラックスを剥がされては敵わない。
途端。
寒気が駆け抜けた。春も半ばというのに、まるで背中に氷を入れられたかのような……。
「来たわ。ボイルドよ」
「だからなんなんだよ、それ……!」
カエロウヨ……
オモイダソウヨ……
「な、なんだこれっ!」
「こういうモノが湧いてくるのよ!」
さざめきのように。ざわめきのように。嫌な声は脳へと張り付き、じわじわと侵略を始める。
「何だこれ、頭が痛ぇ!」
「数が多いわね。呪いがかけられている子達がいるから……こうなった以上、あなた達にも手伝ってもらうわ」
そういって、長谷部に差し出されたのは、一丁の拳銃。……拳銃?
思わず。
「……銃刀法違反」
「あなたのお父さんも気軽に破ってるから大丈夫よ」
「なんでそれを知ってる!?」
「持ってみなさい。すぐに分かるわ」
受け取った途端、溶けるように形が崩れ、くるりと長谷部の腕に絡みついた。うわっ、と声を出したときは既に、拳銃はリストバンドに姿を変えていた。ご丁寧にタオル生地である。
「それは自在武器。あなたの意志によって形を変えるの。便利でしょ?」
「便利だけどさ……お前、何者?」
「ナビ機能とお説教機能もついてるの」
「説教はいらなくね!?」
『坊ちゃん。若き青年には必要なことなのです!』
「喋ったァ!?」
「あ、あの、上から……!」
姫花の言う通り、ガラスの天井には何かが張り付いていた。
見たことのない生き物。
一見はクマのぬいぐるみに似ている。どうしてクマなのだろう。けれど目は幾重にも重なった光で、どす黒く揺らめいている。愛らしいはずの腕には巨大な爪が生え、ガラスを傷つけている。
それらが、五m四方の天井に、みっちりと詰まっていた。ガラスの天井は、今にも割れそうに軋んでいた。
「うわっ……」
おぞましさに引いたが、想実は怯えを許さない。
「来るわ、長谷部君。準備はいい?」
「いい、って……」
拳銃なんかを握って、あの爆走暴走父と一緒にならないか? 同類にならないか? 平気な顔して傷つける、極悪人にはならないか?
姫花の顔が目に入った。突然放り込まれた非日常に心配そうに、けれど唇を噛んで耐えている。間違いなく怖いだろうに。
……妹を、誰が守るというのか。
ガシャアアアアン!
ガラスの割れる音。雨のように降り注ぐクマのぬいぐるみのような怪物。手足は愛らしく太いが、瞳は凶悪な色に輝いている。あれがボイルドというのだろう。
自在武器の使用方法を聞いていなかった……だが流石ナビまでついている武器、勝手に使用方法が頭の中に流れ込んでくる。
拳銃に変われと念じれば拳銃に。剣に変われと願えば剣に。
拳銃を構えた。標準はボイルド一体ずつ。こうなれば、状況に任せるしかない!
引き金を引くと、弾が発射される手応えがあった。ボイルドの腹が撃ち抜かれる。胴体を撃ち抜かれたボイルドは風船のように破裂し、後には綿のような細かい何かが散った。それもすぐに夜風に散らされるか、他のボイルド達に吸い込まれていく。
安堵したが、まだまだ敵は頭上に数えきれないほど存在している。
上は怪物だらけ。次々と降ってくる異常事態。なのに長谷部の精神は驚くほど冷静だった。怯えも恐怖もない。ただただ、落ちてくる怪物を的確に狙い撃っていく。
「いいわ、その調子よ!」
想実が両手を広げた。彼女の指から輝く糸のようなものが飛び出、ボイルドを直線に打ち抜いていく。
長谷部も想実に負けず、撃ち抜こうとして。
「っ!?」
いつの間に床へ降りたのか。一体、足元から滑り込んでくる。長谷部より先に武器が動き、体ごと引っ張られる。ボイルドの爪が、床を掠めた。
途端、床は砂と化した。黄土色の、砂漠のような砂。
ボイルドは一瞬の間それを見つめたが、すぐに長谷部へと向かってくる。反射的に引き金を引く。
やがて、静かな町が戻ってきた。遠くから微かに車のエンジン音が響いている。
「お疲れ様。出てきたボイルドはこれでおしまいよ」
「よっしゃ! ……うあ、疲れた……」
ふらつく長谷部を、姫花が支える。
「初めてにしては最強によくやったわ」
「最強に」
「えぇ。これ以上ないくらい……どうやったらそんなにできるの……呪いの影響かしら?」
「そ、そんなにか?!」
「あぁ、あと」
想実は自在武器を指さす。いつの間にか、拳銃からリストバンドへと戻っていた。
「念のために言っておくけれど。その武器は対ボイルド用。普通の生活では使えないわよ」
「だ、だれが使うかっ!」
言ったものの、長谷部の脳内では既に木島へ挑みかかるシュミレーションがされていたりされていなかったり。どう見ても普通の武器ではない自在武器なら木島も手が出まいとか考えていなかったり。
「お兄ちゃん、大丈夫だった……?」
「あぁ。大丈夫だ」
ふらつきは既に取れていた。長谷部は姫花の頭に手を乗せ、軽く撫でる。
「どんな奴が来ても、俺が守ってやるからな」
妹は微笑んだ。
嬉しそうに、少し不安そうに。