鉄籠
「あー、あー、聞こえてる?」
マイクの向こうから返事は返ってこない。ただ私の声が反響して響いているだけだ。モニターに映る向こう側は真っ暗闇で何も映っていない。
「ねえ、いるんでしょ。返事してよ。こっちは本当にひどい有様なんだからさ」
どれだけ訴えても返事は返ってこない。あーあ、つまらないの。
「おい、またやってるのか。ここは立ち入り禁止だと言っただろう」
ふと、背後から声が掛けられる。振り向かなくても誰が言ったかくらいは分かる。けれど私は素早く振り向いた。
背後に立っていたのは、長い赤茶の髪を胸のあたりまで伸ばし、白衣に身を包んだ女性。ここで暮らす住人の一人だ。
「ヒルダ、来てたんだね」
「来てたんだね、じゃない。通信室は立ち入り禁止で鍵もかかっていたはずだぞ。どうやって入った」
私は手に持っていたヘアピン二本を彼女の前にちらつかせた。ようするに、こじ開けたのだ。
「全く、お前というやつは……。まあいい、朝食の時間だ。食堂へ来い」
またあの不味い飯を食べなきゃいけないのか。死ぬまで毎日あれだけだとそのうち食糧が尽きる前に死ぬんじゃないかと私は思うね。
私はしぶしぶ通信室を出た。廊下は相変わらずひんやりとした空気が漂っていて、天井も床も綺麗に磨き上げられていた。時折り清掃ロボットが音を立てて天井を磨きぬけていく。窓の外は相変わらず黒かった。暗闇、というべきだろうか。まあ、中は明るいし気にすることでもない。外で遊べないのはつらいけれど。
食堂は二階の隅にある。私が中に入ると、隅の方の席でヒルダが飯をかきこんでいた。ガツガツと朝食にありつく様はまるで獣のようだ。心なしかこちらをにらんでいるような気もする。早く飯をよそろう。私は皿をお盆にのせ、配膳スペースに並ぶ機械の「朝食」のボタンを押した。ドビュッ、と赤いペースト状の朝食が私に提供される。うっわ、美味しくなさそう。
「ねえ、ヒルダ。これ人間が食べるものじゃないと思うんだけど」
「いつもそう言うな、お前は。私はこっちの黄色ペーストだがカレーの味がして美味しいぞ。毎日これだが飽きる気がせん。それにお前にはそれがちょうどいいんだよ」
朝食の種類は食事ごとに決められている。機械の前に立ち、朝食、昼食、夕食、おやつのボタンをそれぞれ押すだけだ。するといつものようにドビュッとご飯が出てくる。そういえば、これはどこで作られているんだろう。もうここには私とヒルダしかいないし、どこかに調理室があったとしても機械が作っているんだろうか。それは人間が食べるものじゃなくて機械のための食事なんじゃないか? と、私は首をひねりながらいつものように赤いペーストを鼻をつまみながら胃の中に押し込んだ。ふう、やっと解放された。食べてしまえば清々しい気分だ。私はこれに勝ったんだ。自分を誇ろうじゃないか。
「おい、お前。次は学習の時間だ。いつものところで教育を受けろ。私は仕事に移る」
彼女は厳しい口調で私に指導棒を向けた。鋭い眼光が突き刺さりそうだ。ああ、怖い怖い。
「ねえ、ヒルダ。いつもそう言ってどこか行っちゃうじゃん。私も学習以外のことしたいんだけど」
「ダメだ。お前には学んでもらわなければいけない。私にはここのメンテナンスという重要な使命があるのだ、我慢してくれ」
彼女はいつも同じことを言う。言われすぎて全く同じ口調で彼女に言い返せるほどには言われてきた。なぜ私が学ばなければいけないのかも聞かされていない。やらなければいけないから、やるのだ。
彼女は食堂を足早に出てどこかに消えてしまった。ここは広い。外から見たことが無いからどのくらい広くて、私の部屋が全体から見てどのへんにあるのか分からないけれど、いったんはぐれてしまったらどこをどう探しても彼女を見つけられない。もしかしたらここから遠いところに私に言わずに出かけて行って戻ってきているのかもしれないけれど。
私が彼女の行方に思考を費やしていると、二足歩行のロボットがやってきて「教育の時間です」とだけ告げた。外見は人間に近いが色はグレー、目の部分にはカメラアイが搭載されている。身長は私よりもだいぶ大きい。ヒルダと同じくらいだと思う。機械は繰り返し学習の時間であることを私に告げてくる。返事をしない限りエンドレスにこの呼び出しは続く。ヒルダを探したいけれど、後で怒られるのも嫌なので私は機械の応答ボタンを押し、それにくっついて学習室まで行った。学習室は窓が一つもなく、天井に張り巡らされた導線と鉄パイプが不気味な研究室のようだった。中央の椅子に腰を下ろし、頭に電極の付いたヘルメットをかぶる。腕はしっかりと固定され、足は椅子に縛り付けられる。なるほどこれは体に覚えさせる方の教育なのだと思っていた時期もあったが、そんなことはなく、頭の中に流れ込んでくる情報に対して私が暴れた時のための制御装置であった。これまで何回か暴れたようだがその度に電気ショックのようなものを与えられているらしく、一切の記憶がない。気づいたら自室のベッドで横になっているのだ。
丁度私の目の位置に小さなスクリーンが下りてきて、部屋が真っ暗になる。さながら映画館のようだ。映画館に行ったことはないけれど学習で見たからどんなものか分かる程度だけれど。
頭に電気が走り思わず声が出る。そのまま力を抜いていくと体が微弱な電気に慣れていき学習が始まる。目の前のスクリーンに「歴史」と言う文字が表示され、説明文が書かれた。女性の声でそれが読み上げられる。感情がこもっていない、ただ読み上げました、というような淡々とした声だ。
「地球が温暖化の影響で滅んでから百年余りが経ちました。人々は月に逃げたり、地下に潜ったり、宇宙にコロニーを浮かべてそこに移り住み、様々な方法で生き永らえようとしました。しかしそんな彼らを原因不明の病が襲います。体がとてつもなく痒くなり熱が出てそのまま血を噴き出して死ぬ病です。それは生き永らえた人類の命をいともたやすく奪い去りました。そんな中なんとか生き延びた人間たちは別のところでも暮らしていける抗体を持った完全な生命体を作ろうと躍起になります。多くの犠牲を払いましたが技術の進歩は大きく……」
いつも同じ授業で飽き飽きしてくる。けれど、頭の中の知識が増えたことは実感できる。今日の講義に思うことは、ここにもこのコロニーをメンテナンスするために誰かいたのだろうけれど、死んだんだろうなということだ。私は気づいた時からここで暮らしているしそのときからヒルダと私しかいなかった。私は首を傾げた。あれ、私はいつからここにいるんだっけ? 思い出せない……。
関係ないことを思考したせいか、頭の電極に電気が走る。すぐさま私の脳みそは教育モードに切り替わった。その後も歴史や数学、生物、昔の人間たちの文化などの授業が頭の中に流れ込むようにして入ってきた。賢くなるのはいいけど分量を考えてほしいところである。あまりの情報量に吐き気を覚えながら、私は学習室を出た。
頭を使うと甘いものが欲しくなる、生きているという証拠だろう。かといっておやつは甘いだけのペーストだし……。まあ、いい。昼食までやることもないから部屋に戻ろう。私は実験用ネズミなんかじゃないんだから、もう少し娯楽が欲しいところだ。
* * * * * * *
私の父は国で指折りの生物学者だった。母は私を産んだ時に亡くなったと聞いているが、本当のところはよく知らない。「ヒルダ」と言う名前を私に付けたのは母らしいが、写真は全て父が焼いてしまったからどんな人だったのかも分からない。だから、私にとって家族は父が全てだった。彼の仕事場で育ち、若くして英才教育を学んだ私は十四で父の研究の助手を務めていた。
私たちの国の研究者は限界まで地球に残り、自然環境復活や生態系の活性化を地下施設で研究していた。しかし地球環境は日に日に悪化していき、研究者たちは「このような環境でも生き残れる人類を作る」ため、宇宙に特殊なコロニーを打ち上げそこで研究を続行することになったのだ。
父の研究チームは私と私の親友を含め百人近くがこのコロニー『揺り籠』で生活し、人工生命体を作るため日夜研究を重ねた。
そして数年の時が過ぎ、私が二十二になったときついに『人類の希望』が完成したのだ。人工的に生命体を作るため、私と父以外の職員が臓器を提供させられたり、薬品の実験台に使われたりして犠牲になった。私も親友を何人も失った。父の命令は絶対で研究員は従わざるを得なかった。他のコロニーでは原因不明の熱病が流行っていたのもあり、人々は「苦しむより、楽に自分の命を後に渡したい」と思ったのか、命令には素直に従っていたように見えた……。
「寝てしまったか……」
私は執務室の机で目を覚ました。ふと時計を見る。ちょうど彼女の学習が終わった頃だろうか。部屋には冷却ファンの低い音だけが響いていた。嫌な夢を見たせいか、汗をべっとりかいている。
今までの過去を夢に見たのは今回が初めてではない。父が亡くなり、残りの研究者も亡くなり、私と『人類の希望』だけになった今の方が昔よりもはるかに多くこの悪夢を見る。気にしないようにしなければ、前に進めない。
そういえば彼女と最近よく話すようになったな。前まではそんなことはなかった。
生み出されたばかりの彼女は感情が無く、ただ命令に従い生きる存在だった。今のように無邪気な少女の性格が現れたのはあらゆる感情パターンを学習させたとき、発現したものである。つい数年前のことだ。私が今三十八だからだいたい彼女は十三歳くらいでやっとまともな感情を手に入れたことになる。「人工人間とはそんなものだ、感情を与えることが一番の難所だ」とよく父は言っていたが、そのことを最近よく実感している。
私は冷凍室に向かった。壁一面の棚に厳重に保存されているのは冷凍保存された精子や卵子と臓器、そして人造人間の卵ともいえる特殊な物質。これらを使うことが許されているのは私ではなく、彼女のみだ。彼女の学習が完了した暁には私たち研究員の全ての知恵と技術が彼女に身に付いていることだろう。保管棚の横に立っている巨大な食糧タンクの残量を見る。かなり少なくなってきている……終わりの時が近いということか。私は胸ポケットから電子タバコを出し口にくわえた。水蒸気が肺に流れ込んでくる感覚。
「やっぱりタバコは天然モノの方がいいな……」
何週間経ったかな。通信室の扉はこじ開けて以来封鎖されちゃってるし、やることも特にない。だけれど前よりも多くのことが頭に入ったおかげか、外を眺めていても「あれは何の星だ」とか「あれは別のコロニーの残骸だな」とか分かるようになっていた。学ぶことは嫌いだったし、情報の整理ができてなくて混乱してたけれども
だいぶこの暮らしにも頭と体が慣れたんだろう。以前の私は「なんとなく生きてる」って感じで決まった通りに起きて食べて学んで食べて……ってしていたけど今はそれにも意味があるように感じられている。いいことじゃないか。
ジリリ、と朝食のベルが鳴ったので食堂へ向かう。ヒルダはすでにいつものものにありついていた。私もいつものようにペーストを皿にのせて、初めて彼女の向かい側に腰掛けた。
「おお、お前。どうした今日はここに座るのか」
彼女は少し驚いたように目を丸くして私に笑いかけた。
「ねえ、ずっと聞きたかったことがあるんだけど。というか今まで私どうしてきたのかも覚えてないんだけど……」
「何だ?」
私は少しためらって、口に出す。
「私の名前って何?」
ヒルダは面食らったような顔をして、その後目を伏せ、眉間にしわを寄せた。そして静かに
「まだ学び終えていないんだ、だがそれに気づくくらい成長したのなら学習項目を選ぶといい。お前自身のことについて学べ」
と言い残し、席を立ってどこかへいつものように消えてしまった。彼女にしては珍しくかなり動揺しているように見えた。私は何かまずいことを言ってしまったのではないかと思う反面、自分のことについて知りたいという気持ちを抑えられなくなっていた。
気が付けば、私の横に学習室のロボットが立っていた。私は静かに応答のボタンを押し、ロボットの後について部屋まで行った。
ロボットは珍しく私に命令してこない。
「おめでとうございます。あなたは全ての必要項目を学び終えました。新たな項目にアクセスできます」
機械はそう残して黙ってしまった。私が指示しなければ何も言ってこないのだろう。何故か私にはやっとすべてのものを学び終えたという達成感が感じられなかった。ただ淡々と椅子に座って情報を詰め込んできた内容が頭の中で体系化されていなかったからか、それとも今は好奇心が勝っているからか、どちらかは分からない。
「自分について知りたいの」
私は椅子に腰かけ、自ら電極のヘルメットを頭にかぶりスクリーンを目の前に持ってきた。
「覚悟はよろしいので?」
ロボットはそんなことを聞いてくる。そんな重要なことなの? 私はただ名前を知れればそれでいいのに。
「いいよ」
私は適当に返した。早く見せてくれと言う気持ちが早まったからだ。部屋の中が暗くなり始める。映画の上映のように、スクリーンにメニューが表示される。
「あなたについて説明する前にこのコロニーと目的についてご説明いたします」
アナウンスがかかった。感情のない、いつもの声だ。
私は緊張して眼球がぴくぴくするのを感じていた。
「このコロニーの正式名称は、『研究生活型コロニー・揺り籠』といい、滅びの地球から逃れた研究者たちが新たな生命を生み出すために集い造られたものです」
という出だしから、機械は淡々とこのコロニーについて、人数が何人くらいいたか、そして何のために人数が減ったのかなどが語られた。部屋には沈黙が流れていた。鉄の床と壁が普段よりいっそう冷たく感じられた。そして機械はついに私の話をし始めた。
「もうお気づきかと思いますが、あなたは純粋な人間ではありません。あなたはヒルダ氏とその父によって産み出された人工生命体、ホムンクルスです」
話の流れから、なんとなく察しはついていた。ヒルダは普段から私によくしてくれるし、彼女は面倒を見てくれていた。だけれど、「実は私は記憶を失っている元研究員でした」とか「実はヒルダと研究員の間に生まれた子供でした」のようなオチじゃないかとも思っていた私は大きな衝撃を受けざるを得なかった。いや、むしろ真実はそっちであってくれた方がよかった。自分は純粋な人間ではなく、作り出された生命体だというのだ。にわかには信じがたい。汗が噴き出るのが感じられる。体が熱い。鼓動が早くなる。この胸で高鳴る心臓も、贋作だというのか。私は逃げ出したいような消えてなくなりたいような感覚にとらわれた。今すぐこの席を立って走り抜けたい。ただ、そんなことをしてどうする。この船の外には逃げられやしない。外は宇宙だ。逃げ場なんてどこにもない。ヒルダに行き場のない怒りをぶつけるのか。それで何が変わる? 珍しく私の頭はフル回転していた。
私は呼吸を整えながら、席に深く座りなおした。まだ、続きがあるようだ。スクリーンのメニューには「壊れかけたファイルが一件あります」と表示されている。機械は何も言わなかった。
「復元して開いて」
と、私は言った。一体何が出てくるのだろう。私の設計図か、私の中身か、私を作るために死んだ職員の名前か。私は身構えた。
復元中の文字が画面で点滅を繰り返している。「しばらくお待ちください」という声が部屋の中にエコーしていた。五分ほど経っただろうか。復元中という文字が消え、「父からの手紙」というフォルダが出現した。私は目で機械にファイルを開くように指示した。
画面に映し出されたのはかなりノイズが入った一本のテープのようだった。音声はかろうじて聞き取れそうだが、かなり映像が荒い。私はさらに復元加工するように言い、機械が修復を行った。やっと綺麗になった。これで見られるな……。
そのビデオに写っていたのは白衣を着た初老の男性とその腕に抱えられた白銀の髪の赤子。そしてその周りにいる研究員と思われる何人かの人々。男性の隣に立つ女性はヒルダだろう。赤茶の髪をポニーテールにしてカメラの方に笑いかけている。赤子を見たとき、私はその子が自分だと確信した。髪の色は同じだし、なんとなく雰囲気で分かる。しばらくカメラは彼らだけを映していたが、やがて初老の男性が口を開いた。その言葉を私は忘れることがないだろう。
「これを見ているということは学習が無事に終わったんだね。
おめでとう、嬉しいよ。君が完成したこの日は君の誕生日だ」
「ハッピーバースデー! イヴ!」
「私の……なまえ、イヴ――」
自然と私は呟いていた。涙があふれるのを感じた。
口々に周りの人々が男性、いや父に合わせて「おめでとう」とこちらに笑いかけてくる。この場にはいない彼らが、今もこの部屋にいて一斉に祝ってくれているような感じがして、私は胸が苦しくなった。
そんな時だった。突然廊下の方から大きな爆発音がして、爆風で扉が吹き飛ばされた。私は急いで頭からヘルメットを外し、席を立って廊下に飛び出た。私の自室の方から段々と爆発が起きている。何があったのかと思っているとコロニー全体に「ハッピーバースデー」の曲がかかり始めた。スピーカーから、あらゆる研究者の声が
「おめでとう! イヴ」と言っている。不思議な光景だった。
私の方に向かってくる爆発から逃げようと逆方向の廊下へ駆け出したとき、曲がり角からヒルダが飛び出てきた。全力で走ってきたのだろう、息を荒げ汗をかいている。彼女は私の胸倉を強い力でつかむと鬼の形相で私に聞いてきた。
「お前、あのビデオを見たのか? 父のビデオを」
「見たよ」
私は震える声で返した。まずいことをしてしまったのだろうか。彼女のこんな表情を見たのは初めてだ。
ヒルダは「そうか……」と言って何かから解放されたような表情になり私を離した。そして白衣を正し、私の両肩をつかんだ。力が入っていて痛い。
「痛いよ、ヒルダ」
「そんなことを言っている場合じゃない。お前に今から三つの質問をする。答えられるはずだ、今のお前なら。いや、答えなくてはいけない」
彼女は泣いていた。両眼から涙を流しながら、彼女はゆっくりと口を紡いだ。不思議なことにスピーカーの声が、爆発音が、止まった。静寂の空間に私たちは取り残された。
「お前は人間ではない、何者だ?」
質問された瞬間、リミッターが外れたように膨大な知識が頭の中に流れ込んでくるのを感じた。それには人工人間のつくり方であったり、私の生存方法であったり、病の治し方であったり、地球を再生するために研究者たちが調べ上げてきた知識が含まれていた。
「ヒルダとその研究者たちに作られたホムンクルス……だよ」
私が答えると彼女は頷いた。
「お前は人類の何だ?」
「希望。人類の希望」
間髪入れずに私は返す。次が最後だ。何を聞かれるかは何となくわかっていた。それでも、彼女の口からそれが聞かれることに私は恐怖を感じていた。
「最後だ。お前の名前は何という?」
私はすぐに答えられなかった。これに答えてしまったら本当の終わりが来るような気がして。けれど私の口は意思に反して回答を返していた。
「イヴ……それが私の名前」
――少しの沈黙があった。ヒルダは深く頷いて、
「ああ、そうだ。そうだな、イヴ」
と言った。私に見せた表情の中では一番柔らかい笑顔だった。
そして感動の対面を邪魔するように再びスピーカーから声が流れ始め、ひときわ大きな爆発が起こった。私たちは爆風で数メートル後ろに投げ出され、壁に叩きつけられた。体に衝撃が走り、目の前が一瞬真っ暗になる。
ヒルダは私の手を取って爆発とは逆方向の、私が行ったことがないエリアに向かって走り始めた。
「どこ行くの?」
彼女は何も言わなかった。ただ、彼女の私の手を握る手にひときわ強い力が入ったように感じた。爆発や燃えている区域を避けながら私たちは『脱出ポット』と書かれた部屋の前にやってきた。
「何ここ? 私どうすればいいの?」
ヒルダは流れ落ちる涙を服の袖で拭って、爆風の音にかき消されないくらいの大きな声で叫んだ。
「この船はもう終わりだ。見ればわかるだろ? この船は研究者が生活するためだけに作られたんじゃない。お前の成長を見届ける一つの装置でもあったんだ。お前の教育が終わった今、この船は役目を終えた」
彼女は脱出ポットの扉を開け放ち、私の手を引っ張って強引に中に入れた。
「ちょっと、どういうことか分かんないよ!」
私には訳が分からなった。教育が終了したと思ったら突然父親のビデオを見させられて、名前を知って……。けれども私、実は心の底では気が付いてるんじゃないの? 私は『人類の希望』なんだよ。
ヒルダは脱出ポットを本体から解除するために何か暗号を壁のモニターに打ち込んで、言った。
「お別れってことだよ。イヴ」
私は何も言えなかった。一体なぜ彼女と私は離れなければいけないんだ。離れてしまったら、私もヒルダも孤独になる。それはつらい。嫌だ、イヤだ、いやだ。
私は彼女の腕をつかんでこちら側に引っ張ろうとした。
「何でヒルダは来ないの、一緒に来てよ!」
ああ、そうか。私、ヒルダと過ごしてきた日々が、ヒルダが恋しいんだ。別れたくない。そう心の底から思えてしまう。
「お前なら大丈夫だ、イヴ。この船には食料や冷凍された精子や人工人間製造のための物質、地球を元に戻すための道具が全て積んである。お前にはその知識の全てを教えたはずだ」
彼女は私の手を振りほどいた。彼女の胸ポケットから電子タバコがポット内に滑り落ちる。
「それに、私はもう十分なんだ。お前を生み出すためにあらゆる友人を犠牲にしてきた。そろそろ父のところに行きたい。ごめんな。もう休ませてくれ……」
そう言って、ヒルダはドアを勢いよく閉じた。そして外側から電子ロックをかけ私を閉じ込めた。
「ヒルダ、ねえ、やめて」
「離れたくないよお母さん……」
私は扉に貼りついて、ドアの小窓から見える彼女に向けて叫んだ。ヒルダは扉の向こうで優しく笑っている。「お前にそう呼ばれる日が来るとは思ってもみなかった」とでも言いたげな表情だ。
そして彼女の唇が「さよなら」の形を描くと、脱出ポットは『揺り籠』から切り離された。ポット内のスクリーンには『地球行き』と出ている。段々と遠ざかっていくヒルダの姿が涙で滲んでよく見えない。
涙を拭きとって、私はヒルダが落とした電子タバコを口にくわえてみる。微かに彼女の香りがした。吸い方は教えてもらわなかったけれど、いつも彼女のやり方を見ていたからなんとなく出来た。
遠ざかる『揺り籠』は全面が鋼鉄で出来ている立方体の形をしていた。生まれて初めて、生まれた場所を外側から見た。無骨で、冷たくて整ったその籠は『揺り籠』というにはほど遠いものだ。
「ねえ、ヒルダ。私たちの育ったところ、揺り籠なんかじゃないよ。冷たくて大きい鉄の籠だよ……」
私はそう呟いて、タバコの水蒸気を大きく吐き出した。彼女がかつてそうしていたように。
地球まではあと数時間あるらしい。さて、思い出にふけろうか。
私は彼女の笑顔を浮かべて、静かに目を閉じた。