⑨
トレイヴォンはマスクウェルの行動に驚き、目を見開いている。
しかしマスクウェルはファビオラの腕と腰を掴むと、引き寄せるようにして抱え上げた。
「───マッ、マスクウェル殿下!?」
「ファビオラ、少し休もう」
「~~~っ」
そしてトレイヴォンに背を向けて歩いていく。
いつも冷静なマスクウェルがファビオラを大切そうに抱えて、扉まで歩いていく。
「……!」
「トレイヴォンさまぁ、わたくし具合悪くなってしまってぇ」
「わたくしも頭がいたぁい」
「ちょっと、どきなさいよ!」
「あんたこそ邪魔なのよッ」
しかしトレイヴォンは大量の令嬢達に囲まれて、先に進めなくなってしまう。
その隙に、マスクウェルはファビオラと共に静かな廊下を進んでいく。
ファビオラは落ちないようにマスクウェルの首に手を伸ばそうか、伸ばさないか迷いながら腕を忙しなく動かしていた。
驚き過ぎたためか、ファビオラの涙もすっかり引っ込んでしまう。
(な、何が起こっているの……?)
マスクウェルに戸惑いすぎて不細工になった顔を見られなくてよかったと思ったのも束の間、どんどんと辺りが静まり返っていく。
そして会場より少し離れた場所にある医務室に入り、ファビオラは丁寧にベッドの上へと降ろされる。
マスクウェルが医師と何か話すと、医師は深々と頭を下げたまま部屋の外へ。
パタリと扉が閉まる。
部屋の中にはファビオラとマスクウェルの二人きりなった。
(え…………?どうするの、コレ)
ファビオラが困惑しつつマスクウェルの様子を見ると、彼はため息を吐きながら今まで着けていたクラバットを外しているではないか。
「~~~っ!?!?」
ファビオラの頭に「まさか!?」という想像が思い浮かぶ。
マスクウェルはこんなことを急にするキャラではないと言い聞かせながらファビオラはドックンドックンと跳ねる心臓を押さえつけていた。
クルリと振り返ったマスクウェルは上着を脱いで、襟元のボタンを外している。
ファビオラは「ひぇ」と小さく悲鳴を上げてから両手で顔を覆う。
指の隙間からマスクウェルの顔を見ようとすると、いつの間にか距離が縮まっていてファビオラは驚いて体を引いた。
体重がかかったことでベッドが軋む。
「───◎+%*ぁ、※○っ!?!?」
ファビオラの悲鳴ともいえない声が響く。
パニックになり座ったままの姿勢で後退するものの無情にも背に当たる壁。
前からはマスクウェルがファビオラに追い詰めるようにして手をついた。
逃げ場を塞がれたファビオラは息を止める。
「もう……我慢できない」
「は、わっ……」
「…………」
「マスク、ウェル様?」
琥珀の瞳と目が合う。
いつもとは違う鋭い視線でこちらを見据えているマスクウェルに腰が砕けそうになる。
マスクウェルの手がファビオラの頬を滑る。
そのまま親指がファビオラの震える唇をそっと撫でた。
ムスクの匂いが鼻を掠める。
ファビオラは覚悟を決めたように目を閉じた。
「は、はじめてなので、優しくしてください……っ!」
しかしいくら経ってもマスクウェルは動くことはない。
何も答えないマスクウェルを不思議に思ってファビオラへゆっくりと目を開けた。
すると耳まで真っ赤にしたマスクウェルがファビオラから手を離して目元を覆い隠してしまう。
「期待しているところ申し訳ないんだけど……それは結婚してからだよ。ファビオラ」
「へ……?」
「そ、それよりも聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
「!!!」
珍しくマスクウェルが吃っている。
その瞬間、自分が盛大な勘違いをしてしまったことに気づいて、マスクウェル同様に顔が真っ赤になった。
二人で照れ合うというよくわからない状況の中、マスクウェルが口を開く。
「な、なんでしょうか」
「どうして泣いたの?僕が何かした……?」
「違いますっ!マスクウェル殿下は何も悪くありませんわ!」
そう言ってファビオラがマスクウェルを見上げるようにして見ると彼は苦しそうに眉を顰めている。
「理由を教えてくれ」
「……っ」
あと少ししかマスクウェルの婚約者でいられる機会がなく、婚約破棄されてしまうことが嫌だから、なんて言えずにファビオラは押し黙っていた。
「マスクウェル殿下のせいではないんです……わたくしのせいで」
「どうして僕じゃダメなの?」
「……え?」
「僕を選んでくれ。ファビオラ」
マスクウェルの悲しそうな表情にファビオラは戸惑っていた。
まるでマスクウェルがファビオラを好いているように聞こえなかっただろうか。
「こんなに君のことが好きなのに……っ、どうして伝わらないんだ」
その言葉にファビオラは思考停止した。
頭の中には『君のことが好きなのに』というマスクウェルの台詞がエコーのように反響していた。
何よりマスクウェルの気持ちを初めて聞いて、尚且つ両思いであることに戸惑いを隠せない。
(あれ、えっ……?こんな展開は原作にないはずよね????)
ファビオラは間近にあるマスクウェルの顔をチラリと見る。
相変わらず美しいのだが、それは今は置いておいて大切なことがあるのではないだろうか。
しかし彼の顔がどんどんと近づいてくる。
全身の毛穴から吹き出す汗、飛び出しそうな心臓をおさえていた。
「それはですね……えーっと、えっと!」
「君の気持ちと何故僕と別れるつもりでいるのか聞くまで、今日は絶対に帰さないから」
「ぐっ!」
「なに?」
「刺激が強くて……好きだなぁと」
「……。僕のこと好きだというわりには余所見ばかりして」
何故かめちゃくちゃ怒っているマスクウェルにゴクリと鳴る喉。
至近距離にいるマスクウェルに耐えられずに、ファビオラの体から力が抜けてしまう。
マスクウェルはファビオラの腰に腕を回して、もう片方の腕を掴んでいる。
更にマスクウェルと距離が近い。
「わ、わっわたくし、余所見なんてしていませんからぁあぁ!この世界に来てから、マスクウェル殿下一筋ですっ」
「ふーん。でも僕はトレイヴォンと街で買い物しているのを見た。仲睦まじく寄り添っていたぞ?」
「あっ……!それは」
「それは……?」
「マスクウェル殿下のドレスに似合う髪飾りを探していたんです!」
そう言ってファビオラが顔を赤くすると、マスクウェルはその表情を見て目を見開いている。
「半年前に僕と別れた後はトレイヴォンと結婚すると言っていたじゃないか」
「そ、それはマスクウェル殿下の幸せを見届けた後の話で……」
「僕は君を手放すつもりはない」
「なっ……!?」
マスクウェルの琥珀色の瞳と目があった。
彼は冗談ではなく、本気でそう言っているのだと気づく。
しかし本気になればなるほどに失うことが怖い。
ヒロインと出会った後に、辛くなってしまうし、笑って送り出すことができなくなってしまう。
「いいえ、マスクウェル殿下は他の人を好きになるんです……!」
「ならない」
「……っ、どうしてそう言い切れるんですか!?」
「それはファビオラが好きだからだろう?」
「でもシナリオでは……っ!」
「シナリオ……?シナリオって何?」
「はっ……!」
ファビオラは口元を押さえた。
しかしマスクウェルは追求するように迫ってくる。
黙っていようと思っていたファビオラだったが耳元でマスクウェルに「僕にはなんでも話そうね?秘密はなしだよ」と言われて首がもげそうなほどに頷いた。
自分でも思うが相変わらずチョロい。
トレイヴォンに話したように、マスクウェルに内容を話していく。
彼は髪をグシャリと掻き乱した後に溜息を吐いた。
「そのシナリオを君は信じているからこんな風に思い込んでいるのか?僕はそんなものに振り回されていたってこと?」
「でもマスクウェル殿下は……っ、学園でアリス様と再会して恋に落ちるんです!」
「そんな不確定要素は信じないよ。それにアリスを好きになるなんてありえない」
「学園に入ったらわからないじゃありませんか!」
「トレイヴォンだってならなかったろう?」
「それは……そうですけれど」
「はぁ…………」
ファビオラが人差し指を合わせながらツンツンしているとマスクウェルは額を押さえながら深いため息を吐いている。
オロオロしているファビオラはハッとして顔を上げる。
それに気のせいでなければ先程、マスクウェルに『僕を選んでよ』と言われたのではなかっただろうか?
(も、もしかしてマスクウェル殿下はわたくしのことを好いてくれていたの!?)
右往左往するファビオラとは違い、肩を落として何かを考え込んでいるマスクウェル。
彼が顔を上げたのと同時に、肩を揺らした。
「君の言い分はわかった」
「信じてくれるのですか!?」
「ああ。要は学園に通って僕の気持ちが変わらなければ、君は安心して僕との関係を考えてくれるのかな」
「……そ、そうなんですか?」
「そうだよ」
何故か話がよくわからない方向にいっているような気もするが、ファビオラへとりあえず頷いた。
あんなにも塩対応だった婚約者が、今はちょっぴり甘いように感じる。
それにひしひしと伝わるマスクウェルのファビオラへの気持ち。
(今までのことが気のせいじゃなかったら……?)
マスクウェルは満足したのかファビオラから体を離した。
やっと距離が離れたことに安心してファビオラは息を吐き出した。
こちらに手を伸ばした彼は先程とは打って変わって機嫌がよさそうだ。
今日のマスクウェルは怒ったり、悲しんだり、溜息を吐いたりと随分と色々な表情を見せてくれる。
ドキドキとした胸を押さえながら汗ばんだ手ではよくないからとドレスで拭ってから彼の手を掴んだ。
「もう遠慮する必要はなさそうだね」
「……?」
「僕のことは好き?」
「も、もちろん!」
「そう、なら両思いだね」
「りょ……!?」
「学園が楽しみだな」
放心状態のファビオラを再び抱き抱えたマスクウェルは会場に戻る。
珍しく柔らかい表情でファビオラを見ているマスクウェルの姿に会場は静まり返っていく。
トレイヴォンも心配そうにこちらを見ている。
そんなトレイヴォンに手を振ろうとするが、マスクウェルは微笑みながら、ファビオラの手をスッと下ろされてしまった。
「婚約者の前で他の男に手を振らないでくれ」
「あっ、あっ、え……?」
ファビオラはどこか吹っ切った様子のマスクウェルに押されっぱなしである。
顔が茹蛸のように真っ赤になっている。
(どうしてこうなった……?)
ファビオラはカチカチに固まっていた。
その後もマスクウェルとの距離は縮まっていく。
スッと顎を掴まれて、叫び出しそうになるのを堪えていた。
「……ファビオラ」
近づく唇……ファビオラは思った。
今、マスクウェルとキスをしたら白目を剥いて気絶する自信がある。
「───ッッッ!?!?」
考え込んでいるとマスクウェルの柔らかい唇が触れる。
間近にある琥珀色の瞳を見つめたまま、ファビオラはマスクウェルの腕の中で気を失ったのだった。
end