鬼熊って要はただのデカイ熊だよね。実際、ある地域では人を襲った羆をそう呼ぶらしい。
覚悟は決まった。
後は困難ではあるが達成するだけだ。
迅は大きく息を吸い込み、吐く。
下級の忍となった少年時代に習った呼吸だ。
同時に、その際に他の同期と共に剣術を教えてくれた武蔵の言葉を思い出す。
『剣というのは早い話刃物だ。それで相手の血管や内臓を傷付ければ終わる。別に特別力が居るわけでない。むしろ、余分な力は体が固くなって駄目だ』
脱力して余分な力を抜く。
ぬらり。
抜かれたその姿は、偶然にも後世に肖像画として描かれた二刀流の剣聖と瓜二つであった。
熊が右手を大きく振り上げ、降ろす。
それは素早く、重い一振り。
だが、モーションがあまりにも大きかった。
『相手の肉体に沿って刃を引く。基本的にそれだけで相手の血管は切れる』
余分な力がないそれは、熊の一撃を振り落とされた反対の左側に進むことで避け、それと同時に忍び刀を首筋に当て、斬り抜いた。
華麗にして流麗。
そんな言葉が頭に浮かぶ一瞬だった。
これで終わっていた。
相手が人間なら。
迅は手応えを感じなかった。
直感で浅い、という印象が頭をよぎる。
敵は脆弱な人間でなく強靭な野生動物、それも熊である。
本来なら致命傷である首の傷はその筋肉と脂肪で致命傷には至らなかった。
そこで、迅は一つのミスに気づく。
現状の位置だ。
攻撃と共にすり抜けたため、熊を中心に両端が迅と二人の子ども状態になってしまった。
熊が二人に襲いかかられたら間に合わない。
だが、意外にも熊は迅の予想とは異なり、二人など気にせずに迅の方を向いたままだ。
「グゴァッ!!」
咆哮。
そこで迅は理解する。
餌ではなく、敵と認識されたことに。
確かに熊と人間では身体性能の差は大きい。
彼らからしたら脆弱な人間は餌にしか過ぎないだろう。
油断はして当然。
その上で勝てる。
それが生物としてのスペック差である。
だからこそ、餌が自分の命を脅かしたことが恐怖であり、敵と認識した。
迅は最大のチャンスを逃したことを理解する。
その後は防戦一方だった。
攻撃が大振りだったものから細かなものへと変わる。
ただ、それだけで劣勢へと陥った。
まるで、斧を振り回されているような一撃が迫ってくる。
それも片方でなく両側から。
当たれば致命的なダメージになる。
受けるのは無理なので回避するしかないという紙一重の状況。
故に体力以上に精神力の消耗が激しかった。
バシャン
片足が川の水に浸かったことに気づく。
熊の攻撃を避けまわっているうちに川の方に来てしまったのだ。
「グルルッ」
熊が笑ったかのように見えた。
勝利を確信したからであろう。
避けることに集中し、あれから一撃も与えてないから仕方がないともいえる。
迅自身、反撃をしようと思っても、切りつけるのでは駄目だと理解している。
やるならば線としての切りつけではなく、点としての突きである。
ただし、切りつけより威力が高い分、隙も大きい。
一か八かの賭けに出る気はなかったが、このままだとじり貧である。
「せっかく異母兄さんが助けてくれたというのに1日でさよならか」
自重気味に笑う。
相討ち狙いの一撃を選択する。
生きてくれと願った異母兄に罪悪感を覚える。
『身体の脱力するのはいいけど、それよりも思考の脱力が大事だ』
それは武蔵が剣の技術を教えた時、たまたま閃が来たのだ。
『正直な話、ここにいる連中で剣術で武蔵に勝てると思うヤツ居るか?』
全員が首を横にふった。
『実際、俺も剣術なら勝てる気はしない。でも、やれば勝てる。それは俺が剣術以外の要素を勝負に加えるからだ』
『じゃあ、例えばどうするんだ?』
武蔵の問いに閃は軽く考えこみ、指を二本立てる。
『まず、戦う前に毒やしびれ薬で動きを制限する』
『一つ目がそれかよ』
真っ先に卑怯な手を挙げる閃に呆れる武蔵。
『二つ目が前もって刀に仕掛けしとくかな。竹光にしたりとか』
『二つともそういう手かよ!!』
『そうだが』
悪びれもせずに即答する。
その様子に呆れる武蔵。
『でも、そういう手をされることは予想できたか? されてから対処は出来るか?』
『……無理だな』
武蔵は閃の案に反論が出来なかった。
何でもアリなほど幅を広げることなど思考になかったからだ。
『つまり、手段なんて山ほどあるからひたすら考えろってことだ』
武蔵から下級の忍びたちに向き合い、二つの脱力の必要性を語った閃だった。
「そうだよな、異母兄さん」
異母兄の言葉を思い出して冷静になる。
現状を再確認する。
武器は忍び刀しかなく、防具なしで褌一丁。
体力も結構削られている。
川の水で足を取られるから、場所を変える必要もある。
「……!!」
頭に閃きが走る。
勝つまでのピースがカチリとはまった。
「本当にありがとう異母兄さん」
少女――アイリスは苦悩していた。
サトリ草の採取を妹分のシリウスとしていた。
その帰り、不運にも獣に襲われた。
何とか坂を下って逃げようとしたが失敗。
言葉がわからない褌姿の男が変わりに戦ってくれてはいるが、今の様子だと時間の問題だ。
巻き込んでしまった罪悪感がある。
それでも、せめてシリウスだけは生きて欲しい。
何か思い付いたのか褌姿の男が微笑んだのが見える。
次の瞬間、男は褌に手をつけ、ほどいた。
「キャァァァァ!!」
つい叫んでしまった。
熊がこちらに顔を向けるが、すぐに顔を男に戻す。
ドシン
熊の顔に何かがぶつけられる。
男が鞭のようなもので熊に攻撃している。
それが先ほどほどいた褌だと気付くのには多少の時間がかかった。
短刀というリーチの短さから、鞭というリーチの長さが攻守を交代させた――かに見えた。
川の水で重さを得た褌を鞭のように使用する。
野生動物、それも熊にとってそれは牽制に過ぎず大したダメージにはならない。
相手が覚悟して突っ込んで来たらそのまま押し込まれる。
だが、そんなことは計算の上だった。
熊が突進してくる。
迅はそれに対し、あえて褌をボーラのように熊の目に向けて投げる。
褌が上手く目のまわりに絡み、視界を奪う。
視界を奪われた熊は褌を剥がそうとするが、人と違い緻密なことの難しい熊の手では水を吸収して張り付いた褌を剥がすのは容易ではなかった。
その隙に迅は熊の背後にまわり、心臓の位置に手を当てる。
「異母兄さんなら、突進してくる猪を回避しながらやったが、俺はこういう形とらないと無理だ」
そう言いながら、熊相手に心臓打ちを叩き込んだ。
熊が反射的に大振りで反撃するが、反撃を予測していた迅はそれを何とか後転で回避する。
ユラリ
熊の体勢が崩れる。
心臓打ちが決まったことを確信した迅は、倒れる熊の背後から飛び乗り、その首に忍び刀を突き刺す。
だが、力の入らない体勢でもあり、それでは熊の首を貫けない。
迅としては承知の結果である。
バターン
熊が前向きに倒れこんだ。
ブシュリ
今度は手応えを感じた。
うつ伏せに倒れこんだ熊の首から忍び刀の切っ先が突き出ている。
首を貫通したのだ。
あの時迅は現状を把握し、勝利までの三段階の道筋を考えついた。
水と褌を使った疑似鞭での牽制の一段目。
視界を奪い、心臓打ちを叩き込む二段目。
そして、心臓打ちで地面に倒れる時の衝撃で首を貫通させる三段目。
咄嗟に思い付いた作戦だったが、何とか功をそうした。
ビクン
首を貫いたが、少しは動く。
距離を取り、動かなくなるのを待つ。
反応がなくなったのを確認すると、じわじわと勝利の実感が湧いてくる。
「やった、勝ったぞぉぉぉ!!!!」
迅は忍び時代にはありえない勝利の咆哮をあげた。
全裸で。




