正気スイッチ
すべての人間が正気に戻ったらどうなるだろう?そう考えた直接のきっかけは、ニュース番組のスポーツコーナーだ。
インタビューを受けている選手は何かの大会で金メダルを獲得したらしく、インタビュアーに今後の目標を尋ねられ「次回も優勝を目指してがんばります」と即答していた。スポーツにまったく興味のない俺は、“次回の大会後のインタビューでもどうせ同じことを言うんだろうな”と、ふと思ったのだ。
優勝できようができまいが、次の大会に参加する限り目標はずっと優勝し続けること。スポーツ選手ならそれが普通だ。しかし、次回も優勝を目指し、次々回も優勝を目指し、その次もまた優勝を目指し、さらにその次も次も次も優勝を目指し、そのあとは……?当然いつかは引退することになるんだろうが、解説者か指導者に転向して、死ぬまで老後を楽しみ、墓石に優勝歴を褒め称える碑文でも刻んでもらえれば、それで満足なのか?
このスイッチを押すと、人類は意味のないことなど何もしなくなる。
意味のないことばかりしている奴は正気を疑われるが、俺に言わせれば、意味のないことをしたくないと思っている奴こそ正気ではない。目指す、戦う、愛する、楽しむ、そんなことに生きがいを見出している連中は、死んだあと周りにどう思われたいか、とか、次の世代に何を遺すか、とかいったちっぽけな目標に囚われ、個人の幸せにも人類の繁栄にも地球の存続にも特に意味はないという事実から目を背けて熱に浮かされている。もしもみんなが意味のないことを一斉にやめたら、正気になった世界には何が残るんだろうか?
スイッチを押してみて分かったのは、誰にも他人を見下す資格はないし、逆に他人と自分を比べて落ち込む必要もないということだ。欲望や感情に振り回される人間よりも、そのへんの石ころのほうがよっぽど素直に存在できている。……だが、それを誰かに伝える前に全身の細胞が生命活動という無駄をやめ、俺の意識は途切れた。
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そのとき全宇宙の生命体が“正気スイッチ”の影響を受け、生きる意欲を失った。同時に死ぬ意欲も失われたが、動物も植物もいっさい餌を摂らなくなったため、体内に蓄えた養分が尽きると餓死した。それは抑鬱の症状に他ならず、実は抑鬱こそが宇宙の真実を直視しているという点で正気だったのだ。人生は夢であり、生き物は夢から覚めたらおしまいだった。
ドミノ倒しのドミノは自ら倒れようと思って倒れるわけではなく、必ず後ろから押されて倒れる。原因と結果のあいだには価値も目的もない。あらゆる事象は無から始まり無に終わる宇宙の大いなるドミノ倒しの一環にすぎなかった。時計を見ている者が誰もいなくなった宇宙では、過去も未来も現在も意味を失い、“一秒”と“百億年”とが同じ速さで経過した。それから一瞬あと、あるいは無限遠の未来、いずれにせよ一緒だが……宇宙の終焉は、誕生と同じように無意味だった。
おわり