7 汚れた手
「……お待たせしました」
無言でカップを受け取ったアルフレッドさんの視線が自分の目の前に注がれているうちに私は静かに移動する。
カウンターを任されている身としてはカウンターの右端から左端への移動というささやかな抵抗だが、アルフレッドさんの正面から移動でき小さく息をついた。洗ったまま放置されている皿やグラスを拭いて、ハリスさんの戻りを待とう。
視界の片隅ではアルフレッドさんが眉間に皺を寄せたままコーヒーを飲んでいる。その飲み方は時間に追われて煽るようにコーヒーを飲む労働者とは違い、ゆっくりと余裕があった。
二等客車専用食堂とは言え、ボーマンさんがここで焙煎した豆を使用した特製のコーヒーだ。味わってもらえるのは嬉しいが、こんな真っ昼間にお茶を楽しめるとはどんな身分なんだ。
貴族なら一等客車用食堂を利用するはずだし、貴族特有の優雅さもない。事業に成功し金の有り余っている中産階級はもっと活力にあふれて自信に満ちている。軍人にしてはややならずもの的な雰囲気が漂っている。こんなに人を威圧する医者や弁護士がいたら嫌だ。
ハリスさんと意味深に話していたから、彼や支配人が鉄道反対派であることは知っているのだろう。アルフレッドさんも鉄道反対派の一派なのだろうか。それにしてはあまりにも見た目が怪しすぎる。鉄道警察に捕まえてくれと言わんばかりの黒さだ。
グラスを拭き終えた後は、その隣の棚の前に立った。天井まである棚の中には大小様々なものが所狭しと置かれていた。
『うちの店員お勧めの「旅のお供」でも置いておきましょう』
支配人の思いつきのような一存で設置されたらしい棚だが中の商品の売れ行きはすこぶる悪かった。気がつけばうっすらと埃がたまっている始末。一階のプラットホーム出入り口近くには、比較的広めのキオスクがあり、そちらの方が品揃えが充実していた。わざわざ二等客車専用食堂で物を買う客は多くない。
いつからあるのか分からない石けんの箱を取り出し奥まで拭き、どこで仕入れたのか分からない異国情緒漂う象の置物を磨く。
しばらく無心で掃除をしていれば背後に気配を感じた。
ハリスさんがようやく戻ってきたのかと振り向けば、視界に広がる黒。先程までカウンターの端でコーヒーを飲んでいたはずのアルフレッドさんがすぐ側に、そびえるように立っていた。鼻先にフレッシュシトラスの香りが掠める。肩が小さく跳ねた。
不躾に見下ろしてくる漆黒の目に、たたみ直していた売り物のハンカチを胸の前で握りしめた。不自然な無言が続き、唾をごくりと飲み込む。
「な、何かご用ですか?」
いつもよりも高い声が出た。しかし、目の前のアルフレッドさんは無表情のまま顎をしゃくり、後ろの棚を示した。
どけって意味かな?
不安に思いながらも横によれば、男は眉をひそめてある物を指さす。示されたのは陳列棚の隅の方に置かれている小さな黄色い箱だった。
「それ、よこせ」
強盗よろしく言われたセリフに動きを止めていれば、手をとられてコインがねじ込まれた。
「……お買い上げですか?」
「それ以外に何がある」
「そうですよね、すみません」
慌てて箱を渡すと、アルフレッドさんは用は済んだとばかりさっさと食堂を出て行ってしまった。
「あっ」
彼の背中がプラットホーム側の窓から見えなくなりようやく声をあげた。アルフレッドさんが今買ったあの飴。『黒煙の毒素から喉や肺を守る!』と謳って売り出されて、爆発的な売り上げを誇っているが実際は単なる香りの強い塩飴らしい。初日にハリスさんが『みんなおバカさんだよねぇ』なんて言いながら教えてくれた。
詐欺まがいの品を売ってしまった。手の中のコインがやけに重たく感じる。とは言え、うちにおいてある売り物なのだから、今さら追いかけて『それ、実は効果ないですよ』なんて言えるわけもない。
それにしても、一瞬触れた手はひどく硬く節くれ立っていて、指の皺が僅かに黒く汚れていた。掃除夫の手にあるような、洗っても染みこんで消えない黒い煤のような汚れは、上から下まで全身仕立ててあるアルフレッドさんの印象とどこかちぐはぐだった。