6 黒煙を煮詰めた男
ハリスさんが時々不穏なセリフを吐くものの、支配人は忙しく最初以降目立った勧誘はなかった。そのため、鉄道反対派に勧誘される前と変わらない毎日に、自分が置かれている状況を忘れそうになる。
が、食堂利用者が読む新聞の一面には反対派が引き起こした事件が度々記事になっており、私に忘れるなと言っているようだ。
緊張感を持っていなければと警戒をしてみれば、支配人から頼まれた郵便局に出しに行く手紙が鉄道反対派の密書に、事務室で行われている業者とのやりとりが密談に見えてくる。
とは言え、証拠はないし、警察に密告しようにも地位も信用もない小娘の言うことを聞いてくれるとは思えなかった。鉄道警察に言えば私も同志と判断されて厳しい取り調べを受けるだろう。転職も考えたがここと同じ条件の職場は簡単には見つからないだろう。
どうしようもなく不安になってくる気持ちを宥めようと、ポケットの中にあるテラスハウスの鍵を握りしめた。
赤煉瓦と白亜の石でできた幾何学的な模様の壁と、整然と並んだスレート屋根のテラスハウス。私は支配人の勧誘を躱しながら、あの『ひみつの家』を探さなくてはいけない。
今日も心臓に悪い荷物を郵便局へ届けて、分厚い灰色の空の下を急ぐ。こんな曇天でも、帝国初の鉄道会社カーライル鉄道が社の威信をかけて建設したセントラルアレスタ駅の正面玄関は豪奢、かつ、荘厳だった。
ヴィルフォード帝国が建国よりも以前、当時世界の中心だった交易都市マリスで興った建築様式をふんだんに取り入れたセントラルアレスタ駅は訪れる人に感動と興奮をもたらす。
一歩踏み入れると重厚感漂う待合室があり、奥へ進めばドーム型のガラス張りの屋根の下、鷲と蔦が絡むエンブレムを所狭しと飾るプラットホームへと至る。
老若男女、様々な階層の人が絶えず行き交うそこは常に賑わっていた。
特に今は色鮮やかなエンパイアレッドが目に眩しい急行列車が到着したばかりのようで、いつも以上に人があふれている。
列車から降りてくる流行のドレスを着た婦人に、シルクハットをかぶり杖をついた紳士、車両の出口に付近に陣取る物売りの少年に、赤い帽子をかぶり荷物を運ぶポーター。
がやがやとした喧噪の中を縫うように二等客車専用食堂へと戻れば中は到着した急行列車の乗客で満席だった。
「シャーロット、カウンターの方頼むね」
珍しく女性との会話もせずに、ハリスさんがトレイを片手に忙しなくフロアを動き回っていた。急いでコートと帽子を事務所に置いて、カウンターの中へ入り流しの前に立つと、積み上がった食器を手にした。
一人また一人と減っていき、ようやく店内が落ち着きを取り戻した午後二時。一人の客が訪れた。がっしりとした体躯の男性が精悍な顔を歪め不機嫌さを露わに、ずんずんとカウンターへ向かってくる。
何がすごいって男は黒かった。街灯やジャケットにズボン、ベストに革靴に至るまで黒。唯一白いのは綿のシャツくらい。
煤煙が舞うこのアレスタで男性は暗めの色合いの服を着ることが多いが、革靴や外套はブラウンだったり、ベストだけは柄物でそれぞれのオシャレを楽しむ。しかし、男が身にまとうものは黒一辺倒だった。
彼の顔に少しでも親しげな雰囲気が漂っていたら、どこで仕立てたのか気軽に話しかける客もいたかもしれないが、到底そのような質問をできる雰囲気ではない。つり上がった三白眼は見るものを威圧し、眉間に深く寄った皺は男の感情を逆撫でしまいと周りの人々の口を閉ざした。
ちらりと男を見ては視線を逸らす他の客同様、目立たず静かに男の視界から消えたいのだが、残念ながらカウンターを任されていた私は逃げ場がなかった。
「いらっしゃい、ませ……」
絞り出した声は小さく語尾は尻すぼみに消えていった。大きな歩幅でカウンターまで詰めた男は鬱陶しそうに肘をカウンターに置いた。こめかみにあるわずかな傷まで見て取れる距離に少しだけ体を反らした。
じろりとこちらを見つめる男の瞳はアレスタの南東にある工場地区から排出される黒煙を煮詰めたような色をしていた。
「アル、久しぶりじゃないか」
見るもの全てを射殺さんばかりの黒づくめの男に朗らかに話しかけたのはハリスさんだった。
「先月会った」
「一ヶ月も会わないなんて久しぶりだろ」
どうやら知り合いらしい。二人の会話に周りがほっとし喧噪が戻ってくる。周りからの視線が消えたことに、男は無愛想に鼻を鳴らした。
「別にそれ以上会いたいとは思わないがな」
「つれないなぁ。それにしてもよくここに来たね」
「用があった」
男のぶっきらぼうな返事にも気を止めず、ハリスさんは心底楽しそうに話しかけている。
「きみなら隣の食堂の方がいいんじゃない?」
「あっちはお高くとまっていてあわねぇ」
アルと呼ばれた男があごでしゃくった先にあるのは一等客車専用食堂。
この国において、階級は何よりも重視されている。そのため、鉄道の乗客の階級によって客車も等級分けされていた。駅のプラットホームの奥に設置されたこの食堂は二等客車の乗客専用食堂。二等客車に乗る客は中産階級が主で、隣にある一等客車専用の食堂と違い、気軽に食べられるサンドイッチやキドニーパイ等がうりだった。
主に貴族やブルジョワが利用する一等客車用食堂をお勧めされる真っ黒の男はかなりの地位らしい。
男の着ている服の黒さは強烈だが、一つ一つ見ていけばどれも仕立てがよく、男のがっしりとした体にしっかりとフィットしていた。新品を仕立てられるなんてよほどの稼ぎがあるのだろう。
こっそり見ていれば、光を宿さない漆黒の瞳がぎょろりとこちらに向けられた。観察していたことを怒っているのか、それとも新人の自分が珍しいのか。何を思っているか読み取れない瞳に居心地が悪くなる。
「僕の『ここ』での後輩だよ」
強調された言葉を受け男が眉を僅かにあげた。ついで、値踏みするような視線が私の頭頂部からゆっくりと下がっていく。男はハリスさんの言葉の意味を正しく理解したのだろう。
「ろくなもんじゃないな」
放たれた言葉は嘲笑混じりの冷たい響きがした。あまりの言い様に恐怖よりも怒りが勝るがぐっと堪える。かわりに、『宵の明星』に加わることに了承してもいないのに後輩扱いするハリスさんを睨み付けた。
もちろん、訂正してくれるはずもなく片目をぱちりと瞬きをされる。一等客車に乗るお嬢さんならそれで黙るかもしれないけれど、今の私には神経を逆撫でする効果しかない。さっと顔を逸らした。
そんな私達のやりとりなんて気にもせず男は会話を続ける。
「務まるのか」
「こう見えて、うちの支配人と仲良くお話ができる肝の据わった子だよ。今注目の若手ナンバーワン」
再び男の目がこちらを向いた。その瞳に好意の欠片なんて小指の先程もない。鉄道反対派であることを非難しているのか、それとも、こんな小娘に何ができると見下しているのか。
「……やっぱりろくなもんじゃないじゃねぇか」
堅気の人間には到底見えない黒づくめの男はぐうの音も出ないほどの正論を言い放った。
「いじめないでよ、アルフレッド。辞めたらどうするの」
「万々歳だな。どう考えたって辞めた方がいいだろう」
見かけとちがいまともなことを言う男と私を仲間扱いするハリスさんの会話に口を挟めず、私は苛立ちながら注文されたコーヒーをカップに注いだ。
頼むものまで黒い。どれだけ黒が好きなんだ。
「あっ、僕業者との打ち合わせがあるんだ。悪いね、アルフレッド」
「最初から呼んでいない」
「あとは頼んだよ、シャーロット」
男の言葉を無視して、ひらひらと手を振ったハリスさんはカウンターを抜けて事務所の方へと足取り軽く行ってしまった。残されたのは湯気を立てるカップを片手に固まる私と、凶悪な顔つきの黒づくめの男ことアルフレッドさん。