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寄稿作品

上履きをはいたバレリーナ

作者: 采火

 音もなく、ただ静かに風を生む。

 細い指先は美しい形で宙を泳ぎ、陶器のように白い喉が艶やかな黒髪からちらりと覗く。

 ゆったりとした動きなのに、踵は常に浮いていて足元が落ち着く事はない。

 階段の踊り場にある大きな鏡を前に、熱心に自らの指先を追いかける少女は、自分の世界に入り浸り気づいていない。

 二人の少年が、躍り続ける少女を見ていることなんて。


瑠花(るか)、どうしてお前は身体を大事にしないんだ)

(すごく伝わってくる。入宮(いりみや)さんの熱量が……)


 少女が腕を伸ばすたび、ブレザーの紺の生地がピンと張りつめ。

 少女がくるりと回るたび、グレーのプリーツスカートが大きく風を孕む。

 そんな合間に上履きが、床をトットッと軽快に鳴らす。

 どこからか聞こえる吹奏楽部の奏でるハーモニーに合わせて、少女は狭い踊り場で体をいっぱいに広げて高嶺を目指す。


 上履きの踵がさらに上へと引き上げられる。

 足の指の腹がついたつま先立ち(ルルベ)から、真の頂点であるつま先立ち(ポワント)へと、少女は目指して───


 その体が、不意に傾いだ。

 少女は床にくずおれる。

 その先に、床は無くて。


「瑠花!」

「入宮さん!」


 階段へと落ちかけた少女に手を伸ばしたのは、それまでひっそり彼女を見守っていた二人の少年だった。



 ◇



 入宮瑠花は高校入学早々にクラスから一目される存在になっていた。

 入学式のその日、交通事故に遭った瑠花は初日から学校を休み、怪我の具合も相まって一週間遅れてクラスに顔を出した。

 初めて教室へと足を踏み入れた瑠花に向けられた視線は同情と憐憫。

 クラスメイト達が抱く瑠花への感情は、二ヶ月経った今でも変わらない。

 松葉杖がなくなっても、ギプスが外れても、入学式早々に不遇に見舞われた子としての印象は拭えていなかった。


「瑠花、今日はどうするんだ?」

「……嵐」


 気さくに声をかけてきたのは幼馴染みでクラスメイトの岩松(いわまつ)(あらし)

 溌剌とした幼馴染みは帰りのホームルームが終わると、さくっと自分の帰り支度をして瑠花へと声をかけてきた。

 瑠花と嵐は家が隣同士。

 瑠花が事故に遭ったのが切っ掛けで持ち前の心配性が顔をだしたのか、嵐は瑠花の送り迎えを買って出てくれていた。


「今日も図書館かな」

「送ってく」

「いいよ。部活に遅れちゃうよ」

「階段があるんだから心配なんだよ」


 ここ最近の恒例行事。

 嵐はサッカー部に入ってるけれど、帰宅部の瑠花は彼が部活動を終えるまで必然と時間をもて余してしまう。

 だから瑠花は嵐が部活に行っている間、図書館で時間を潰すことにしていた。

 でも図書館は瑠花の教室から少し離れた場所にある。

 瑠花達のいる教室は北舎四階の東側。

 対する図書館は南舎二階の西側。

 松葉杖がなくなりギプスも外れたとはいえ、心配性な嵐にとって図書館への移動は、瑠花には大変な距離に見えてしまうらしい。

 過保護なまでに瑠花を送っていくと主張する嵐。

 未だ心配をかけてしまっている現状に瑠花が苦笑していると、瑠花の後ろの席から声がかけられた。


「ふふ、岩松くんて心配性だね。あれだったら僕が送ってくけど?」

「なんだよ柳田」


 嵐が瑠花の背中越しに相手に噛みつく。

 珍しいことに、瑠花へと声をかけてきたのは柳田(やなぎだ)千治(ちはる)

 その優しい面立ちの通りに人当たりがよいクラスメイトだ。


「僕、吹奏楽部だから行く方向同じだし。図書館へ入宮さんを連れて行ってあげるよ」

「いらねーし。お前が瑠花を送る理由もねぇだろ」

「いやー、毎日毎日、こうも目の前で送る送らないのやり取りをされるとねぇ」


 肩をすくめた千治に、嵐が口を尖らせる。

 そこに瑠花が小さく挙手をした。

 二人の視線が瑠花に向く。


「……嵐、私はもう大丈夫だからそんな過保護にしなくてもいいよ。柳田くんも、気持ちだけ受け取っておく」


 瑠花はそう言うなり、席を立って鞄を手に取った。


「それじゃ、図書館にいるから」


 聞き分けの無い幼馴染みと、親切を申し出てくれたクラスメイトを置いて、瑠花はさっさと教室を出た。

 あんまり教室に長居をする気はなかった。

 瑠花にとって教室は、居心地の悪い場所だから。

 後ろから嵐の慌てる声と二人分の足音が聞こえたけれど、瑠花は一人で颯爽と廊下を歩いていく。

 南舎と北舎を繋ぐ渡り廊下が四階にはない。三階の渡り廊下を使って南舎に行ってから、もう一階分降りて図書館へと行くのが、図書館への道筋。

 いつものように教室から出て階段を一階分降りた瑠花は、渡り廊下を通って南舎へと移動する。

 右足に違和感があるのにも慣れてしまった。

 瑠花の怪我は、自転車との衝突事故の際に無理な体勢になったことから生じてしまったもの。

 右足のアキレス腱が切れてしまって、事故直後は歩くこともままならなかった。

 初夏の空の下、少し前の自分を思い出す。

 歩くことすら痛くて、痛くて、痛くて。

 本来なら出場していたはずの()()()()()すら、ふいにして。

 泣いて暮らした高校生活の始まり。

 入学式の日、角から飛び出してきた自転車が瑠花とぶつからなければ。

 瑠花がもう少しだけ視野が広がっていれば。

 瑠花の足はきっと。

 そんな詮無き事を考える。

 思考を振り払うように渡り廊下を渡りきった瑠花は、ふと目の前の階段を見上げた。

 いつもは階下へと行く階段。

 それを見上げてみようと思ったのは気まぐれだった。

 後ろの席の千治が声をかけてきたから。

 千治の部活が吹奏楽部だと聞いたから。

 吹奏楽部の部室である音楽室が、南舎の四階だと知っていたから。

 理由はそんな程度。

 瑠花は視線を上へと持ち上げる。

 ここ二ヶ月はうつむきがちだった顔を上へ。


「鏡……」


 階段を見上げた、その先の踊り場。

 そこに、全身を映せるくらいの大きな鏡があった。

 それはなんの変哲もない、校内の踊り場のあちこちに置かれている大きな鏡。

 瑠花の全身を映せる鏡。

 そんなものにふらりと吸い寄せられて、瑠花は階段を上る。

 駄目だと分かっていても。

 無理だと分かっていても。

 瑠花の足のつま先から頭の頂まで、一つの衝動が走り抜けていく。

 我慢の限界だった。

 この二ヶ月、瑠花はこの衝動をもて余していた。

 いつも過保護に瑠花を見ている嵐はいない。

 その上、ここを通る生徒も見当たらない。

 瑠花は浮き足だって、踊り場に立つ。

 背筋を伸ばし、両腕は身体の前で円を作り、足は踵とつま先を互い違いにして、内腿と脹ら脛をぴったりと合わせて。


「───un(アン)


 弧を描いた腕は胸の前へ。


「───duex(ドゥ)


 右足をそっと横へと滑らせ、弧を描いた腕を開く。


「───trois(トロワ)


 深く左膝を曲げながら、横に差し出した右足は後ろへと回し、腕をたゆませた。

 ぎこちないけれど、右足はちゃんと動いている。


(できる、踊れる、大丈夫)


 駄目だと言われていた。

 ちゃんとリハビリを終えてからではないと、「してはいけない」と言われていた。

 でも瑠花は十分我慢した。

 上履きを、お気に入りのトゥシューズに見立てて。

 制服のスカートを、レオタードの裾に見立てて。

 瑠花は踊り場で踊り出す。

 踵を上げる。

 右足の違和感は拭えないけれど、つま先立ちはできる。

 それが分かれば、十分だった。

 一、二、三。

 一、二、三。

 瑠花はゆったりと三拍子を刻みながら、ステップを刻んでいく。

 幼い頃から慣れ親しんだ、クラシックバレエ。

 リハビリを終えるまでは踊ってはならないと診断されていたけれど、もう我慢は出来なかった。

 左足を前に後ろに差し出して真っ直ぐ足を浮かせたまま、右足の踵をほんの少し浮かせる。

 右手は前に差しのべて、左手は横に。

 『アラベスク』のポジションをとる。

 違和感が残るけれど、右足に重心を置いても平気に感じた。

 それが瑠花の気を大きくする。


(踊れるじゃない、私)


 怪我をして以来、暗くなっていた瞳に光が差す。

 怪我をしてる間に一度のコンクールを逃しても、この分なら次のコンクールには間に合うのかもしれない。

 瑠花は踊ることのなかった、春のコンクールの演目を踊ってみた。

 毎日のように聞いていた音楽が脳内に響いている。

 狭い踊り場で、瑠花は人目を憚ることなく、生き生きと四肢を伸ばしていく。

 悲しいくらいに向けられた同情と憐れみの視線から解き放たれて、抑圧されたバレエへの情熱が瑠花の心臓から熱い血潮を送り出していく。

 全身が熱い。

 ほんの少し踊っただけでも、瑠花の身体は悲鳴を上げる。

 ただ、瑠花はその悲鳴にも気づかないくらいに気分が高揚していた。


 ───普通のつま先立ちから、トゥシューズのように爪の先で立つようなつま先立ちをするくらいには。


 瑠花は固い上履きの先端で立つ。

 自然とそうしようと思ってしまったのは、本来ならこの演目がトゥシューズで踊るものだから?

 右足の、本当のつま先に体重がかかる。

 その瞬間、かくんと瑠花はバランスを崩した。


(あ……)


 足がおかしな方向へと曲がり、体が大きく傾いて。

 くずおれたその先には、三階へと下る階段があって。

 落ちる、と思った。


「瑠花!」

「入宮さん!」


 指先しか見えていなかった瑠花の視界に、いつの間にかいた二人の少年が映りこむ。


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