拝啓、天国のお母様
6月3日(月)
加筆修正を行いました。
6月6日(木)
誤字報告等について、後書きの最後に記させて頂いております。
拝啓、天国のお母様。
私は今日、幸せを求め旅立つことに決めました。
「お帰り。お見合い、どうだった?」
「最悪よ。手を握ってくるし膝を撫でてくるし、あんなのただのエロジジイよ。あんな奴が総理大臣なんて、信じられない」
だからお母様、旅立つ私が生き抜くために、我が家の隠し財産に手をつけることをどうかお許し下さい。
今では物置部屋となっている亡き母の部屋に入り、私しか知らない手順で絡繰りを動かせば、床下の一部が開く。
そこに隠されていたお金、宝石を取り出すと、鞄に詰めていく。
全部詰め終わり持ち上げれば、ずしりと重い。袋が破けそうだ。だけどこれから生活するための必要な資金。重いからと、一つも捨てることはできない。
「じゃあ、ランジュ。私たち帰るわ」
「うん、皆もありがとう」
「あんた、これからどうするの?」
「住みこみで働ける所を探す。どこか一つくらい、すぐ見つかるよ。でもその前に、お城へ行かないと」
それを聞いた友人たちが、応援の声を上げてくる。
「ついにアレを実行するのね、頑張って」
「ランジュなら大丈夫。落ちついたら連絡ちょうだいね、絶対よ」
皆と別れ、母との思い出が残る家を去り、馬を走らせる。目的地は国王陛下の住まう城。
お父様、お義母様、義弟よ。
今日これから我が家は、貴族から籍を抜けます。後のことは知らないので、義姉たちにでも頼って、自由に生きて下さい。お父様も自分で商売しているから、生きていけるでしょう?
お母様、私は今の家族を捨てますが、いいですよね?
というか……。
この成人を迎える今日の誕生日をどれほど待ち望んだか! 私は絶対、幸せになってやるんだから!
◇◇◇◇◇
お母様が亡くなって二年後、父が再婚した。
相手は三人の子を持つ女性で、夫とは死別したと話していたが、本当かは知らない。その女性は父の経営する会社で働いており、真面目に仕事へ取り組む態度が良かったから、結婚を決めたと父は語っていた。
確かに彼女は父の前ではてきぱき動き、私にも優しく、好感の持てる人だった。
ところが父が仕事で家を長期に留守とするなり、本性を現した。
一日中ごろごろと食っちゃ寝するか、子どもと買い物に出かけては散財。さらには気に入らないと言い、次々と使用人を勝手に解雇。挙句には人手が足りないので、私に働けと言いだした。
「この家の女主人は私なの。言うことを聞いてちょうだいね」
勝ち誇ったように勝手に告げられた私は、呆気にとられた。
無視しても良かったが、その頃には館を管理するには使用人の数が足りなく、新しく雇ってもすぐに義母が勝手に解雇するので、私が働くしか道が無くなっていた。
まるでどこかの国のおとぎ話のように、私は働いた。
一人、また一人と残った少ない使用人も解雇されていくので、私の仕事は増えていく。
やがて私一人となり……。
一人で掃除、食事、洗濯、庭の剪定等々! この広い館の管理を私一人で出来るかっての! 無理だっつうの! ええ、ええ。内心ブチ切れですよ!
お金がないから使用人を解雇するしかなかったと言いますがね、じゃあまず、お前らの無駄遣いを止めろ!
デブっとした体形で、いかつい男っぽい顔をした長女に、フリルのピンク色のいかにも乙女なドレスが似合うと本気で思っているの? あーあー、またリボンも沢山付けて。似合っていませんから。よくよく鏡をご覧なさい。
胸がぺったんこだから大きくしたいのだと、怪しげな高価なクリームを買っては塗る次女。クリームを塗るだけで胸が大きくなるのなら、この世の誰も貧乳で悩むことはない。それ絶対に騙されているから、早く目を覚ませ。諦めろ。自分を受け入れろ。
そして身分不相応に、高貴な女性へ頻繁に贈り物を届ける末っ子長男。いいか、お前が相手にされているのではない。お前が贈っている品が相手にされているのだ。早く気が付け、この阿呆。
こんな困った奴らだというのに、腹がたつことに、長女は見た目が悪いものの、金持ち男爵の子息と結婚。次女もこれまた商売がそれなりに成功している商家に嫁いだ。
それなのに私は、いつまでも使用人のように働く日々。
現実はおとぎ話と違い、甘くないってことか。
そんなこんなで、やさぐれた私が家を潰すと決めるのも、仕方がないでしょう?
それを悟られないよう、私は素直な態度で義母に従う振りをする。
使用人として働くことは、平民として生きていける術も身につくので、その点は感謝している。義母よ、ありがとう。これならきっと一人暮らしを始めても大丈夫。
だが一番許せないのは、実父! お前だ!
娘から話を聞かず、一方的な義母の言うことをすぐ信じるとは、どういうことだ! 私は部屋にこもり、自分たちに心を開いてくれないと泣く彼女の言葉を聞くなり、私の部屋をノックし声をかける。
「ここを開けてくれ、ランジュ。どうして皆と仲良くしないんだい? 皆で仲良くしようじゃないか」
返事はない。
そのことに父は落胆したよう、大きく息を吐く。
返事がないのは当然だ。なにしろお前の娘は今まさに、お前の背後で廊下の窓を拭いているんだからな!
部屋をノックする前に窓を拭いている私の横顔を見ているはずなのに、スルー。実の娘の横顔を見ておきながらスルーって、正気⁉ まさか娘の顔を忘れたの⁉ 分からないの⁉
ちなみに義母は父の前では体裁を整えたいのか、父がいる間だけ、使用人を用意しろと言う。もちろん金は渡してくれない。無茶苦茶だ。
ぼやけば親しくなった他家の使用人仲間が、友人として手を貸してくれた。しかも無償で。お金を渡そうとしても、断られる。友情ってありがたい……。彼女たちが困ったら、今度は私が助けよう。
とにかく父は館で過ごしている間、こうやって異変に気がつくことはなかった。私も私で、働いている娘をスルーする父親に期待するのは馬鹿らしいので、事実を伝えなかった。
だけどそんな日々も、今日で終わり!
友人たちも私が家を出るなら協力する義理はないと、帰っていった。つまり館の中は、今や誰の姿もない。
義母よ、義弟よ。もともと平民暮らしを送っていたんだから、私が居らずとも、問題なく自分たちで身の回りの世話はできるでしょう?
そもそも今回の見合い話を持ってきたのは、義母。一体なにを思ったのか、どうやってそうなったのか、とにかく私に妻と死別した公爵が嫁を探しているからと、見合いをセッティングしてきた。
私を家から追い出したいのだろうが……。
私が公爵家に嫁いだら生活はどうするの? 現実が分かっていないの? 今の生活、続けられないよ? それでもいいの? それともまさか、知らないの?
見合いには父も同席となり、昨晩帰宅した。そんな父が今朝私を見るなり……。
「そのドレス……。亡くなったお母様が着ていたドレスだろう? そんな流行遅れのドレス、良くないのではないか?」
渋い顔で言いますがね、お父様よ。新しいドレスなんて、何年も仕立てていませんから! ドレスを着る機会もなく仕立てていないので、流行のドレスを一着も持っていないんです! 持っているドレスは成長期の途中に作ったものばかりで、今の私には小さくて着られない。だから家にあるサイズの合うドレスが、亡きお母様のドレスしかなかったのよ!
ともかく娘の顔は覚えていないのに、亡くなったお母様のドレスは覚えていると……。ほうほうほう。つまり私はドレス以下だと。なるほど、なるほど。
父の言葉を無視して馬車に乗りこんだ。
見合いの場である公爵家で、公爵と顔を会わせしばらく話していたら、エロジジイが私の体を触ってきた。それを見ている義母はにこにこ笑い、さすがに父はまた顔を渋くしたが、公爵であり総理大臣であるエロジジイになにも言えないらしく、黙っていた。
もう無理!
そう思った私はお腹が痛いと叫び、トイレへ向かうと、窓から逃げ出した。案内されたのが一階のトイレで良かった。
そして乗ってきた馬車へ向かい、御者から袋を受け取る。彼は元々我が家で御者として働いていた人物で、解雇された時は、『もう老体ですからな。ちょうど良かったですわい』と言って笑い、責めてくることはなかった。
今は町で息子夫婦と同居していると聞いていたので、今日の御者役をお願いすると、二つ返事で了解してくれた。本当、優しい良い人だ。
そんな彼から受け取った袋の中から服を引っ張りだし、馬車の中で着替える。
着替え終わると、腰が曲がった彼が頭を下げてきた。
「ではお嬢様、私はこれで帰りますんで。私はあの二人のために馬を走らせる気はありませんでな」
「本当、今日はありがとう」
「洋服を用意されていたのは、お見事でしたなあ」
「現役公爵が地位を息子に譲り、伯爵家に婿へ来るなんてあり得ないもの。だから変だと思って、万が一の時は逃げられるように用意していたの。公爵側にもきっと、このお見合いになにか魂胆があるはずよ。あ、そうだわ。少ないけれど今日のお給金を……」
「いやいや、必要ありません。それはお嬢様のこれからの生活費に役立てて下さい。御者もおらず、馬も一頭減った馬車を前にあの二人がどんな反応をするかと思うと、愉快ですから。その面白さだけで十分ですわい」
そう言うと笑い、背中で手を組みゆっくりと彼は立ち去った。
私は離されている馬にまたがり、家へ向かって馬を走らせた。
そして今、王に謁見を申し込み、顔を会わせている。
「本当に爵位返上でよいのか?」
「はい、今日で私も成人となりました。成人を迎えたら正式に爵位を継ぐ予定でしたが、早々にこんなことになり、申し訳ございません」
「いや、構わぬ。そなたがどのような生活を送っておるかは、聞き及んでおる。仕方あるまい」
「町に建っている館も、館中にある物、土地も全て国へ寄付致します。もちろん領土内の館も全て同様です」
そう告げると、私の名前と家紋の判子を押した文書を提出する。
一人娘だった母は、祖父が亡くなると爵位を継ぎ、さらに爵位を私に譲ると遺言書を遺してこの世を去った。
だが母が亡くなった時、私はまだ幼すぎた。だから領地経営などに関しては、国が代行してくれていた。それが完全に国有地となるのだから、特に問題は発生しないだろう。
それにどうせすぐ、母の従兄が新しく伯爵として任命されるはず。彼も領地経営の代行に係わっているので……。うん、やはり問題ない。
◇◇◇◇◇
いくら待ってもトイレから帰って来ないので様子を見に行けば、窓が開かれたトイレの中に、ランジュの姿は無かった。
慌てて表に出れば……。
「馬が一頭減って、御者もいない⁉ しかもなんであの子の着ていたドレスが、馬車の中にあるの⁉」
状況が分からない義母、マーニャは両手を頭に当て叫んだ。
「そう言えば……。ずっと不思議なのだが、貴女はご子息が伯爵になると様々な場で公言されているが、どの伯爵家を継ぐのかね? そんな話、どこからも聞かないのだが」
口髭の左側を撫でながら、総理大臣はマーニャに尋ねる。
「それはもちろん、ロンベル家です! 夫が亡くなったら義理とはいえ、その息子が継ぐのが当然でしょう?」
振り返ると、堂々とマーニャは答えを返すが、さらに公爵は笑って返す。
「はっはっはっ、面白いご冗談ですな。ロンベル伯爵はランジュ殿ではありませぬか。それともランジュ殿は、ご自分になにかあればお父上に爵位を譲ると申されたのですか? 私の記憶ではランジュ殿になにかあれば、彼女の亡くなった母君の家系に託す予定になっているはずですぞ。もちろん陛下もそのように認識されておられる」
「え?」
きょとんとするマーニャに向け、少し呆れたように夫であるベルデは言う。
「結婚前に説明したじゃないか。私は確かにロンベル伯爵家の一員だが、それは伯爵の実父だからと。結婚しても、あくまで『私』との結婚なので、君たちは伯爵家の籍には入れず、正式な伯爵家の一員にはなれないとも」
「理解されていなかったのかね? さらに補足させてもらうと、もしランジュ殿が亡くなれば、ベルデ殿はロンベル伯爵家の一員ではなくなるのだよ。我が国は血統を重んじているのでね。他家から婿に入られたベルデ殿は、爵位を継げないからな」
当たり前の話すぎて、今さらなにを言っていると二人の男の顔は物語っている。
もちろんマーニャは勘違いしていた。
確かにベルデとの結婚だけでは貴族になれないという話は、聞いていた。それでもランジュが家を去れば夫が伯爵という爵位を継ぎ、息子にいずれ爵位が巡ってくると信じていた。それを夢見て結婚したのに……。だから結婚直後から貴族として振る舞っていたのに……。これでは一生貴族になれないではないか。
しかも娘たちの結婚は、弟が将来伯爵になることが前提。ロンベル伯爵の娘、もしくは姉となり、ロンベル伯爵家という後ろ盾を期待されての婚姻だった。それなのに……。
「ちょっと! 騙したの⁉」
「騙していない、ちゃんと説明したはずだ。それを勝手に曲解したのは君だろう?」
始まった夫婦喧嘩を無視して、総理大臣は家の中に入る。
「……あの子には悪いことをしたなあ」
そう独りごちる。
ランジュの性格を考えれば、こうすれば逃げ出すだろうと思い、わざと嫌がるよう体に触れた。嫌な思いをさせてしまった。申し訳ないと思いつつ、二階から降りて来る次男に声をかける。
「言った通り、面白い子だろう? あれくらいの子でないとお前が望むように、一緒に商売のため世界を回ることはできんだろう。それに実際話してみて、令嬢としての嗜みも忘れていないと分かった」
丁度トイレの斜め上にある次男の私室から、様子は見えていた。ランジュが窓から飛び出してきたと思うと、スカートの裾を両手でたくし上げ、走りだした姿には驚いた。歯を食いしばり必死な形相で、誰が見ても全力疾走の体だった。
目が離せなくなり二階から見ていれば、馬車の中で事前に用意していたと思われる服に着替え、馬にまたがると、いとも簡単に逃げ去った。普通の令嬢でないのは確かだ。
まだ幼さは残っているものの、美しい顔立ちのランジュ。令嬢としては奇行とも言えるが、この行動で彼女に興味を抱いた。それを口にせずとも父親には通じたらしく、公爵はにこやかに口髭を撫でながら言う。
「さあ行こうか。城で陛下が足留めして下さっておられる」
父親を先頭に二人で外へ出れば、夫婦喧嘩はまだ終わっていなかった。
「大体娘の顔さえ覚えていないくせに、今さら父親ぶる気⁉」
「それも言ったじゃないか。私は人の顔を見分けるのが苦手で、声などで人を判別していると」
夫婦は親子が横を通り過ぎても気がつかない。
そして馬車に乗りこんだ親子は予定通り、城へと向かった。
◇◇◇◇◇
「やはりこれからの生活を考えると、全て寄付というのは考え直すべきではないか?」
「ご心配はありがたいのですが、その点は事前に準備しており問題ありません」
「いやいや、資産はあるに限る。なあ、そうは思わぬか? 法務大臣」
「真にございます」
……何故だ。爵位返上などの要望は最初、言葉ではすんなり受け入れてくれたのに、今やのらりくらりと躱し、書類にサインをしてくれない。
国王の認証……。つまり陛下のサインが無ければ口約束なんて無効なのだから、早く書類にサインをして!
「ああ、しまった。今日が誕生日で成人になったとはいえ、正式に伯爵となる儀式が済んでおらん。だからそなたはまだ、正式な伯爵ではなかった。そうだろう? 法務大臣」
「はい。法定には儀式を終えた後、正式に爵位交代が認められると記されております」
「で、ではその儀式を今すぐ……」
そんな会話を交わしていると、エロジジイこと総理大臣が若い男性を連れて現れた。
「げっ」
すっかり令嬢というより、庶民の娘といった本音が私の口から漏れる。
「陛下、足留めをありがとうございます。ランジュ殿、先ほどは申し訳なかった。二度とあのような振舞いは行わぬので、どうか許してほしい」
はあぁ⁉ 足留め⁉ ありがとうございます⁉ まさか法務大臣を入れてお前ら三人、グルなのか⁉ なかなかサインしてくれなかったのは、エロジジイが来るまでの足留めだったの⁉
ちょっと陛下! 私にこのエロジジイと結婚しろと言うの⁉ 二度と行わないと言うけれど、本当だか分かったものじゃない! 絶対お断り! 結婚すればエロジジイの好き放題にされるじゃない!
「ランジュ殿」
若い男性が私に近づくと、目の前に立つ。
私より背の高い彼の顔を見上げる。ブラウンの髪の毛はさらさらしており、髪よりさらに濃いブラウンの目に、私が映っている。顔立ちは整っており、なんの香水だろう。男性の香水は詳しくないので分からないが、彼の雰囲気に合った、少し酸い良い香りも漂ってくる。
「私と一緒に世界を回ってみませんか?」
ん? 話がよく分からない。というか、誰ですか、あんた。
「どうせ貴族社会から離れるのなら世界を回り、異国に触れてみたくありませんか?」
「異国……?」
それから彼は、異国で見聞きしたことを話してくれた。それを聞いていたら興味が湧き、面白そうに思えてきた。
隠し財産もあることだし……。
「世界を旅して回るかあ。それも悪くないかも」
「ここに二人の結婚を認める!」
「はいぃ⁉」
なぜ⁉ なぜそうなる⁉ 突然の国王の発言に、思わず突拍子もない声が出てしまう。
大臣同士は、『おめでとう』『ありがとう』と言い合って握手しているけれど、エロジジイとの結婚は絶対に嫌なんだってば!
「お待ち下さい! 陛下、発言の許可を願います‼」
「許可する」
「わ、私は貴族社会から離れたくありますので……。それに、その……。父より年上の方に嫁ぐのは……」
ちらりとエロジジイを見る。
つまり、お前との結婚は嫌なんだよと訴えると、公爵は困った顔を作る。
「私は亡くした妻を今でも愛しており、再婚など考えとらんよ」
ん? なら私は一体、誰と結婚するの? 国王も法務大臣も奥様は存命。どちらか離婚するの? どっちとの再婚も、ノーサンキューなんですけど?
混乱する私にエロジジイこと公爵が言ってきた。
「紹介が遅れ、すまない。私の息子、センブレだ」
目の前に立つセンブレという名の青年が、頭を下げた。
え? どういうこと?
◇◇◇◇◇
考えれば考えるほど、いろいろおかしい。
「出会った日に結婚、翌日には爵位の任命式と除籍の手続き。そしてその翌日には船に乗って外国へ向かう……。って、なによコレは⁉」
動き出した船の上で叫ぶ。
「なんで私、船の上⁉ どうして外国へ行くことに⁉」
「私の商売相手は、主に外国だからね」
お互いをろくに知りもしない夫は、当然のように言う。
「妻を一人国に残し、外国へ行くのはどうも嫌でね。だからこれまで結婚しなかった。私と一緒に外国へ同行してくれるのは、君のような人でないと無理だ。そうは思わないか、ミセス・ランジュ」
自分の妻を呼ぶのに、『ミセス』を付けるな。
甲板の長椅子に不機嫌な顔で腰かけ、腕を組む。
それにしても、まさか父が相貌失認という病気持ちだったなんて……。どうりで娘の私の顔も分からなかったはずだ。正気を疑って悪かったな、父よ。
私が逃げ出した後、喧嘩しつつ夫婦二人で帰宅すれば、館はもぬけの殻。誰の姿もない。
さらに悪友と出かけていた義弟は帰宅するなり、使用人が一人もいないことも、自分が爵位を継げないことにも怒り、大騒ぎ。
そうこうする内に、どんどん日は沈み暗くなってくる。
明かりの点け方は知っていても、道具がどこにあるのか分からない三人は困った。真っ暗闇の中で館内を動き回るのは危険と判断し、三人はとぼとぼ夜道を歩き、男爵と同居している長女のもとへ向かった。
そこで事情を話せば長女は怒り、その大声により聞きつけた金で爵位を買った男爵も怒り、長女も一緒に全員家から追い出された。
実は男爵は授爵されたばかり。それも金で手に入れた地位なので、歴史ある貴族からは敬遠されており、我が家について誰からも知らされておらず、騙されたとそれは凄まじい怒りだったそうだ。
四人でとぼとぼ夜道を歩き、次に向かったのは次女の家。
そこでも同じく揉めていると、騒ぎを聞いた次女の夫が『話が違う!』と怒り、全員を家から追い出しだ。結局五人で父の会社で雑魚寝することに……。
父が長期で留守にすることが増えたのは、経営する会社で大口の取引先が撤退し始めたから。それで新たな取引先を探すため、各地を回り奔走していたからだった。
これまでどの取引先も、ロンベル伯爵家という後ろ盾があったので行ってくれていた。それなのに再婚相手とその子どもは身を弁えず、いろいろな場に呼ばれもせず出向いては、自分たちは伯爵家の一員と名乗っていた。息子は将来伯爵になるとも語り、周囲を呆れさせていた。
さらに伯爵である私への仕打ちは『貴族』への侮辱とされ、その報復での撤退もあった。
そう考えると、私への仕打ちを知るサインは、いろんな場所から出ていたはず。それに気がつかないのは、血の繋がった父とはいえ、残念な人だ……。けれど……。
「センブレ殿と結婚し新しい籍を作れば、お前はあの四人との関係は無くなる。これで良かったんだ。本当、愚かな父親ですまなかった……」
深く頭を下げられた。
父は離婚し、自分の力で一からやり直す気らしい。
確かにあの四人と無関係になるのなら、結婚は好都合。しかもあの四人は伯爵家と偽った身分詐称の罪に問われ、立件される予定。実刑判決となれば、刑務所で何年か過ごすことになるだろう。だけど……。
拝啓、天国のお母様。十歳も年上の相手とこんな始まりの結婚で、私は本当に幸せになれるのでしょうか。
◇◇◇◇◇
「はあぁ⁉ 引っ越し⁉ ちょっとあなた、どういうことよ! 私は身重なのよ⁉ 他の子どもだってまだ小さいのに! 外国へ行っての取引は、子ども達が全員大きくなるまで信頼する社員に任せると言ったじゃない‼」
胎教に良くないと分かっているが、これが怒らずにいられようか。
引っ越しを提案してきた夫、センブレへ詰め寄る。まだ幼い三人の子ども達は何事かと、柱の陰から顔をのぞかせているが、話に加わろうとしない。こういう時は係わらないのが一番だと、分かっているのだ。
「説明が悪かった。引っ越すと言っても、そんなに遠くじゃない。お腹の子が産まれたら子どもは四人になり、この家だと手狭になるだろう? だから、もっと広い家へ引っ越すべきだと思って」
「なんだ、そうなの。それなら先にそう言ってよ。本当、結婚した時から説明不足の困ったお父様ですよねー。でもあなたのことを考えてくれている、優しいお父様ですよー」
安心し、笑顔でさすりながらお腹の子に呼びかける。
「それで契約も終えてきた」
「はあぁ⁉ 勝手に⁉」
再度怒る私に見せてきた契約書に書かれている、その住所は……。
「う、嘘……。この住所、私の生家じゃない! あれから人手に渡ったと聞いていたのに……!」
「父が丸ごと購入して、管理してくれていたんだ。やっと金が貯まって、買い戻せた」
……そうか。センブレは出会ったあの日から、いつかあの家を買い戻してくれる気だったのだろう。
だけどあの頃は、まだ買い取れるほど稼ぎは良くなかった。だから一旦義父に頭を下げ、他の人の手に渡らないようにしてくれていたのだろう。
「本当にもう……。あなたはいつも……。いろいろおかしいのよ」
そう言うと、私はぐすりと鼻を鳴らした。
母との思い出が詰まった家。そこに母親となった私は戻ってきた。
「ただいま」
そう声をかけると、どこからか母が『おかえり』と答えてくれた気がした。
拝啓、天国のお母様。
あり得ない始まりの結婚でしたが、私は今、良き夫と四人の子どもに囲まれ、楽しく生まれ育ったこの家で暮らしています。
幸せを求め一度この家から旅立ちましたが……。
私は今、とても幸せです。
お読み下さりありがとうございます。
相貌失認は簡単に言うと、顔の認識ができない病気です。
おそらく私は軽度の症状があります。
例えばドラマを見ていて、画面で顔を見ていると気がつかないのに、視線を逸らして声だけ聞くと、あれ?この声の人、あのドラマに出ていた人?と気がつく場合が多いです。
職場でも、あれ?この人、Aさんだっけ?Bさんだっけ?と似た体型の人同士だと分からないことや、髪型が変わると……。
あの席はAさんのはずだけど……。え?あれ、誰??と混乱することもあります。
テレビで取り上げられるような重症ではなく、基本判別できますが、家族や友人、自分の顔さえも、こんな顔だったかなあ?と思うこともあります。
それが普通だと思っていたので、テレビで相貌失認を知り驚き、もしや自分は軽度で、そうではないのかなと思っています。
この作品の父親、ベルデは重症という設定です。
だから黙って窓を拭いていたから、娘に気がつかなかった訳です。
この病気を抱えていると知らなければ、家族の顔が分からないなんて、そんな馬鹿なことあり得ない!
そう思うだろうなと思い、そういう描写を入れましたが、上記の通り、私も顔の認識で困ることがあり、差別的な考えからの描写ではないことをご理解下さい。
◇◇◇◇◇
追記
作中の香水で「酸い」とありますが、柑橘だけでなくベリー系の可能性もあり、それがなにか主人公には分からないので、ただ「酸い」とだけにしましたこと、ご了承下さい。
◇◇◇◇◇
作中の「授爵」ですが、もとは「即位」と記し、ご指摘を受け変更しました。今回報告を受けた「叙爵」も、爵位を授かるという意味でありますが、調べた結果、主に日本やアジア方面に関与する言葉と判断し、西洋に合う「授爵」をこのまま使用させて頂くことに決めましたことを、ご理解ご了承下さい。