情景描写の必殺技
情景描写。
小説を書くにあたって必要と言われるが、苦手な人も多いんじゃないだろうか。
ここでとっておきの朗報。
情景描写が楽しく、楽に書けるようになる、とっても簡単な必殺技をお教えしたいと思う。
そんなものあるのか、と言えば、ある。
僕はこの考え方を身につけてから、情景描写に対する苦手意識が一切なくなり、情景描写を書くのが楽しくなった。
なんかあやしいダイレクトメールのような書き出しになってしまったが、気にしないでほしい。
さて、その情景描写の必殺技とは、何か。
それは──
「作者が思い浮かべている情景と、まったく同じ情景を読者に見せる必要はない」と考えることだ。
作者である自分が思い浮かべているもの。
その情景イメージを、そのままそっくり読者に伝えなくてもよい、と考える。
つまりは、作者が思い描いた情景イメージと、その作品を読んだ読者が思い描いた情景イメージが、食い違っても構わないと考えるわけだ。
え、そんなんでいいの?
いい。
そもそも小説における情景描写の役割とは何か、ということになるわけだが。
プロの作家先生の中でも、極端な人は、なろう小説あるいはラノベにおいて「情景描写は不要」もしくは「情景描写は避けるべき」と言い放つ人もいるぐらいだ。
まあそれは極端な例にしても、ラノベのような軽い文体の作品においては、緻密で細やかな情景描写が多用される作品は、逆に「読みづらい」という評価を受けることのほうが多いと思う。
ただ誤解のないように言っておくと、緻密で細やかな情景描写を好む読者というのは、一定数存在する。
これは本好き、読書好きの人に多い傾向で、活字を読むことを苦としない、むしろ活字を読めることが幸せで、文章を味わって読むことのできるタイプの読者だ。
でもこのタイプの読者は、ラノベ読者の全体数に対して、多数派ではないと思われる。
根拠のない僕の体感で言えば、全体の一割か二割か、そのぐらいのものだろうと思う。
つまり、緻密で細やかな情景描写というのは、一部の読書マニアを喜ばせるための、読書マニアをターゲットとした技法ということになる。
もちろん、それはそれで悪い事ではない。
ただ、すべての作品がそれを備えていなければならないかというと、これは作品のメインターゲットをどう想定するかという話になってくる。
読書マニアをメインターゲットとするなら、緻密で細やかな情景描写は、読者に訴求する強力な武器となる。
でもそうでないなら、それは必ずしも要求されるものではないし、むしろ作品の読感に悪影響すら与えうるものとなる。
例えば、「とにかく『物語』を摂取したい」と考えている読者などにとっては、過剰な情景描写というのは、物語の内容そのものに影響するものでなければ、邪魔になるわけだ。
ではそうなると、情景描写は一切必要がないのか。
となるとこれは、前述したように、プロのラノベ作家さんでも、不要、むしろ撤廃すべしと訴える方もいる。
ただ、ここから先は私見の様相が強くなるのだが、僕はラノベのような軽い文体の作品の場合、「簡単な情景描写」があったほうが良いと考えている。
簡単な情景描写というのは、具体的には一行か、長くても二、三行程度でパパッと「大枠の情報」を提示する程度のものを言う。
これは情景描写を、物語を魅力的に見せるための補助道具として扱うというスタンスになる。
仮に僕が読者の場合、情景描写がまったくなしにキャラクターの会話が始まると、真っ白な背景のステージを想像し、そこでキャラが喋っているような印象になる。
でも、例えばここに「そこは酒場だった。」という一文が入ると、「僕の頭の中にある典型的な酒場のイメージ」が、情景として脳内に出力される。
真っ白な背景じゃなくなるわけだ。
その分だけ、情緒とか、トリップ感のような印象が生まれる。
ただ、この読者の僕が思い浮かべているイメージというのは、必ずしもその作品の作者が思い浮かべた映像と一緒のものではないだろうということになる。
でも、それでいいわけだ。
「そこは酒場だった。」というたった九文字の情景描写は、僕の脳内に一つの映像を浮かべることに成功している。
そして、これが作者が思い浮かべている絵と、そっくりそのまんま同じである必要が、果たしてあるのだろうかということになる。
もちろん、作品の内容や展開によっては、その必要がある場合もある。
この場合は、詳細の描写は必要だろうということになる。
でもそうでない場合。
情景描写の役割とは、読者に何らかの真っ白空間でないイメージを連想させ、それによる情緒やトリップ感を読者に与えるためのものであって、それで十分に役割を果たすのだということになる。
情景描写は「しなければならないもの」ではなく「書いた分だけ読者の連想イメージに要素を追加投入するもの」と考えることで、僕は情景描写を気楽に、楽しくできるようになった。