#2 母の死
朝の通勤ラッシュの時刻も過ぎ、通りを行き交う車が疎らになる頃。
”甲斐商事”と書かれた三階建てビルの二階で、望は目の前のパソコンの数字を見ながら、取引先と電話で交渉中であった。新しく仕入れる商品の単価交渉が難航しており、今日の電話でも大した進展は得られ無かった。首を一振りして受話器を置く望に、同僚の越路 純也が声をかける。
「望、未来ちゃんから電話だぞ」
「未来から?」
「ああ、なんかすごい暗い感じだったけど、なんかあったのか?」
純也の問いには答えず、望は今置いたばかりの受話器を取り上げた。
◇ ◇ ◇
「おふくろが自殺した?」
望はとても現実とは思えない言葉を聞かされ、呆然と宙を見つめた。あの母のメールから既に三日が過ぎていた。
「……来れる?」
「え?」
「早く帰って来て。お願い!」
妹の二又瀬 未来は普段は気が強く活発的で、どちらかというと望の方が押されるぐらいである。しかし電話越しの未来の声は消え入りそうに弱く、それでも正気を保とうと無理をしているのがわかった。
「……ああ、わかった。すぐ帰る」
必死に冷静さを装い、そう伝えて受話器を置いた望を、心配そうに見守る純也と一瞬だけ目が合った様な気がした。
望は去年離婚した後、隣の県に異動となり、家族の為に買ったマイホームには年老いた母が一人で住んでいた。未来は独身だが仕事の都合と通勤の利便性を考えて、望のマイホームがある比良坂市の隣町で一人暮らしをしていた。
あれから望は母へ連絡も返さず、仕事の忙しさにかまけて何も手を打たずにいた。その事が少しづつだが確実に望の中に暗い後悔の雫を溜め続けていた。
ーーどうすれば良かった? 俺のせいなのか? 俺がメールを返せばおふくろは死なずに済んだのか? でもあんな借金、俺の力ではどうしようも無い。俺がそばにいてやれば良かったのか?
グルグル廻る思考の中で、自分を責める思いだけが拭いきれずに望の心に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
三時間高速を飛ばし、母が搬送された病院に辿り着いたのは、日が沈もうとする夕暮れ時であった。霊安室は静まり返り、冷たくなった母の横には、うなだれて身動き一つしない未来の姿があった。
「遅くなってごめんな」
望はそれしか言えなかった。その声に未来はゆっくり顔をあげ、虚ろな目で望を見つめる。勝気で生気にあふれていた筈の瞳は影を潜め、望が見た事も無い様な虚ろな妹の目から、ひとすじの涙が零れた。
「お兄ちゃん、お母さんが……お母さんが……」
後は言葉にならず、静まり返った霊安室で子供の様に泣きじゃくる未来の声だけが響き渡った。