Ⅰ,吸血鬼に愛されて……。
すべての音が眠りにつく時間。
一人の男が白い息を吐き出して、目の前のマンションを眺めていた。
「今日はここにいる者を狩ろうか」
その男は短く切られた金髪を軽く撫でて、そう呟いた。
その物騒な独り言は、深夜の路上では誰も聞いていない。
男はマンションに向かって歩みを進めながら、病気のように青白い顔に愉悦の笑みを浮かべる。
そのままマンションの壁へ向かう。地球の重力を無視して、まるで壁を平地のように歩いた。男は、あらかじめ見当をつけた窓に近づく。
男は歩いていた壁に片足をつく。
右手に並んでいる刃物のように鋭く伸びた爪の中から、親指の爪をおもむろにへし折った。
その刃のように鋭い爪を錠前近くの窓に突き立て丸く描き、窓ガラスをくり抜いた。
くり抜かれたガラス片は少し、空中を漂った後、男が伸ばした右手によって捕らえられて音を立てず粉々に砕かれた。
男は空いた穴に向かって左手を伸ばす。錠前を外すと静かに横にずらす。
そこから男は、体を器用に滑り込ませながら体勢を変える。そのまま、静かに部屋の床へ音もなく降り立つ。
敷いてある毛足の長い絨毯で足音を殺し、中央にあるベッドに近づく。
そこには毛布に包まれた子供がいた。
男は少し目を見開き驚いたが、すぐに慣れた手つきで、ベッドに膝をつき毛布をそっと剥がした。
男が月明かりで作った影の下、その子供は少しだけうめいたが、眠りから覚めることはなかった。
男は子供の状態に気づくことすらできなかった。
それほどまでに顔のパーツの奇跡的なバランス配置の調和に、男は心を奪われていた。
少しでも崩れていたなら、その美しさが損なわれていたと思われる。
何かを堪えるように揺れる長いまつげ。
すっきりとした鼻筋に。
薄い朱で塗られたような唇。
薔薇の茎を連想させる華奢な体つき。
男は、目を見張りながら、子供の上半身を割れものを扱うかのように慎重に起こした時、思わず喉を鳴らしてしまった。
肩を掴んだ男の手を優しく包むようで、けれど、拒絶するかのように押し返していく肌の感触。
月のように静かに輝く濡れた黒髪。
熱を持った体。
額に真珠のように浮かぶ汗の粒。
一度起きて適当に着たと思われる大きめのパジャマは、寝汗で濡れていて。
外れたボタンから覗く、くっきりと浮き出る鎖骨。
胸が激しく上下している。
男は、息を止めて子供を眺めていた。
月は、雲に隠れて光を消してしまった。
男はおもむろに、子供の首に顔を近付け、首筋に浮かぶ玉の汗を長い舌で絡めとった。
それは、どこか甘い味がして、男が求めて、求めていとわないものだった。
男は、この子のすべてが欲しくなった。
その目も手も足も耳も肌も髪も舌も歯も爪も匂いも、体温さえもすべて気に入った。
しかし、その前に本来の目的を果たさないといけない。
自分の所有物だと傷痕を刻むように、子供の折れてしまいそうな細い首に噛みつこうとした。
その牙は鋭く、そして唾液で妖しく濡れていた。
その時、ゆっくりと子供の目が開いた。
本能が危険を感じたのだろう。
子供は、男を焦点の定まらない眼で見て驚き、目を見開く。小さな唇を大きく動かして声を出そうとした。
とっさに男は、左手の人差し指を子供の小さな舌の下へ滑り込ませて舌の上からは親指で押さえた。
子供の目からは、顎まで線を残しながら涙がこぼれ始めた。
男は、それを見る。どうしようもなく、自分が自分でなくなるほどの破壊衝動に駆られた。
男は目を固く閉じ、奥歯をかみしめた。
月は、雲から逃げ出して光を注ぎ始めた。
衝動を噛み殺した男は、目を開いて子供の顔を見た。
子供の開いた口から引きずりだした、真っ赤に彩られた小さな舌は……リンゴを連想させるようにしっとりとしていて、おいしそうだ。
男は馬乗りになると、子供の未だに流れる涙を舌で舐めとり耳元に囁く。
「君は罪だ。この私を狂い堕としたのだから。君の黒く濡れた目も、絹のような手も、未成熟ながらもしなやかに伸びつつある足も、可愛らしく飾られた耳も、指を柔らかく押し返そうとする肌も、キレイに整えられた髪も、今この手で感じている舌も、貝殻のような白い歯も、指先をそっと彩る小さな爪も、私を誘い離さない匂いも、私がおぼれてしまいそうな体温さえも、すべて気に入った。だから、君のすべてを貰うことにした」
男は、恍惚とした表情で思いの丈を紡いでいく。
「一つの例外もなく、すべてをね。大丈夫。痛いのは最初だけだから」
子供は、目を見開いたまま男の言葉を聞いていた。
男は酔ったように続ける。
「これほど私をひきつける君に流れる血はどんな味なのだろう。君はどこもかしこも柔らかい砂糖菓子の甘味のようだから、きっと美味でおいしいのだろう。君を殺してしまわないように気をつけないと。私のモノだから」
男は、顔をあげて子供の目を見ると、子供は、何か言いたそうだった。
右手の人差し指を子供の喉に当てて言った。
刃を模したような爪が子供の柔肌を押す。
「大声をあげてもいいけど、その時は君の血が私の服を染めるから気をつけて。君の声を聞かせて。ああ、どんな風に私を惑わし狂わす声で私を溶かすのか楽しみだ」
男は左手で固定していた舌を離した。
子供は、しばらく沈黙した後に瞳を揺らしながら男と目を合わせて口を開く。
「これは、夢ですか。吸血鬼さん」
それを聞いた吸血鬼と呼ばれた男は、恍惚とした表情で天井を仰いだ。
「ああ、なんということだ。君の声は鈴を鳴らすようで美しい。よろしい。君の紡いだ私に対する言葉なのだから、答えなければならないな。そう、これは夢のような現実だ」
男は、左手を胸に当て感極まったように涙を流して言う。
「私は、とても気分がいい。ここ何百年探し求め続けたモノが見つかったのだ。さあ、どうしてくれよう。しかし、今宵はもう遅い。君は現実のような夢に沈みなさい」
男は懐から濡れたハンカチを取り出し子供の鼻と口に押し当てた。
しばらくすると静かな寝息が聞こえた。
「汚く穢れた現代も捨てたものではないのだな。こんなモノが手に入るとは。これで心ゆくまで楽しもう」
男は、ゆっくりと子供の首に近づき牙を突き立てる。
それは甘く清らかで花の蜜に似て誘うものを離さない妖しい味だった。
そこからあふれ出す血が男を獣へと変えた。
男の青い眼が赤く血走り始めたとき、変化が起きた。
男は、子供の首から牙を離して自分の腕を噛んだ。
腕から袖を濡らし、生地が吸いきれなかった血を滴らせて呟く。
「この子を殺してはいけないのに加減が難しいですね。対象を変えなければこの子のすべてを壊してしまいそうだ。それは、美しくない。そう、この子は血が通った状態で、愛でて可愛がるのが一番。私を心ゆくまで満たしてくれる。これは、それを示すための傷だと思えば、こんな傷すら愛おしい」
男は唇から滴る血を舐めとり、腕の傷に親指を当てて血で濡らした。
その親指の血を子供の首の傷を撫でた。
血は瞬間的に固まり、消えて牙の跡だけが残った。
血で濡れた親指を子供の唇に這わせて唇を紅に彩る。
「これで君の味は覚えた。さて、忌々しいことに月が就寝するようだ。私はかなり不満なのだが、仕方ない」
男は、子供の顔に近づき鼻の頭に唇を押しつけた。
「どうも、君は、風邪のようだったな。でも大丈夫。明日にはよくなるだろう。私が抜き取ったのだから。下世話な医者どもに君の体を弄ばせはしないよ。君は私のモノなのだから」
男は子供に毛布を被せた。
男は、ベッドからゆっくり下りて窓辺に歩み寄る。
穴をあけたガラスを今度は窓枠に沿って切り抜き、入った時と同じように破砕した。
そして、窓枠に足を掛けて後ろを向く。
男は、今は穏やかに寝ている子供に向かって、歌い上げるように告げる。
「君のすべてを覚えた。どこにいてもどんな時でも、君を見つけにいくことができる。また、今夜のように夢のような現実で。そう、真夜中に。また、逢いましょう。私の狂おしく愛しい君」
男は、夜空を仰ぎ、ゆっくり背中から落ちた。
空中で体を回転させる。音もさせずに足から着地する。夜の闇に歩いて溶けていった。
後に残るは、沈み始めた月を浮かべた夜空と、首筋に二つの噛み傷を持った子供だけだった。
世界の頂上へいつものように太陽は昇る。
そして、太陽はこの街を照らしていく。
闇に溶けた者を焼き殺すかのように。しかし、光の届かないところで、今夜のことを思い返して愉悦の笑みを浮かべる男には届かない。
ある秋の夜更けの夢。
夢だと思い眠りに落ちた子供。
いつかは醒めて気づいてしまう。
自分が何にあったのか。
そして、いつものように鳴る目覚ましの音。
何かが狂い、回り始めた。
ゆっくり、じっくりと足場を確かめるように。