第6話 同居
一筋の光照る
文殊が去って数日後、寺子屋から帰って来た朱羅はお菊に居間に呼ばれた。先に帰っていた楓は既に座っている。朱羅は荷物を寝室に置いてから、居間に戻って楓の隣に座るとお菊は彼らを見渡した。村長は仕事でもしているのか居間にはいない。彼を呼んでこなくてもいいのだろうか。朱羅は伺うように一太を見たが、お菊の方を見ろと顎で示される。仕方なくお菊の方を向くとようやく準備が整ったとばかりに彼女は話し出す。
「もう知っていると思うけど、もう一度話しますね。一太は十八になったら深山村から嫁を取ることになっています。でも、彼女が来たらすぐ祝言を挙げられるわけじゃない。彼女がややこを産めると分かってからでないと家族にはなれない。もし、産めないと分かったら帰ってもらうことになるからね」
「えっと……」
「ごめんなさい。朱羅はこの話聞くのは初めてだったわね。まずは何から説明しましょうか」
「来年、一太がお嫁さんを取るのはわかったんだけど……」
「十六夜さんから聞いたことがないのね。分かった。ちゃんと説明するわ」
申し訳なさそうに眉を下げる朱羅にお菊は微笑みかける。村長の家では二年前から話しているが、まだ幼い朱羅を抱えていた十六夜が話したとは思えなかった。そもそも彼女自身が農村での結婚に関して知っていたかどうかも怪しい。だとしたら朱羅が困惑しても仕方がないだろう。
お菊は農村では子供を産むことが大切なこと、そのため商家や武家と違ってすぐ祝言を挙げないこと、ややこを産めると分かるまで一緒に暮らして様子を見ることをかいつまんで朱羅に教えた。朱羅はまだ理解しきれていないが納得することは出来たらしい。子供がいないと働き手に事欠くことをうっすらと理解しているのだろう。今はそれだけの認識で問題はない。それでもまだ何か引っかかるのか朱羅は浮かない顔をしている。
「言いたいことはきちんと言いなさい」
「一太のお嫁さんって誰?」
「花嫁候補のことね。深山村の村長の娘、瑠璃さんよ。大丈夫、きっと朱羅なら仲良くできるわ」
お菊から太鼓判を押してもらって朱羅は嬉しそうに笑みを浮かべる。朝日村に行くまで木の間村から一歩も出たことがなかった朱羅にとって、深山村から来る一太の嫁候補さえ未知の存在だ。そこがどこにあるのか気になっているのか一太の方をチラチラ見ている。楓よりも地理に詳しいと感じ取っているらしい。そのおかげで彼女は腹を立てて朱羅の頬をつねっている。自分に聞いてほしいようだ。一見微笑ましい光景だが、腹を立てたからといってすぐ手をあげるのはお菊としてはあまり良いこととは思えない。お菊はすっと立ち上がると楓の手を掴むと朱羅の頬から離した。
「朱羅は楓よりも一太の方がよく知っていると思っただけよ。そんなにカッカしないの」
「だって朱羅が私に聞いてくれないんだもん」
「だってもだからもありません。聞いてほしいのならそう言えばいいだけでしょ?」
優しく落ち着いた声に楓は頷く。何も言わずにつねった自分も悪い。楓は俯いて自責の念に駆られているらしい朱羅の顔を持ち上げる。目が合った瞬間にもじもじしだす彼に頼りなさを感じるが、それと同時に頭を下げたくなった。朱羅は楓よりも寺子屋で学んだ量は少ないが、地理に関してはほとんど同じ量を学んでいる。彼女が深山村に習い事をしに行っていることも教えていない。それなのに自分だけは悪くないと思っていた。楓はようやくお菊が言ったことが理解できたような気がして、振り返って彼女を見る。お菊はまるで促すように微笑んでいた。
「つねったりしてごめんなさい」
「俺こそ気づかなくてごめん」
互いに頭を下げて謝る。謝るために向かい合ったせいかコツンと頭がぶつかり合った。楓はとっさに顔をあげて額に手をやる。朱羅は頭頂に手をやっていた。そこにぶつかったのだろう。何を言おうか楓が考えていると、おかしそうに笑う一太とお菊の声が聞こえた。振り返ってムッと眉を寄せ、頬を膨らませるとふいっと顔をそらされる。ますます不機嫌な顔になる楓を横目で見ながら一太とお菊はくすくす笑っていた。
年が明けて春が訪れた頃、村長の家では瑠璃を迎える準備が進められていた。部屋の数は限られている。いくら嫁候補といえど客間を使わせるわけにはいかない。そうなると家族の部屋で寝ることになるのだが、それもうまくはいっていなかった。この周辺では珍しいと言われる子供部屋と夫婦の部屋を分けて造らせている村長の家でも、新たに増えるであろう人数を考えると頭を抱えてしまう。どうしたらいいのか。彼女に課せられる試練を考えれば、しばらくは周りに多くの人がいない方が良いだろう。そこまで考えられているのに結論が出ていなかった。
「父上、少し考えてみたんだけど、しばらく楓たちを父上たちの部屋で寝させたらどう?」
「そうなるとあいつらの荷物を移さなければならんな」
「移すぐらいなんてことないと思うぜ。他の家では家族全員で一つの部屋で寝ていると聞くしさ」
「それもそうだな。よし、そうしよう」
ようやく結論が出たことに村長は一安心していた。これで瑠璃を迎えられるだろう。あとは彼女が来るだけだ。一太も楽しみなのかそわそわと忙しない。親の都合で決めた嫁とはいえ、彼女を気に入っているのだろう。村長は息子を見ながらお菊と出会った頃を思い出していた。あの頃も親の都合だったが、結婚した後に互いに恋に落ちている。一太もそうなるかもしれない。彼も年頃の少年だ。恋の一つや二つしてもおかしくはないだろう。
玄関先から声が聞こえる。その声に一太が反応し、子供のように部屋を出ていった。瑠璃が来たことが分かったのだろう。若い者は元気が良くていい。村長は一人苦笑いをこぼす。
「ようこそおいでくださいました。さぁ、どうぞ上がってくださいな」
「ありがとうございます」
玄関にはお菊と少女、彼女の付き添いの親がいた。まだあどけない雰囲気を残している愛娘を心配しているのか、これからのことをあれやこれやと言っている。それを柔らかな調子で返す少女に何かがぶつかった。はっとした少女が下の方に目をやると紅い髪がふるふると揺れている。じっと見つめられていることに気が付いた朱羅は顔をあげるやいなや慌てて土下座した。村長の家を訪れた客にぶつかるのは失礼にあたる。朱羅は地に額をこすりつけ、上から降り注ぐ軽蔑の視線から逃げたくなる気持ちを抑えて「ごめんなさい」と言うしかなかった。この視線は少女から発せられているものではない。どうして自分がこういう風に見られなければならないのか。そう聞きたくても聞けない。
「もう謝らないで。ほら、顔を上げて」
そっと手を伸ばし、朱羅を起こした瑠璃は木漏れ日のような笑みを浮かべる。軽蔑の色が浮かんでいないその瞳に朱羅は心の底から安堵した。この人はきっと大丈夫。そう確信した朱羅はゆっくり立ち上がり、瑠璃にもう一度謝ると彼女の両親にも頭を下げ、家の中に戻って行った。
「あんなに綺麗な瞳は初めて見たわ」
「ふふ、そうでしょ。ささ、皆さんお入りなさいな」
お菊は秘宝でも拝んだかのように直立不動の瑠璃の背中をそっと押す。ようやく村長の家に入った彼女を一太が迎えに来ていた。緊張しているのか頬を赤く染めている。それを見た瑠璃も気恥ずかしさを感じて、一太の顔をまともに見られなかった。このまま二人が止まっていては何もできない。お菊は瑠璃の背中を押して客間に向かう。客間は朱羅や楓が準備した座布団が置かれ、村長が座って待っていた。彼は瑠璃たちが来たことを確認すると立ち上がり、彼女たちに席を勧める。全員が座った頃を見計らって下女のつたがお茶を出し、村長たちの邪魔にならないように後ろに下がった。
「深山村から参りました、瑠璃と申します」
「朱羅です。さっきはごめんなさい」
瑠璃は指先を畳にそっと触れさせ、深く頭を下げる。それをどう勘違いしたのか、朱羅は何度目かの謝罪の言葉と共に頭を下げた。ぷっと小さく噴き出す楓を皮切りにお菊たちも笑いだす。あっという間に笑い声に包まれた客間に朱羅はあたふたと周りを見渡した。何か場違いなことでもしたのだろうか。瑠璃の親は呆れたように彼を見ている。その冷めた瞳に申し訳なさを感じるが、それすらも当然のように受け入れている自分がいることに気付いた。氷のような眼差しは物心ついた頃から見続けたものではある。それでもあまり見たくない。
笑い声が引くと楓が朱羅に顔を向けた。じとっと見つめてくる瞳に姿勢を正す。
「あんたって何も知らないのね。自分で名乗ってどうするのよ」
「違うの?」
「違うわよ。顔合わせには変わりないけど」
楓は溜め息を一つ溢す。朱羅に説明しようにも自分自身がよく知らない。そこでお菊の方を見たが、助け舟を出してくれそうには見えなかった。頑張れとでもいうように微笑んでいる。楓は仕方がない、適当なことでも言ってごまかそうと口を開きかけたが物を言うことが出来なかった。瑠璃が朱羅を手元に呼んで彼をいじっている。彼女は思ったより自由な人なのかもしれない。楓はいつの間にか瑠璃の親が退席した部屋で朱羅たちを見つめていた。
翌日、瑠璃は嫁としての仕事を始めていた。一太は瑠璃の実家に行っていていない。嫁を貰うのが人よりも数年早いことを気にしているのか、それに見合う男だと示したいらしい。瑠璃にしてみれば、自分と大して年の変わらない夫と言うのはどこか特別な感じがして新鮮だった。とは言え、主が留守にしている今を逃す手はない。家のことをよく知るためと自分に言い聞かせて、瑠璃は村長の家を探索していた。間取りは彼女の実家とさして変わらない。それでも部屋数は村長の家の方が多かった。それほど彼の村が大きいことを示しているような気もする。
瑠璃は部屋を回るうちに小さな仏壇を見つけた。本が一冊丸々入るような幅の箱が仏壇として飾られている。どう見ても村長の家のものではない。そのくせ、清浄な空気さえも感じさせる。瑠璃が不思議に思って近くで掃除をしていたつたを手元に呼んだ。
「おつた、これは誰の仏壇なの?」
「それは朱羅の両親を祀ったものですよ」
「ご両親の?」
「はい。母親は町からいらした方のようで洗練されていました。あれほど美しい女子は滅多にお目にかかれませんよ。美人薄命とはよく言ったものです」
うっとりと彼女を語るつたに、瑠璃は朱羅の母親がたいそう美しかったのだろうと思った。おそらく彼女は単なる農民ではない。どこかの商家の娘だったのだろう。しかし、それを示す証拠が無ければどうにもならない。瑠璃は朱羅に直接聞こうとくるりと向きを変え、囲炉裏の方に歩いて行った。幸い彼は寺子屋を休んでいる。留守番を買って出たらしい。瑠璃は朱羅の隣にすっと座った。彼女に気付いた朱羅は怪訝そうに見上げる。
「そんな顔しないでちょうだい。朱羅くんに聞きたいことがあるだけだから」
「聞きたいこと?」
「そう。朱羅くんの母上のことなんだけど、彼女はどこから来たの?」
「……知らない」
すーっと目が泳いだ朱羅に何か知っていると確信する。聞かれたくないのか瑠璃から目をそらした彼に、もっと聞きたいという思いが湧きたった。七つも年下の相手に根掘り葉掘り聞こうとするのは大人げないと笑われるだろう。それでもこの好奇心を抑えられそうにない。朱羅もそれを感じ取っているらしく、瑠璃を横目で見ている。何か聞かれないかとひやひやしているのが、まるわかりの顔に瑠璃は思わず吹き出した。どんぐり眼をぎょっと開いて彼女を見る朱羅にますます笑いがこみ上げる。しまいには呆れられたのか、彼が溜め息を溢す始末だ。
ひとしきり笑ったおかげですっきりした瑠璃は立ち上がり、見上げて来る朱羅の頭を撫でる。目を細めて気持ちよさそうにする彼に、瑠璃は実家にいる弟を重ねた。彼と同じ目をしている。まだ撫でてほしそうな瞳に瑠璃はその手を止められなかった。
「瑠璃さんって姉ちゃんみたい」
「朱羅くんには姉上がいるの?」
「いたよ。もう死んじゃってるけど」
姉とはどういうものなのかを朱羅は知らない。だから余計に瑠璃を姉のように見立てているのだろう。彼女もそれが嫌ではないらしい。むしろ、新しい弟が出来て喜んでいるように見える。初対面でこんなに受け入れてもらえたのは初めてだ。朱羅はどこかくすぐったさを感じながら、瑠璃に微笑みかける。受け入れられるってこんなにも嬉しいことなんだ。はじめての気持ちに朱羅は日の光を感じていた。
「朱羅くん、私のことを姉だって思っていいのよ。一つ屋根の下で暮らしているんだもの」
一瞬悲しそうな顔を見せた瑠璃は、次の瞬間には優しい笑みを覗かせていた。朱羅と目線を合わせ、朗らかに笑う。開け放した玄関から春の風が若草の匂いを運んで二人を包み込んだ。そよそよと吹く風が朱羅の横髪を揺らす。瑠璃は風が吹いてくる方角に顔を向け、離れたところにある実家に想いを馳せていた。今頃、一太たちは用事を済ませ帰路についている頃だろう。彼らが帰ってきたらすぐにくつろげるようにしておかなければならない。瑠璃は最後に朱羅の頭を軽く撫でるといそいそと準備をしに行った。彼女が立ち去り際に見せた微笑みに嬉しさを垣間見た朱羅は小首を傾げる。なぜ瑠璃が楽しそうなのか、見当がつかなかったからだ。
八つ時になると楓が寺子屋から帰ってきた。じっと囲炉裏のそばに座っていた朱羅は、彼女の姿を見るとそばに駆け寄る。何の用なのか、聞きたそうにしている楓に瑠璃の微笑みのことを聞いてみた。
「瑠璃さんが一太たちが帰ってくるだろうからって準備しに行ったんだけど、嬉しそうに笑ってたんだ。あれってなんで?」
「ぷっ。そんなこともわからないの? あんたって鈍いのね。義姉様は兄様のことが好きなのよ」
「そうなの? 全然そんな風に見えないけど」
「だから鈍いって言っているのよ。義姉様が兄様をうっとり見ているって気づいていないんだから」
瑠璃がいつ一太をうっとり見ていたのか、朱羅にはわからなかった。いくら思い返してみてもそれらしき場面はない。だが楓が嘘を言っているようには見えなかった。それに一太が瑠璃と会っていたという話も聞いていない。昨日会ったばかりで好きになるものなのか。首をうなだれて考え込む朱羅に楓はため息を吐く。全くと言っていいほど気づいていない彼に呆れる。頬を赤く染めて一太を見つめる瑠璃に気づいていなかったということが楓には信じられない。それぐらい誰でも気づくわよ。心の中で呟くと朱羅の横を通って自分たちの部屋に向かう。後ろから楓を追いかける足音が聞こえても振り向かなかった。どうしてもわからないらしい朱羅にこれ以上説明する気が起きない。見てすぐわかりそうなものをどう説明しろというのだろう。
「楓はいつから気づいていたの?」
「最初から」
「え、本当? でも、そんなところなかったよ」
「あるわよ。見てわからないの?」
「ごめん」
部屋に入り、文机のそばに座った朱羅は力なくうなだれる。手習い道具を文机の下に置いた楓は振り向いて肩をすくめた。しょんぼりしている朱羅に何を言えばいいのかわからない。楓は彼の頭を撫で始めた。少し言いすぎたかもしれない。朱羅はこういうことに生まれてはじめて接したのだろう。だから楓に聞いてきたのかもしれない。なんとなくそんな気がする。しばらく撫で続けていると朱羅が顔を上げた。さっきまでの落ち込みようはどこへやら、微笑みを浮かべて気持ちよさそうにしている。喉を鳴らして甘えてくる子猫のような姿に楓は苦笑いをした。この分ならもう大丈夫だろう。そう思った楓は撫でるのをやめて朱羅の目を見つめた。実は彼の頭を撫でているうちにお菊に言われたことを思い出していたのだ。
「ねぇ、朱羅。今朝、義姉様が兄様を見て赤くなっていたでしょ? それだけでわかるじゃない」
「ごめん、わかんない」
「やっぱり鈍いわね」
あれほど分かりやすい反応でも朱羅には理解できないらしい。頭の上に大きなはてなが浮かんでいる。これは骨が折れそうだ。楓は肩をすくめ、小さく溜め息を溢す。今は無理に分からせようとしなくてもいいかもしれない。朱羅ならいつか気づくはずだと信じてみるしかないだろう。楓は立ち上がり着物の裾を正した。つたが彼女たちを呼ぶ声も聞こえてくる。一太たちが帰って来たらしい。まだ座り込んでいる朱羅の方に楓は向く。
「さっさと立ちなさいよ。おつたが呼んでいるわよ」
「うん」
ぴくっと肩を震わせて朱羅は急いで立ち上がる。腕を組んで唸っていたせいか、つたの声が聞こえていなかったらしい。おまけに放置されていた座布団に足を取られて盛大に転んだ。思わず吹き出した楓を頬をふくらませて見ている。なおもくすくす笑っていると乾いた音を立てて襖が開いた。つたが不安げに二人を見ている。朱羅の転んだ音を聞き、急いで駆けつけてくれたらしい。
「ご無事でしたか。村長が呼んでいますのでお早く」
それだけ言うとつたは持ち場に戻って行った。楓と朱羅は互いに頷くと部屋を出る。居間からお菊と瑠璃が談笑している声が聞こえてきた。それに一太が合いの手を打っているらしい。楽しそうな声に楓の瞳は輝き、朱羅の手を取って歩き出す。窓から入って来た風も二人を歓迎するかのように花びらを運んできた。ひらひらと舞う花びらは太陽の光を受けて柔らかに輝く。花びらは居間との境目まで風に揺られ、ふわりと床に落ちた。薄桃の花びらを楓は拾い上げて息を吹きかけて飛ばす。また舞い上がった花びらに気付いた村長は二人に目を留め、満面の笑顔を浮かべて彼女たちを手招きをする。振り返って朱羅を一瞬見た楓も柔らかな笑顔を浮かべていた。