第3話 師匠
朱羅が高熱を出してから一週間後、風邪が治った朱羅は元気を取り戻していた。居間では楓が朱羅の額に手を当てて、本当に風邪が治ったのか確かめている。
「もう大丈夫ね。今日から寺子屋に行けるわ」
「……何か行きにくいんだけど」
「それはあんたが十日間休んでいたからよ。お婆さんの看病をしていた間は行っていなかったでしょ?」
「そうだけど……」
「ぐじぐじ言わないの。今日から寺子屋に行くのよ。分かった?」
楓が朱羅の目を見て言うと、朱羅は躊躇いがちにゆっくり頷いた。まだ行く決心はついていないが、行かないと皆が先に進んでいくだけだということも分かる。あれほど行きたくてたまらなかった所に行かないというのは、行かせてくれる村長に悪い。それを見た一太は朱羅の頭を乱暴に撫でながら笑う。
「お前って本当に逆らわないよな。こんなに素直だったらどんなに良いか……」
「兄様、それは誰のことを言っているの?」
「楓に決まってるだろ」
その瞬間、楓は手近に転がっていたお手玉に手を伸ばし、一太に投げつける。一太はお手玉が当たっても笑って受け流していた。それを見ていた朱羅は二人の様子に呆れてしまった。自分が預けられてから、一週間に一回はこの光景を見ている気がする。それに朱羅が素直に見えるのは、幼子の純粋さだけではない。組頭と関わる中で身につけたものでもあるのだ。
「もう兄様なんか嫌い! 朱羅、寺子屋に行くわよ」
「わわっ。行くからそんなに引っ張らないで!」
怒った楓は乱暴に朱羅を引っ張り上げると、二人分の道具を取り、強引に朱羅を寺子屋に連れて行く。寺子屋までの道中、楓は全く口を聞かなかった。朱羅はそんな楓に話し掛けるわけにもいかず、どうすれば良いか分からなかった。
暫く無言のまま歩いていると、ようやく寺子屋に辿り着いた。これで少しは力を抜いてくれるかもしれない。その期待を胸に秘めた朱羅を楓は引き連れたまま、寺子屋にずんずんと入って行く。楓を見た寺子屋に来ていた他の子供たちも彼女が不機嫌であることに気がつくと、すーと静かに楓から離れていく。楓の怒りに触れたくないのだ。
「楓ちゃん、今日はご機嫌斜めだね」
その時、穏やかな声音の壮年の男がにこやかに微笑みながら、まるで楓を宥めるかのように話し掛けた。総髪の男は楓と目線を合わせている。その穏やかな語り口に楓は少し落ち着きを取り戻していた。
楓はもじもじと指で遊びながら、言うか言わないか迷っているようだった。それを後押ししたのも、彼の落ち着いた雰囲気だろう。小さく俯いた楓は蚊のように呟いた。
「だって兄様が……」
「お兄さんがどうしたのかね?」
楓が少し拗ねながら答えようとした時、朱羅が空気を読まずに声を上げた。
「冬嘛斎先生、お久しぶりです」
「あぁ、久しぶり。朱羅君、体調はもう大丈夫かね?」
冬嘛斎と呼ばれた男は楓を宥めながら朱羅に聞く。朱羅は頷いたが、楓を見た途端にしまったという表情になった。楓が怖い顔をして睨んでいる。今、言ってはいけなかったということにようやく気付いた朱羅は、ばつの悪そうに俯いた。
「さて、勉強を始めるよ。二人とも座って」
冬嘛斎がそう言うと、楓と朱羅は並んで席に座る。楓は朱羅に文句を言えなかったせいか、更に不機嫌になったようだった。腹いせに朱羅の太股をつねっている。朱羅はぴくりと肩を震わせたが何も言わない。
「楓ちゃん、そうやって怒っていたら勉強出来ないよ。後で話を聞くから」
冬嘛斎が優しく声をかけると、ようやく楓も大人しくなり、いつものように読み書きや算盤を学び始めた。筆子たちのいる部屋に筆が進む音が響く。冬嘛斎が順番に彼らの字を見ていき、手直しを施していく。おしゃべりを始めたり、他の子と遊びだす筆子も出て来始めて、部屋が騒がしくなって来た。冬嘛斎は頃合いを見計らって、他の子の邪魔をしないように子供たちに声をかける。彼の寺子屋では他人の邪魔さえしなければ、それぞれが自由に自分の課題をこなすようにしていた。それもあるからか朱羅は皆との遅れを取り戻す為に、真剣に冬嘛斎の話を聞いていた。
八つ時になり冬嘛斎による授業が終わると、子供たちはそれぞれの家に帰って行く。そんな中で居残っている子供がいた。冬嘛斎はその子供の前に座る。
「楓ちゃん、お兄さんと何があったんだい?」
冬嘛斎が優しく問うと、楓は俯きながら小さな声で話しだす。
「兄様が私のことを朱羅みたいに素直だったら良かったのにって言ったの」
「一太君らしいね。でもそれは一太君の愛情表現なんだよ」
「愛情表現……?」
「そう、愛情表現。かなり下手だけどね」
冬嘛斎が苦笑しながら言うと、楓はどこか納得したような表情で微笑んだ。今朝の出来事でも思い出したのだろう。その時、楓はふと朱羅がいないことに気がついた。いつもなら楓が帰らずにいると、待っていてくれるのに今日はどうしたのだろう。
「朱羅……?」
「朱羅君ならもう帰らせたよ。たっぷり宿題を出してあげたからね」
「そうなんですか? じゃあ、私も帰ります」
「そうかい。また明日」
楓は冬嘛斎にぺこりとお辞儀をすると、明るい陽射しの中を家へと帰って行く。その後ろ姿を冬嘛斎は微笑ましそうに見つめていた。一太のことで怒っていたのが嘘のように晴れ晴れとした楓に安堵に似た思いが湧いたからだろう。楓が家に着くと、朱羅がお菊の側で彼女が着物を繕っている様をじっと見つめていた。
「朱羅、何をしているの? 冬嘛斎先生から宿題を出されているんじゃないの?」
「出されているよ。さっき少し終わらせた」
朱羅は楓の方を見ずに答えた。お菊の手際の方が気になるらしい。こういう時の朱羅は何を言っても相手を見ないことを楓は知っていた。だが、朱羅が何故お菊の手元を興味津々で見ているのか分からなかった。
「楓、お帰りなさい。朱羅、裁縫に興味を持ったみたいなのよ」
「何でまた裁縫に?」
楓がお菊に疑問を投げ掛けると、楓には信じられない言葉が聞こえた。
「おばさん、縫うのやりたい」
「え……? 朱羅、本気で言っているの?」
「そうだよ? そんなに驚かないでよ、楓」
「裁縫は女の子が習うものの筈なんだけど……。母上、そうよね?」
楓に聞かれたお菊は少し考えると、微笑みながら優しく答える。
「普通なら驚く所かもしれないけれど、本人がやりたいのだから良いのよ」
「本当に朱羅って変わっているわ」
「そう?」
朱羅が不思議そうに聞くと楓は頷く。朱羅は何故、自分が変わっているのか分からなかった。本人なりに理由があるのだが、それが伝わっていないらしい。この当時、裁縫は女子の第一の仕事だ。男が裁縫をするなど考えられなかったせいだろう。
そうやって朱羅が考え込んでいると、お菊が朱羅の前に針山と布地を差し出す。朱羅が不思議そうにお菊を見つめると、彼女は微笑んだまま朱羅の手を取った。針に糸を通し、布に突きたてる。お菊は朱羅に縫い方を教えようとしているらしい。そのことに気付いた朱羅は嬉しそうに瞳を輝かせる。それを見た楓は微笑み、自分のやりたいことをしたいと言った朱羅に、これからも我慢をしないでやりたいことをして欲しいと願った。
朱羅がお菊から裁縫を学び初めて数日が経ったある日の夕方、村長の家では夕食の準備が始まっていた。お菊は米を研ぎ終わった釜を置き、竃に火を入れて炊いた米の様子を見ている。誰かがつまみ食いをしていないか、確かめているのだ。この日の朝に炊いた米は昼に見た時と寸分変わらない量が残っている。今日は誰も米に手を出していないらしい。お菊は米の量を確認している間、隣でじっとお菊の手元を見ていた朱羅に声を掛けた。
「そんなに不思議?」
「うん。どうしてあれだけでお米が美味しくなるの? お鍋もどうしてあんなに美味しいの?」
「あらあら。この子ったら、料理にも興味を持ったのかしら」
お菊はおかしそうにくすくすと小さく笑った。この村でも出稼ぎの為に単身赴任をする男が多かったからか、朱羅が料理に興味を持っても驚くことではない。単身赴任した時に役立つものだからだ。そう理解していても、寺子屋から帰って来た時よりも楽しそうにお菊を見つめて来るその瞳が心をくすぐる。教えたい。強くそう思わせる瞳がすぐそこにいる。お菊は朱羅にこっちにおいでと囲炉裏に呼んだ。朱羅はお菊のあとについて囲炉裏まで来ると、彼女の隣に座る。
「今朝、お米を火にかけていたでしょ。あれはお米が水を吸って火で温まるとふっくらするからよ。そうするとお米の美味しさが引き出されるのよ」
「じゃあ、お鍋は?」
「一緒に作ったらきっと分かるわ。『百聞は一見に如かず。百見は一行に如かず』って言うでしょ?」
「百見は一行に如かず……?」
「百回見るより一回行動した方が効果的だってことよ。実はね、あの格言にはこんな続きがあったのよ」
お菊は悪戯っぽく笑いながら、優しく朱羅に教えた。朱羅は初めて聞いた格言の続きを小さく復唱する。これをお菊がどこで知ったのか、朱羅には分からない。さらに、不思議なことに朱羅はこの格言の続きに妙に納得していた。そんな朱羅を見て、お菊はこの子は将来きっと賢くなるわと確信していた。
「さぁ、作りましょうか。まずは野菜を切りましょうね。包丁を使ったことはある?」
「ううん、ないよ」
「じゃあ、包丁の使い方からしましょうか」
お菊は朱羅の手に包丁を握らせた。片方の手を猫の手にし、野菜を軽く固定する。これをしないと手を切る危険があるからだ。そうして、人参や大根などの野菜を切っていく。まだ不慣れなせいか、同じような大きさには切れない。なぜか歪な形になる野菜も出てくる始末だ。それが朱羅には分からない。お菊に包丁を支えて貰いながら切っているのに、小さいものと大きいものが出来る。まるで訳が分からない。
全ての野菜を切り終えたら、鍋を火にかける。今日は野菜を煮るらしい。町から仕入れた鰹節で出汁をとったあと、板に載せた野菜を入れていく。
「さっき切った人参と大根を取ってちょうだいな」
「何で人参と大根なの?」
朱羅はお菊に人参と大根を渡しながら、不思議そうにお菊に尋ねた。お菊はにこりと微笑むと、固い野菜から先に火を通すからよと教える。朱羅はその理由について考え始めたが、お菊が鍋に野菜を入れるとお菊の手元をじっと見つめた。
「朱羅もやってみなさい」
そう言うとお菊は切った人参を少し渡した。朱羅は鍋の上に手を出し、人参をぱらぱらと落とす。落ちた瞬間、ぽしゃんと水柱が立って熱い水が飛び散った。ぴくりと肩が動き、腕に水がかかっていないか確認する。幸い水はかかっていないらしい。人参のかけらが鍋に沈んだのを確認して朱羅はお菊を見る。
「こう?」
「もう少し低い位置から入れた方が水が飛び散らないわよ」
「ふーん……」
朱羅はお菊に言われたように、最後の人参をさっきよりも低い位置から入れる。ぽちゃんと音はしたが、水は少ししか飛び上がらなかった。入れる高さで跳ねる水の高さが変わるなんて。朱羅は感動に瞳を輝かせた。お菊はそれに嬉しそうに微笑む。
「そうそう。次はこれね。これはね……」
お菊は丁寧に朱羅に料理を教えながら、一緒に夕食を作っていく。朱羅はどんどん出来上がっていく料理を目を輝かせながら見ていた。どうしたらこうなるのだろう。朱羅の興味は尽きない。
やがて夕食が出来上がり、家族全員が囲炉裏に集う。いつものように料理を椀によそうと夕食を食べ始めた。熱い鍋と冷めたご飯が互いに混ざり合い、ちょうど良い温度になる。いつもはおかずをお椀1杯分しか食べない朱羅も珍しくおかわりをしていた。自分が手伝った料理が普段よりもおいしく感じられるからだろう。そんな朱羅を見ながら静かに食べていた村長は椀を片手にお菊を見た。
「今日の野菜はいつもより不揃いだな」
「それは当然ですよ。今日は朱羅と一緒に作ったんですもの」
「朱羅と料理を……?」
村長が尋ねるとお菊ははいと答え、この子はもっと上手になりますよと微笑んだ。それに楓は驚き、箸を落としそうになる。自分がいつかしなければならない日が来るものに朱羅が興味を示したのが信じられない。それも楓が習い事の練習をしていた間にお菊を手伝っていたのだ。朱羅に追いこされた気になり、心がもやもやする。彼が羨ましくてたまらない。どうしたらそんな興味が出るのだろう。楓には分からなかった。
翌日、夜明けと共に起きた朱羅は顔を洗ってすぐに居間に向かった。居間には既にお菊がおり、手に花を挿した金銅製の華瓶を持っている。どうやら居間と隣接した仏間に行くらしい。
「おはよう、おばさん。何してるの?」
「あら、おはよう。仏様にお花を供えるのよ」
「仏様?」
「そう。ご先祖様をあそこにお祀りしているの」
お菊は仏壇を指し示す。黒漆の衣をまとい金で装飾を施された、どっしりと構える仏壇に朱羅は圧倒された。香炉も黄金色に輝いている。世の中にこんな贅沢なものがあるのか。朱羅はその輝きを放ちながらも落ち着いている仏壇に、驚きと感嘆を感じていた。
「おばさん、父さんと母さんの家に行ってくる」
「用事があるの?」
「荷物を取って来たいなって」
「じゃあ、風呂敷を用意するからそれを持って行きなさい」
「おばさん、ありがとう」
仏壇を見ていて何を思ったのか、家に行きたいと言い出した朱羅にお菊は柔らかく笑みを向ける。朱羅は今まで一度も荷物を持って来たことがない。ようやく持ってくる気になったのか。お菊はその変化に微笑ましく感じた。
朱羅はなぜお菊が母のような眼差しを向けて来るのか分からなかった。ただ荷物を取りに行くだけなのに、まるで成長した我が子を見るように見られる。思わず考え込んでいると、にゅっと唐草模様の風呂敷が目の前に現れた。顔をあげるとお菊が丁寧に折りたたまれたそれを差し出している。これを使えとでもいうのだろうか。
「こんなに贅沢なもの使っていいの?」
「いいのよ。それにこの程度は普通の風呂敷よ」
「えぇ!?」
柔らかそうな風呂敷が普通とは朱羅には信じられなかった。布の端がほつれているのが普通だと思っていた。これほど感覚の差を感じたことは後にも先にもない。朱羅が唖然として立ちつくしていると、お菊が背中を押す。朝食までに戻って来いということなのだろうと思って、朱羅は草鞋を履いて実家に向かった。
組頭が所有する土地にやって来た朱羅は、鼻歌を歌いながら実家に向かった。お菊に借りた風呂敷も懐に入っている。これなら家にある荷物は布団以外、全部包めるだろう。そう思うとわくわくして仕方がなかった。家にある鍋はどうしたら良いだろう。隠してある本は無事かな。そればかりが朱羅の頭に浮かぶ。
だが、そうは問屋がおろさないらしい。家の前まで来た朱羅の目の前にあるのは、屋根にいくつもの縄を掛けられて小作人の男たちに引っ張られている我が家だった。壊すつもりだ。そう理解できたわけではないが、家が危機に直面していることは分かる。小屋と同じ造りをした茅葺き屋根の家は、みしみしと木を軋ませている。一体誰がこんなことをやるように言ったのか。朱羅は家の前にいる男たちを見つめる。その中に腕を組んだ組頭がいた。
「組頭さん、やめさせてください!」
「くっつくな、石っころが」
「お願いします。やめてください!」
「ええい、邪魔だ。どけ!」
組頭は足にしがみついて抵抗する朱羅を弾き飛ばした。朱羅は地面に転がって尻餅をつく。それでも起き上がり小法師のように、何度でも朱羅は組頭にしがみついて抵抗した。なんとしてもやめさせたい。その想いだけだった。
「やれ」
何度目かに弾き飛ばされた時、組頭の冷酷な声が低く響いた。その声に縄を引っ張る小作人たちも固まる。本当にいいのか。そう伺うように組頭を見る者もいるほどだ。しかし、組頭の温度のない冷たい眼差しを見た途端、慌てて前を向く。これ以上、朱羅には何もできなかった。組頭の言葉を聞いた途端、体が石のように動かなくなったのだ。
「せーの!」
その掛け声で縄が家をより一層軋ませる。みしみしと軋む音だけではなく、ばきぼきっと木が折れる音も聞こえてきた。屋根もだいぶ傾いている。縄で引っ張られて持ちこたえるのがやっとという状況だ。だが、それも長くは続かなかった。小作人たちが後ろに下がると同時に傾きだした家は、軋む音と折れる音を同時に轟かせながら土煙をあげて倒れ込む。どーんという地響きも朱羅を動かすには不十分だった。
組頭は朱羅の家が倒れたのを見届けると、小作人たちに仕事に戻れと言い残して立ち去る。彼らも朱羅に憐れみの視線を向けてそれぞれの仕事に戻って行った。後に残されたのは、無様に倒れた家と朱羅だけ。あまりにも突然に消えた我が家に朱羅はなす術もなかった。
「ひぐっ……」
泣くまいと気張ってみても、唇を噛み締めてみても意味はなかった。次から次へと零れる涙は止まってくれそうもない。まるで無力な自分を責め立てるように、空から孤独が降ってくる。胸にぽっかりと大きな穴が開いて、どうしようもなかった。父さん、母さん、ごめんなさい。家、なくなっちゃった。俺、どうしたら良いの。心の中で謝っても、その答えは誰も教えてくれない。