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朱羅の鳥と楓の剣 [蓬莱妖仙傳]  作者: 犬塚弘鳥
第壱章 居候事始
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第2話 髪結

 翌朝、朱羅が目を覚ますと、隣で寝ていたはずの楓がいなかった。

「楓……?」

 一体どこに行ったのだろう。(かわや)だろうか。それとも別のどこかだろうか。朱羅はもぬけの殻となっている布団を見つめながらそんなことを考えていた。手で触っても冷たい。つまり、布団から出てだいぶ時間が経っているということだ。

 朱羅が辺りを見回していると、居間から差し込む光と共に楓が小さく笑い声をもらしながらやって来た。朱羅が怪訝そうに見つめていると、楓がようやく口を開く。

「朱羅のお寝坊さん。もう朝ご飯出来てるわよ? 早く顔を洗ってらっしゃいな」

「……え、嘘。俺が一番最後?」

「そうよ? 村の皆も朝の仕事を終わらせたもの」

 その言葉を聞いた途端、朱羅は血の気が引いた。村の仕事は山ほどある。それを皆で分担して、こなしている。それなのに朱羅は、ぐっすりと眠りこけていたのだ。朱羅はそのことに気づくと、一目散に顔を洗いに走る。その後ろ姿を見送りながら、楓はくすくす笑っていた。昨日あれほどふらふらになりながら歩いていたくせに、ほんの少しからかっただけで慌てる。そこがおかしかったのだ。

 朱羅が顔を洗い、台所の囲炉裏まで来ると村長とお菊が待っていた。

「おはようございます。遅くまで寝ていてごめんなさい」

 朱羅が申し訳なさそうに小さな声で呟くと、村長が朗らかな笑みを浮かべた。

「構わんよ。この三日寝ていなかったのだろう? 家の者から聞いているよ」

「……見てたの?」

「楓が連れて帰れないと言うものだからな。交代で見に行かせていたんだ」

「へぇ」

 朱羅が納得したように言うと、お菊は朝ご飯を配り始めた。

「さ、皆冷めない内に食べてちょうだいな」

 お菊がにこやかに促すと村長が手を合わせ、いただきますと言った。それに連なるように他の面々も手を合わせ、食べ始める。

「朱羅、ご飯を食べ終わったら髪を結ってあげるわ」

「え?」

 朱羅は、突然のことに戸惑った。今まで、髪を結ってあげると言ってくれた者がいなかった為、どう反応すれば良いのか分からなかったのだ。それに気づいたのか、村長は朱羅の背中を押すように優しく告げる。

「結って貰え、朱羅。髪結いの奴は渋っておったからな」

「……うん……」

 朱羅は躊躇(ためら)いがちに頷くしかなかった。髪結いに渋られるほどの人間が楓に結って貰っていいのか、分からなかった。そもそも楓が結えるのかどうかも分からない。その状況でも他人の好意は受け取らないといけない。そう誰かが言っていたのを朱羅は思い出していた。

 しばらくして食事が終わると、楓が櫛や元結い用の紙縒を持って来た。楓は朱羅の後ろに座ると、彼の髪を櫛で解かし始める。朱羅の髪は解かれるたびに(つや)やかな輝きを放った。

「今まで朱羅の髪を結おうとする人がいなかったなんて不思議ね」

「うん」

「こんなに綺麗な髪なのに……」

 楓はそう言うと紙縒を持ち、解かし終わった髪を結い始めた。櫛を巧みに使い、髪をかき上げる。その髪を一ヶ所にまとめ、紙縒を巻き付ける。

「朱羅の髪は薄絹のように艶やかなのね」

「そうなの?」

「うん。前に父上に触らせて貰ったから分かるの」

「へぇ」

 朱羅は相槌を打ったが、薄絹がどんなものか想像つかなかった。だが、それが高価なものであることは知っていた。前に組頭が羨ましそうに話していたのだ。

「はい終わり。私が結うとこんなものかな」

「ありがとう」

 朱羅の髪は、後頭部の耳よりも少し高い位置で短く結われている。朱羅は楓に渡された手鏡で結われた髪を物珍しそうに見つめた。見ようとすればするほど見えない髪にもどかしさを覚えながら、朱羅は何度も結われた髪を見ようと挑戦する。そうやって朱羅が四苦八苦している間に、楓は櫛を化粧道具が入っている漆塗りの箱に戻した。朱羅は今も結われた髪を見ようと頑張っていたが、楓には結われた髪が気になって手鏡を眺めているようにしか見えなかった。

「手鏡も戻すからこっちにちょうだい」

「あ、うん」

 朱羅は慌てて手鏡を楓に手渡した。楓はそれを受け取り、櫛と同じ箱に戻す。これ以上は髪を見ようにも見られない。一体どうしたら良いのだろう。それでも髪を結われたのは無性に嬉しかった。

「どう? 気に入った?」

「うん! 髪を結うって九歳でも出来るんだね」

「この程度ならね。髪結いさんみたいには出来ないけど」

「へぇ、凄いや」

 朱羅は楓に結われたことがよほど嬉しかったのか、楽しそうな笑顔を浮かべる。その笑顔につられて楓も嬉しそうに微笑んだ。

 どうして髪結いは朱羅の髪を結うことを渋ったのか。それを楓たちが知るはずもない。

 その夜、囲炉裏を囲んでお菊が作った夕食を食べている時、朱羅はなぜか食が進まなかった。その様子に気がついた楓は、朱羅の赤い顔を見ると左手を朱羅の額に当てた。

「朱羅、熱があるじゃない」

「平気……」

「あら大変! 楓、朱羅の布団を敷いて来なさい。冷や水を用意するのも忘れないでね」

「うん」

 楓が朱羅の布団を敷きに行くと、お菊は朱羅の方を向き、目線を合わせた。

「そんなに我慢しなくても良いのよ? お父さんとお母さんが流行病で倒れて、この家に預けられていた頃とは違うのだから」

「でも……」

「遠慮は要らないのよ? もう家の子供なんだもの。甘えていいのよ?」

 そう言われても朱羅は、他にも自分と同じように家族を亡くした人たちがいると思うと、甘えてはいけない気がした。そうやって朱羅が暗い顔をしていると、お菊は朱羅の額を指で弾いた。弾かれた朱羅は額に手を当て、はっと驚いたようにお菊を見る。

「朱羅はまだ八歳なんだから、甘えなさい。遠慮を学ぶのはもう少し後でいいの。分かったら、布団に入りなさい」

「……はい……」

 朱羅は立ち上がると寝室に行き、布団に潜り込む。潜り込んで少しすると、楓が冷や水が入った(たらい)を持ってきて、それに浸した手拭いを朱羅の額に乗せた。朱羅は楓に礼を言うと、少し寝苦しそうにしていたが、眠気には勝てなかったのかやがて眠りに就いた。朱羅が眠ったのを確認すると、楓は居間に戻った。

「朱羅、どうして熱を出したのかしら」

 楓が不思議そうに呟くと、村長が楓の方を向き、言い聞かせるように静かに語った。

「朱羅は病気で伏せっているお婆さんの看病を一人でしていたのだろう? 熱ぐらい出てもおかしくない」

「でも父上、看病したくらいであんな高熱が出るの?」

「お前も言っていたじゃないか。不眠不休で看病していたって。そんなことをすれば体調を崩すのは当たり前だ。それに……あれで生きていたことが奇跡だ。おそらく、衰弱した体で病気に(かか)ったのだろう」

「そうね」

 楓は振り向き、不安げに寝室で眠っている朱羅を見つめた。頬を紅潮させて箸が進まなくなるまで気が付かなかった自分が悔しい。

 翌朝、楓は起きてからずっと朱羅の側を離れずに甲斐甲斐しく看病していた。

 朱羅は小さい頃から周りに気を遣う子供だった。おそらく、小さいながらも自分がこの村の生粋の住人ではないことが分かっていたのだろう。その為、自分が平気ではない状態でも周囲に迷惑を掛けないように、平気だと言っていたのだろうと楓は考えていた。



 去年の話だ。()()村では疫病が流行り始めていた。その頃は体力のない子供や年寄りが罹患(りかん)することが多かった。普通ならそういった者たちは家族の誰かに看病される。仕事を休もうが誰にも文句を言われない。しかし、一つだけ例外があったのだ。

「働かぬ奴はいらん。ここにいたければさっさと働け」

 厳しいことを言う壮年の男は組頭を任されている。その下で働く小作人は木の間村で二番目に多い。これは組頭の土地が広いからできることだ。そんな彼の所に周囲が頭をひねる小作人がいる。

「組頭さん、組頭さん。茄子持ってきました!」

 元気な声で茄子の入った(ざる)を差し出しているのは朱羅だ。紫の皮を艶やかに輝かせる丸々と太った実は、太陽の光を受けてその存在を際立たせる。いかにもおいしそうなそれを持った朱羅を、組頭は一瞥(いちべつ)すると「そこに置いておけ」と冷たく言った。朱羅は大人しく組頭が座っている縁側に笊を置く。まだ収穫しなければならない野菜がたんまりとある。日が沈む前に採りきらないと猿に食べられるかもしれないからだ。

「さっさと失せろ、汚らわしい」

 今まさに畑の方に歩き出そうとしていた朱羅にかけられた言葉は、その冷たい視線と共に朱羅の心に突き刺さる。何か悪いことでもしたのだろうか。怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。そんなことばかりが心に浮かんでは消える。

「すみません、今行きます!」

 それだけ言うのが精一杯だった。こういう時はすぐに立ち去るのが得策だとなんとなくわかっている。だから出来るだけ早く走って畑に逃げたのだ。

 畑に着くと褐色の肌に黒い髪の女がきゅうりを収穫していた。薄汚い小袖を身にまとっているが、収穫する手つきは手馴れたもので、すでに笊が溢れそうだ。そこから少し離れた所で紅い髪に淡い瑠璃色の瞳の男が雑草を刈っている。色の白い男は村では珍しい彫りの深い顔立ちをしていた。どこからどうみても異国から来たと分かるその男は、その長身を小さく丸めている。朱羅はその男の横を通り抜けて女に飛びついた。

「母さん」

「あら、どうしたの。また、何か言われたの?」

「……わかるの?」

「わかるわ。だって私の息子ですもの」

 女は朱羅の頭を優しく撫でた。今にも泣きそうな朱羅に小さく胸が痛むが、自分たちが組頭の小作人になった以上これは避けられないものだろう。そもそもよそから来た自分たちが木の間村にいるためには小作人になるよりほかなかった。例えその事実が分かっていても、罪のない朱羅があれこれ言われるのは胸が痛む。

 女が朱羅を撫でていると、グーと腹の虫が盛大に鳴いた。昨日の晩から何も食べていない。腹が減っても仕方がないだろう。しかし、朱羅はお腹が鳴ったのが恥ずかしかったのか俯いていた。

「朱羅、お腹すいちゃった?」

「ごめんなさい」

「謝るのは母さんの方よ。夜まで我慢してね」

「うん」

 お腹が減っている朱羅を我慢させるのは心苦しかった。これで何度目になるだろう。最低でも昼を抜かないと一年間食べていくことが出来ない自分たちが情けない。これも法外に年貢を取っていく組頭のせいだ。もっとも村長に訴え出れば済む話なのは分かっている。それでもそのせいで朱羅がどんな目に遭わせられるかと考えただけで出来なくなる。

「イザヨイ、きゅうり持って行ク?」

「大丈夫よ、リベルタ。私が持って行くわ。それに家のこともしないといけないから」

 十六夜は夫の申し出を丁重に断ると、朱羅をリベルタに預けて組頭の元に向かった。リベルタはその後姿を寂しそうに見ている朱羅に気付くと、頭をわしわしと撫でる。別に慰めるつもりはない。ただ寂しそうに見ているのがどうにも堪らなかっただけだ。そうやってリベルタに撫でられたおかげで髪が乱れていくのに慌てた朱羅だが、撫でられるのは気持ちが良いらしく口元には笑みが浮かんでいた。

「シュラ、草刈りスル!」

「父さんがやっていたんじゃないの?」

「結構腰にクル。テツダエ」

 リベルタは異国から来たせいか、未だに片言しかしゃべれなかった。そのせいで村人から怪訝な視線を向けられることも多い。もう十年ほど連れ添った十六夜は聞き慣れたのか大した反応も見せてくれないが、村人は今も気になるらしい。

「いいけど今日中に終わるかなぁ」

「夕方に終わらせル。ヤルシカナイ!」

「はぁい」

 朱羅は目の前に広がる光景にがっくりと肩を落とす。いくら何でも空腹を抱えたまま出来る量には見えなかった。どうして組頭さんは自分たちに意地悪をするのだろう。朱羅は心の中で呟いた。

 しかし、いつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。一(たん) (約九九二平方メートル) はあろうかという畑のうち、五() (約十七平方メートル) の雑草を刈らねばならないのだ。これだけで済むように父が頑張ったとすれば、もう嫌がる理由はない。朱羅は鎌を手に畑にずんずんと入って行く。一刻も休む暇なんてない。朱羅は草刈りにはじめて緊張を覚えた。



 日が傾いた頃、朱羅は畑に大の字になって寝ころんでいた。隅には雑草の成れの果てが積まれている。どうやらぎりぎり間に合ったようだ。

「あー、終わったぁ」

 ようやく草刈りから解放されたからか、朱羅は晴れ晴れとした顔をしている。隣を見るとリベルタも腰を下ろして、空を見上げていた。

「お疲れさま」

「父さんもね」

「ははっ、ソウダナ。シュラ、帰る」

「はーい」

 朱羅はぴょんっと跳ね起きるとリベルタに手を差し出した。リベルタは朱羅の行動に一瞬驚いたものの、目を細めながら立ち上がった。息子が人を気遣えるようになったと嬉しかったのだろう。それで一気に疲れが吹き飛んだのか、リベルタは力強い足取りで朱羅の手を引きながら家路に付いた。

 家に近づくと人影がしゃがみ込んでいるのが見えた。朱羅はそれが何なのか気になったのか、リベルタの手を振り切ってそこに向かう。

「何してるの?」

 朱羅は家の横に四つ並んだ盛り土の前にしゃがむ十六夜に声を掛けた。十六夜は摘んできたであろう小さな花を盛り土に並べ、祈るように手を合わせている。ここに何か埋まっているのだろうか。朱羅が疑問符を浮かべていると、十六夜が朱羅を抱き寄せ自分の目の前に座らせた。

「これはね、朱羅のお兄さんとお姉さんのお墓よ」

「兄ちゃんと姉ちゃん?」

「そうよ。あなたには二人ずつお兄さんとお姉さんがいたのよ。皆七つになる前に死んじゃったけどね」

 十六夜は寂しさと悲しさが混じった瞳で盛り土を見つめている。その瞳には大粒の涙が浮かんでいた。顔も知らない兄姉(きょうだい)だが、朱羅には母の悲しみが分かるような気がした。なぜかはわからない。それでも今の母を見ているのは辛かった。だから思わず十六夜の顔に手を伸ばし、その涙をぬぐったのだろう。その仕草に十六夜もはっと驚いていたが、次の瞬間には朱羅は十六夜の胸に包まれていた。顔をあげると十六夜は愛おしそうに朱羅を見つめている。リベルタとの間に生まれた中で唯一生き残った我が子ほど愛おしいものなどないのだろう。

「ありがとう、朱羅」

「どういたしまして」

 朱羅はふふっと嬉しそうに笑う。お礼を言われてどこかくすぐったいが、心が温かくなる。これが幸せというものなのかもしれない。ずっとこんな日が続けばいいな、と朱羅はひそかに思った。

 しかし、その願いは叶わなかった。その翌日に十六夜とリベルタが病に倒れたからだ。今までの無理が祟ったせいだろう。それでも仕事が減る訳でもなく、朱羅は一人で両親の看病と農作業の手伝いをせざるを得なかった。それだけにとどまらず、自主的に疫病で倒れた他の村人の看病もしようとした。おそらく、村人の役に立ちたかったのだろう。

 それを見かねた村長が両親に掛け合い、朱羅を預かることにしたのだ。朱羅は最初こそ村長に反発して何度も両親の看病に行こうとしていたが、自分も疫病に罹っていると知ると大人しくなった。このままだとろくに看病も出来ないと悟ったのだろう。おかげで楓たちは朱羅を力づくで止める必要もなくなった。



 病が治った朱羅は村長に連れられて、久しぶりに我が家に戻った。しかし、そこで待っていたのはやつれ果てた両親の姿だった。それを見た朱羅は瞳に涙を浮かべ、口元を歪めると迷わず両親のもとに駆け寄って胸に飛び込む。寂しさをむき出しにした朱羅を十六夜は優しく撫でた。

「よく頑張ったね。お帰り、朱羅」

 十六夜がそう言いおわると、朱羅の頭を撫でていた手がゆっくりと落ちる。永遠の眠りに就いたのだ。まだそれが分からない朱羅が必死に起こそうとしているのを、村長は無理やり引きはがす。

「やぁっ! 離して、離してってばぁ」

「帰るぞ」

 暴れる朱羅に冷たく言うなり、そそくさと自宅に連れ帰った。これから彼らを埋葬しなければならない。朱羅には辛いことをすると分かっていても、やらない訳にはいかなかった。これが村の決まりだからだ。

 翌日に()り行われた葬儀では、朱羅は泣くことを我慢して一切涙を流さなかった。拳を握りしめて耐えるその姿に、楓は胸が痛んだ。泣けば周りの大人からどう見られるのか、朱羅は分かっていたのだろう。とはいえ、その頃の楓と朱羅は人が亡くなるということが理解できなかった。ただ、眠っている(・・・・・)人が地面に埋められる。意味の分からないことが目の前で起きている。それだけが分かるだけだった。だから、朱羅の両親を埋葬した夜、墓を掘り起こそうとしたのだろう。地面に埋められた両親を助け出そうとしていたのだ。それを見つけた村長がすんでのところで朱羅を引き留めた。墓荒らしは罰当たりとなる。それだけはさせられない。



 寝室で朱羅は規則正しい寝息を立てている。顔はまだ赤いが、いくぶんましになったようだ。

「子供は迷惑を掛けるものだって母上も言っていたわ。だから生きて」

 楓は朱羅の頭を撫でながら、静かに呟いた。こうでも言わないと、いつか消えてしまうような気がする。そうなると今よりも寂しくなる。せめてそれだけはやめてほしい。楓はふつふつと湧き上がる想いに目頭が熱くなった。

 その時、玄関の方から少年の穏やかな声が聞こえた。

「ただいま戻りました」

 その声を聞いた瞬間、楓は声の主の方に振り向き、明るい笑顔を見せた。

兄様(あにさま)! お帰りなさい。用事は済んだの?」

「あぁ。父上の代理も中々骨が折れるよ。ところで朱羅は戻って来たのか?」

「えぇ。でも知らないお婆さんの看病を三日もしていたから、熱を出しているの」

「三日も!? それで良く持ったな……」

 楓の兄、一太は居間に荷物を放り投げて寝室にやって来ると、朱羅の側に座り彼の額に手を当てた。

「あっつ!? おいおい、まさか高熱が出ても我慢していたって言わないよな……?」

「平気だって言っていたわ」

「たくっ、少しくらい自分の体を大切にしろよ。しっかり療養して風邪を治せよ」

 一太は呆れたように朱羅に言葉を投げかけた。おそらく朱羅には自分の体を大切にするという考え自体が存在していないのだろう。だからこそいくら熱が出ようが我慢しようとするんじゃないか。一太はそう考えていた。だとしてもこのまま何もしない訳にはいかない。一太は朱羅の側を離れると、(かまど)の側に掛けられている風邪に良く効くという薬草と薬研(くすりとぎ)、お(かゆ)が入った椀を取り、寝室に持って来た。いつの間にかお菊がお粥を用意してくれていたらしい。

「それをどうするの?」

「砕いて薬にするんだよ。楓、水を持って来い」

「うん」

 一太は薬草を薬研で砕きながら、朱羅の方を向いた。目をほっそり開けたり閉めたりして、寝ているふりをしようかと迷っているように見える。ここで寝られても困るのだが。そう思った一太は朱羅に声をかけた。

「起きてるんだろ、朱羅。粥を食べた後これでも飲んどけ」

「あ、うん」

 朱羅は観念したのか目をパッチリ開いて一太を見る。顔が少し傾いただけなのに、額の手拭いがずれて目にかかった。それを取りながら朱羅は体を起こす。それを見計らって一太に差し出されたお粥を受け取り、食べられるだけ食べると薬を飲み横になった。

「全く手の掛かる餓鬼だぜ」

 一太は朱羅の頭を優しく撫でながら呟いた。出来るだけ早く朱羅に自分の体を大事にするように教えなければならない。そうでないとまた同じことを繰り返すだろう。それだと朱羅の為にならない。一太は弟を守ろうと決めた兄のように決意を固めながら、朱羅を見つめていた。

 朱羅の熱は楓たちの看病のおかげか、三日間高熱が続いた後ゆっくりと下がって行った。

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