第1話 居候
居候事始め
情報を手に入れる手段が町に農作物を売りに行くか、村に来る行商人から話を聞くしかないような、町から遠く離れた大きな農村。その村で一人の少年が逃げていた。少年は夕陽に照らされ、色鮮やかになった肩を流れ下る長い真紅の髪を揺らしながら、畦道を村の男たちから必死に逃げている。
少年が追われるのは無理もない。畑から大切な瓜をここ何日か、くすねていたのだ。この農村では瓜の一つや二つくすねられた所で、被害が大きくなるなどということはなかったが、この時ばかりは違った。くすねたのが他の子供なら見逃されただろうが、この少年が見逃されるわけがなかった。
「待ちやがれ、朱羅!」
「今日という今日は逃がさねぇぞ!」
逃げている少年は農民にしては珍しい、朱羅という名前だった。朱羅は村では珍しい褐色の肌に、夜になったばかりの澄んだ空のような色の瞳を持つ少年だ。おまけに他の村人と大きく異なり、髪を結っていない。普通なら結っていてもおかしくない年齢なのだが、誰も朱羅の髪を結おうとしなかったのだ。もちろん、本人も結おうとすれば結えるだろうが、そのやり方を知らなかった。彼の両親はこの農村では珍しく貧しい小作人で、朱羅の紙縒一つ満足に用意できなかったのだ。
男たちが朱羅に追い着いた時、もう走れなくなったのか朱羅が転けた。それを見逃さず、村人の一人が朱羅を捕まえる。壮年の男は小さな朱羅の体を地面に押し付け、逃げることが出来ないようにした。朱羅はそんな状況でも必死に逃げようともがく。当然だ。このままだと、彼らに何をされるか分かったものではない。
「瓜を何処にやった! オレたちの大切な瓜なんだぞ!」
「今日こそ懲らしめてやる!」
頭に血が上った男たちは口々にまくしたてる。それだけでは飽きたらないのか、彼らは一斉に朱羅を蹴ろうと足をあげる。男たちはふらふらになりながら走っていた朱羅に、手加減する気はこれっぽっちもなかった。そもそも朱羅の状況なんて気にするつもりもない。今まさに蹴られようとしたその瞬間、可愛らしい少女の怒った声が聞こえた。
「待ちなさいよ! 朱羅の性格ぐらいよく知っているでしょう?」
男たちが声の聞こえた方を見ると、朱羅と同い年くらいの少女が仁王立ちしていた。彼女の言葉の意味はその場にいた男たちにもよく分かっていた。それにもかかわらず村人の一人が反論する。
「しかし楓様、朱羅がくすねた瓜は皆で大切に育てたものなんですよ? それをくすねた朱羅を見逃す訳にはいきません」
楓様と呼ばれた少女は、正義感に溢れた優しい村長の娘だった。その彼女が、大の大人がやっていることを見過ごすはずがない。彼女はその勝気な茶色の瞳で男たちを睨むと、間髪入れずに彼らに言い渡した。
「私が何の為に来たと思う? この一週間の朱羅の様子をおじさんたちに教える為よ」
そう、楓はこの一週間朱羅を見守っていたのだ。見守っていたと言っても実際は両親を亡くし、彼らと過ごした家恋しさに村長の家を出て行ってしまった朱羅を、様子を見て連れ戻すのが目的だった。その過程で朱羅の優しさが溢れる出来事を目撃していたのだ。
楓は一呼吸置くと、この一週間の出来事を思い出した。その中から彼らが思わず朱羅を手放したくなるようなことを選ばなければいけない。このことは母お菊から教わっていた。楓はその時の様子を思い浮かべながら、彼らに朱羅の今の状況を教えた。
「朱羅は畑からくすねた瓜を病気で寝込んでいる、家族でもないお婆さんに食べさせていたのよ。この三日間、朱羅は何も口にしていないのよ」
「そんな……」
楓の情報は男たちに衝撃をもたらした。そのおかげか彼らの朱羅に対する熱が一気に冷めた。彼らは唖然として朱羅を見ていた。自らを衰弱に追い込むような真似をしてでも、瓜をくすねる度胸に驚いたのだ。彼らに一斉に驚嘆の視線を浴びせられた朱羅は急に恥ずかしくなり、何処に顔を向ければいいのか分からなくなった。
朱羅にしてみれば、楓に見られていたというだけでも恥ずかしかった。なにもこうなる為にあんなことをしたわけじゃない。自分の気の向くまま、あのお婆さんを看病しただけだ。それがどういう訳か、楓に見られていた上に男たちの注目を集めている。この状況は朱羅にとって、自分の鈍感さを見せつけられているようなものだった。
朱羅は顔を伏せているしかなかった。耳まで真っ赤になった顔を誰にも見られたくなかったのだ。しかし、朱羅のその小さな抵抗は楓には通用しない。楓は朱羅や男たちの様子に構うことなく、彼らを押しのけて朱羅を助け起こした。俯いて楓の方を見ない朱羅に、彼が戸惑っているのを見て取ると、楓は優しく声を掛けた。
「朱羅、大丈夫?」
「うん。もう平気」
朱羅は小袖に着いた砂を手で払いながら立ち上がる。その途端、立ちくらみがしたが朱羅は気にしなかった。この程度のことは、何日か食べ物を口にしていなければ、起きるものだと考えていたからだ。朱羅は自分の身が危ういことにぼんやりとしか気づいていなかった。
それでも楓に助けられたという事実は朱羅の中では大きい。まともに走ることが出来ない状態だったとはいえ、朱羅は男の子だ。自分で何とかできるはずと思ってあがいたのに、それが叶わず誰かの手により救われた。それが余計に自分の無力さを明るみにさらす。
楓は彼が落ち着いてきたのを見計らうと、父から聞いた話を持ち出した。
「朱羅。この村ではね、親のいない子供を村長が引き取る慣習があるの。不満かもしれないけど、一緒に来てくれる?」
「父さんや母さんの家に行ってもいい?」
「もちろんよ」
楓の言葉に朱羅は瞳を輝かせた。両親と過ごした家に行けるということが、朱羅にとって何よりも嬉しいのだ。そこがたとえ古びた狭い小屋のような家だとしても、彼の実家には変わりない。そこにたどり着く前に、村で二番目の権力を持つ組頭に捕まってでも、行きたいところなのだ。
「私の家に来る?」
「うん!」
朱羅が元気よく頷くと、楓は彼の手を引いて歩き出した。それが朱羅の体力を削ぎ落とすなど彼女が知る由もなかった。今にも倒れそうになる身体を朱羅が必死で起こしていることに気づくこともないだろう。そんな二人が連れ立って村長の家に帰るのを、村人たちは見送るしかなかった。
楓と朱羅が連れ立って村長の家に帰っていると、田んぼや畑で作業していた村人たちは安堵したように二人を見つめていた。村人たちはこれで畑で育てた大事な作物が、朱羅にくすねられることも無くなると思ったのだ。そんな風に自分が見られているとは露知らず、朱羅はふらふらとしながらもご機嫌で楓と歩いていく。
「帰ったらすぐご飯よ。それまでもう少し辛抱するのよ」
「うん。村長のお家に帰るの何日ぶりだろう?」
「一週間ぶりぐらいじゃない?」
「もうそれぐらいになるの?」
朱羅は小さな指を折りながら数えた。その様子に楓は思わず微笑みを浮かべる。夕陽に照らされた二人は、紅色に染まった畑や田んぼを抜け、他の家よりも少し高い位置に建てられた村長の家に辿り着いた。
「父上、ただいま戻りました」
「……た、ただいま……」
朱羅は気まずいのか、楓の後ろから顔だけ覗かせて呟く。知らず知らずのうちに眉が不安げに下がっていた。腰だって引けている。
「お帰り」
家主の村長は玄関まで出て来て、二人の頭を撫でながら微笑んだ。朱羅は不思議そうに村長を見上げる。てっきり村長から怒鳴られると思っていた。勝手に家を飛び出したのだ。怒られても仕方がない。それなのに、なぜ村長は怒らないのだろう。朱羅はその疑問を村長にぶつけた。
「怒らないの?」
「怒らないさ。朱羅はあの家が恋しかったのだろう?」
朱羅はゆっくりと頷く。村長の前だとなぜか安心した。それはおそらく、村長が朱羅を一人の人間として扱ってくれるからだろう。この村で朱羅をまともに扱ってくれるのは、村長一家と一部の村人ぐらいだった。主人だった組頭ですら、朱羅を奴隷のようにしか扱ってくれなかった。それも無理もないのかもしれない。よそ者嫌いの組頭が自らの小作人として、朱羅の両親を雇っていたのだ。彼がよそ者の彼らを雇ったのは、彼らをいたぶる為だったとは朱羅が知るはずもない。そんな彼が朱羅をまともに扱うはずがないのだ。
村長は家の中からいい匂いがするのに気がつくと、二人に家の中に入るよう、促した。朱羅と楓が家に上がったのを確認すると、村長は囲炉裏の横座に座る。そこは村長だけが座ることが出来る席だった。
村長が座るのと同時に、お菊は鍋座に膝立ちになる。囲炉裏に掛けた鍋から畑で採れた野菜をふんだんに使った料理を椀に装う為だ。お菊は料理を装った椀を村長、楓、朱羅の順に渡すと、自分の分を装った。
「いただきます」
村長が手を合わせ食べ始めると、楓たちも食べ始める。ほかほかと湯気を立ち上らせる汁物に雑穀のご飯、彩りを添えるかのように置かれた漬物。いつもの夕飯と何ら変わらない。それでも朱羅から見れば久しぶりに見たご馳走だった。
「朱羅、お腹に負担をかけないように少しずつ食べなさい」
お菊がそう言うと、朱羅は理解したのかゆっくりと少しずつ食べ始める。久し振りの食事は、朱羅の身体に染み渡るようだった。もし、このまま何も食べずにいたら死んでいたかもしれない。それを救ってくれた食事なのだ。朱羅はお菊の料理に極楽のような味を感じた。
「……おばさんの料理、美味しい」
朱羅が呟くと、お菊は嬉しそうに微笑んだ。誰でも自分の料理をほめられると嬉しいものだ。
「そりゃそうよ。母上の料理は誰よりも美味しいんだもの」
「そうだな」
楓が得意げに言うと村長も同意する。お菊は何がおかしかったのか、くすくすと小さく笑った。そんな中、村長は朱羅に目線を合わせると口を開いた。
「朱羅、今日からお前は家の子供だ。遠慮はいらん」
朱羅は村長を真っ直ぐ見つめる。それが正式に村長の家に引き取られ、朱羅が家族に加わった瞬間だったとは、この時の朱羅には分からなかった。そのせいで、朱羅は肯定とも否定ともつかぬ反応を取らざるを得なかった。いきなり家の子供だと言われても、困るのは当然のことだったのかもしれない。そう思い至った村長はもう一言付け加えることにした。
「ふむ、いきなりは難しかろう。村の慣習とは言え、まだうちには慣れていないだろうし、少しずつでいいからわがままを言いなさい」
「えっ、そんなわがままなんて──」
慌てて朱羅は頭を振る。相手は村長。とてもわがままなど言える相手ではない。楓に実家に行っても良いか、と聞いた時でさえ、烏滸がましいことをしていると感じていた。それでも言えたのは彼女が幼馴染みで気心が知れていたから。他の村人と違って敬称をつけて呼ばないのと同じように言えてしまっただけ。村長にはそうもいかない。
そんな朱羅の反応に村長はなかなかに難しそうだ、と心の中で独りごちていた。やはり、本当の親子のような関係を築くしかないか。そう思い至った彼は
「焦らなくていい。ゆっくりで構わないさ」
と朗らかな笑みを浮かべる。
食事が終わった頃に日も暮れたので、そうそうに行水を済ませ、楓と朱羅は同じ部屋で眠りに就いた。