序章
人里離れた鬱蒼とした森の中にひっそりと佇む屋敷は、周囲の環境とは打って変わり、妖怪たちの賑やかな声で満ちていた。誰かがいたずらでもしたのか、怒声が屋敷に響き渡る。それを合図に廊下を駆け抜ける妖怪たち。まるでお祭り騒ぎのような喧騒はこの屋敷では日常茶飯事だった。その広々とした屋敷で朱乱は課題をこなす手を留め、自室の壁に寄りかかり寛いでいる。少年はふと自分の部屋を見渡して、思わず笑みを零した。
少年の部屋は、屋敷に住まう他の妖怪たちに比べ質素だった。部屋は畳敷きの和室なのだが、置かれているものが他の者よりも少ない。まず、教材として渡された書類や本が、机や本棚に整えられている。部屋の隅には和服が入った衣装箪笥が置かれ、そのすぐ側には裁縫道具が置かれていた。窓際には箱に仲良く入っている彼の手作りのぬいぐるみと机があるだけ。彼が寄りかかっている壁も布団や洗面道具が入った押し入れだ。
朱乱はふと思い立ったように押入れから離れ、机が置いてある障子窓のすぐ下あたりに置かれた箱に近づいた。その箱の中には、彼が大切な人たちを模して作ったぬいぐるみがある。その中から黒髪の少女を手に取ると、朱乱は押入れまで戻り、襖に再び背を預けた。寄りかかったせいかギッという音が小さく鳴る。
「楓、あれからどうしてるかな……。幸せだったらいいな」
朱乱は柔らかな光を瑠璃色の瞳に浮かべ、彼女を見つめると静かな部屋で呟いた。彼女は穏やかな笑みを浮かべ、そのつぶらな茶色の瞳を朱乱に向けている。その瞳に彼女との日々を思い出す。最後に会ったのはいつだったか。昨日のようでもあり、遠い昔のようでもある。その不思議な感覚に朱乱は思わず苦笑を零した。
窓から差し込む柔らかな白い光が、朱乱の腰まである下げ髪に結った真紅の髪を優しく照らす。その光が少年の白銀の小さな剣の首飾りに当たった瞬間、剣は何かに呼応するように輝いた。
人々がよく働くどこにでもあるようなとある大きな農村で、複数の男たちが畑仕事の合間に土手から川辺を眺めていた。この村は背後に山をいくつか抱え、そこから流れる栄養豊かな川の水を使って畑や田んぼに水を引き入れている。おかげでこの村は飢饉でも起きない限り、いつも作物が豊富に穫れた。
「今日も燃えているな」
一人の壮年の男が草木が生えた土手に座り、隣に立っている男に向かって呟いた。彼はよく日に焼けた浅黒い肌にごつごつとした手をしている。おまけに傍目からも力持ちと伺わせる筋骨たくましい体つきだ。
男の視線の先には、おおよそ平和な世では見かけないものがあった。それはまるで人が倒れたような形をしている。その背に当たる部分には、折れて燃え残った矢のようなものがあった。それだけではない。その黒いものは燃え盛る炎の中にいるのだ。不思議なことにそれは燃えているにも関わらず、燃える音どころか匂いすら一切しなかった。
「あぁ。相変わらず、燃えているのに匂いもしねぇ。おめぇは気味が悪くねぇのか?」
立っている男はさも気味が悪いとでも言うように顔をしかめた。問われた男は一瞬きょとんとしたが、そんなことはねェよと朗らかな笑みを浮かべる。燃えている理由を知っている彼にしてみれば、それは昔の友との思い出を甦らせるものだった。大切な約束もある。気味悪がる理由はどこにもなかった。
「おめぇは相変わらずだな、草太」
草太と呼ばれた男は立っている男を見上げた。男は表情一つ変えず、溜め息を吐いている。草太が気味悪がらないことに呆れているようだった。
その時、二人の後ろから旅の男が現れた。二人は突然現れた男に驚く訳でもなく、面倒臭そうに男に挨拶をする。彼らは旅の男のように、突然やって来る者に慣れていた。それほど有名な「もの」がこの村にはあるのだ。
旅の男はにこやかに彼らに挨拶を返すと、物珍しげに川辺を眺める。彼もまた、川辺で燃える黒いものが目当てで来たのだ。彼は黒いものを指差しながら、草太に尋ねる。
「あぁ、ここですか。この村には不思議な噂があると聞いて来たんですよ。あれが噂の亡骸様ですか?」
旅の男が言ったように、その村の側に流れる比較的大きな川の川辺には、ある不思議な噂があった。その噂とは、「亡骸様」と村人に呼ばれ、畏れられているものに関するこんな噂だった。
『昔、娘庇いて男子川辺にて落命す。その亡骸に怪しき鳥舞い降りて、突然燃えだしけり。その亡骸を燃やす火は消えることなく、燃え続けり。また、何人たりともそれに近づくことも出来ぬ』
この噂は遡ること、約二十年ほど昔にこの村で起きたある少年と少女の逃亡劇に由来するのだが、その真相は固く閉ざされていた。
何故なら、この村にとって汚点とも言える出来事だったからだ。たった一つのことをする為に、町に出稼ぎに出ていた村人が町で得たある噂を実行し、村で起こしたある事件。これが一人の少年と一人の少女の運命を狂わし、このような不思議な噂を生んだのだ。
「あぁ、あれが亡骸様だよ。俺としちゃ、木間神社のお堂に安置してやりたいんだがな」
草太は旅の男を見ずに答えた。その静かな声音に何かを感じたのだろう。旅の男は何も言わずに立っている男の隣に座った。そのまま彼は亡骸様をじっくり眺める。まるで神聖な火のように消えることのない亡骸様を包む炎。それがある限り、亡骸様をこの村のもう一つの名物、木間神社のお堂に安置することなど出来ないだろう。草太はそんな男を一目見ると、昔を懐かしむように遠くを眺めた。彼は亡骸様を見ながら懐かしい友との日々を思い出していた。
物語は彼らが眺める亡骸様の話が生まれるよりも十年ほど昔から始まる。