第31話 逆鱗
ビュンッ!
広大な美しい川と豊かな森林に挟まれた自然みの溢れる景色が広がるだだ広い街道に今、一陣の風が吹き抜けて行った。その場にいた者たちに吹いた突風は、一方には生の終わりを告げる死の風として、もう一方には死の淵からの救済を告げる神風として、その風に吹かれた双方の体毛を静かにそよがせる。
「グロ…」
『リザードキング』
Bランクモンスター、相貌は翼の生えていない四足歩行のドラゴンを思わせる。体高は3メートル強、全長においては尻尾も入れると8メートルはゆうに超え、体重は若い個体でも10tを軽く上回る。実際にAランクモンスターのドラゴンはリザードキングが更にその体格を成長させて翼を生やした二足歩行のモンスターだ。
災技は『火炎』を使用し、耐性は火属性に強く土属性に弱い。性格は極めて獰猛で知能も高い。一般人は出会ってしまったら命を落とす可能性が非常に高いモンスターだ。冒険士協会ではCランク以上の冒険士が複数で対処する事を義務づけられている。余程の事がない限りその決まりに例外はなく。それを破った者は冒険士の資格剥奪、もしくは会長より無期限の資格停止処分を命ぜられる。
「グロロ…」
そんな絶対的な強者であるリザードキングが、突然、疾風と共に現れた一人の人型を警戒してその歩みを止めていた。
「………」
リザードキングは思っていた。この人型の雄は先ほどから遊び半分にあしらっていた二匹の人型とは違い自身を脅かす危険な存在だと。そんなふうにリザードキングが警戒心を高めている中、目の前にいる魔物を他所に天はかつてないほどの憤りを感じていた。
「………ラム?」
きっかけは少女が気を失った事からだった。
「…………」
彼が抱き抱えていた少女の顔は半分がひしゃげており、あどけなく可愛いらしかった彼女の笑顔は見る影も無くなっていた。片目と頭から血を流しているその様は、まるで血化粧を顔全体に施したような見るも無残な有様だ。
「……ラ…ム」
少し離れた場所で倒れている若者はそれより更に酷い状態で両足はあらん方向に折れ曲がり、折れた骨は肉を突き破って、履いていた着衣すら貫通している。肋骨や腕などの身体全体の骨を入れれば骨折箇所は10などでは効かないだろ。恐らくは内臓も数箇所の損傷が予想でき、全身を血だるまにしてピクリとも動かない。二人のそんな有様を目の当たりにして、それに加え少女が意識を完全に失ってしまった結果、彼は自分の中で何かがプツンと切れる音を聞いた。虚ろな表情で誰に聞くでもなく独り言を呟くように、心に思った言葉をそのまま口にする。
「………誰がやったんだ…」
普段の彼なら野生での戦闘は弱肉強食が絶対のルールだと心得ていたため、この感情が逆恨みと自制していたかもしれない。だが、そんな事を考える思考すらも今の彼には消え失せていた。生まれて初めて出来た、対等の付き合いをしてくれた男友達が、生まれて初めて自分のために涙を流してくれた少女が、今まさに殺されかけたという事実を受け止めた彼は、完全に理性を失ってしまったのだ。
「…………」
通常時はほとんど開いていない目をめいいっぱい見開いて、感情を無くした人形のような顔で辺りを見回している。そしてすぐ近くにいたリザードキングを視界に捉えた瞬間、彼の瞳から完全に光が失われて、漆黒の闇のように深く冷たく沈んでいった。
「…お前か…」
ズーーーン
リザードキングに向けて放たれた彼の全開の殺気と闘気が、辺り一面の風景を歪め、道端に生えていた草木は先ほどの突風が収まったにも関わらず、まるで何かに怯えているかのようにその身を震わせていた。
その頃、他の冒険士の四人は…
「うげぇ〜〜〜……はぁはぁ」
天のもとに向かおうと、動力車から外に降りた途端、彼の全開の殺気と闘気を受けたリナは、その場で嘔吐してしまった。絶対に逆らってはならない。敵に回してはならない。そんな言葉が頭に浮かんでくるほどに、彼のプレッシャーは凄まじいものだった。
「……見つけたの」
危機察知能力が高く、感受性が強い彼女の目には、今の彼は山のように巨大な、天を衝く巨人に見えていたのかもしれない。そんな天を見て、感じて、彼女はいつの間にか、自身のもう一つの顔を表に出していた。彼女は吐物を全て吐き終えて、自分の口を拭う。その口元は薄ら寒い笑みを浮かべており、瞳には危険な光を灯していた。そして何処か意味ありげな言葉を呟く。
「やっぱりあの人しかいないの」
タッタッタッタ!
辺りの空気が天のプレッシャーを受けて息苦しく張り詰める中、一人の女性がリナを尻目に猛然と死にかけの若者のもとに向かって走っていた。
「…アクさん」
使命感を帯びたような様子で、自分の横を駆け抜けて行った彼女の後ろ姿を眺めて。ハッとしたように自身の頬を両手でパンパンと叩き。リナもアクリアの後を追った。
タッタッタッタッタ…
「お願い…間に合って…」
この場を支配しているプレッシャーに少し顔を曇らせはしたが、それでもアクリアはその歩みを止めなかった。観察力と状況判断力に長けていた彼女は、この状況で自分がやらなくてはならない役割を心得ていたからだ。虫の息で彼処に倒れている若者に今、一番必要なのは自分だ。彼が、あそこまで取り乱すほど大切に思っている男性を救えるのは、今この場で唯一レベルフォーの回復魔技を扱える自分だけなのだと。
「なんなんだよあの人は…」
Bランクの冒険士であり、なおかつ幾つもの修羅場を経験している熟練の冒険士のはずのカイトが、全身を支配する恐怖心で動けなくなっていた。この場からいなくなりたい。この動力車を使ってすぐにここから離れたい。男性の気持ちは既に折れかかっていた。そんな彼に…
「……無理ならここにいなさい」
男性の側にいた女性が静かにそう呟く。責めるでもなく慰めるでもない感情のあまり入っていない声音でその言葉を口にすると、彼女はアクリア、リナと共に、その場を後にする。
「……くそ!」
カイトは悔しさで顔を歪めていた。愛しい女性に『貴方には何も期待していないわ』と言われたと思ったからだ。しかし彼女が男性に向けて言いたかった事は多分『決めるのは貴方よ』と伝えたかったのだろう。
「……負けてたまるか…」
だが結果的にカイトは、自身の思い込みと勘違いから、男としての意地とプライドを刺激され、その身を支配していた恐怖心を打ち払うことに成功する。
「負けてたまるかよ!」
他の冒険士がそれぞれの思いを胸に秘めて殺気が渦巻く戦場に向った最中、リザードキングはその警戒心を最大級に高めていた。
「グロロ…」
この人型は危険過ぎる。これ以上近づいたら駄目だ。もう遊びは終わりにして自分の最大の武器である『火炎』を使い、俺様の目に泥をぶつけたあのこ生意気な人型の雌と一緒に焼き払ってくれる。リザードキングはそんな事を考えていた。しかしその考えは愚考だった。危険だと感じた時にこの魔物は逃げるべきだったのだ。まだ進化して数日しか経っていなかった若い個体は調子に乗っていた。自分は圧倒的な力を手に入れたのだと。そのため危機意識が低下し、目の前にいる男が、自分など足元にも及ばない絶対的な捕食者だと気づく事ができなかったのだ。
「………お前がやったのか…」
いや、仮に逃げたとしてもこの魔物の運命はもう決まっていた。彼の逆鱗に触れたこの魔物が助かる確率など、恐らく万に一つもあり得ない。奇しくもドラゴン種であるリザードキングの方が、人間である天の逆鱗に触れたのだ。
「……………」
彼は怒りで理性はほとんど失われていても、抱き抱えている少女への対応だけは慈愛に満ちていた。まるで触れたらすぐに壊れてしまう儚いもの扱うように、そっと慎重かつ繊細に自身の足元に少女を寝かせると、彼女を庇う様に前に立ってリザードキングに対峙する。その直後に…
「グハッ!」
リザードキングがその竜の顎を大きく開き、喉奥が焰色に輝いた瞬間、リザードキングの災技である『火炎』が放たれた。
ボォッ!
モンスターが使用する災技の一番の特徴は人型が使う魔技と違い生成時間がほとんどかからない事だ。勿論、連続で何発も打てるわけではないが、初弾に限り好きなタイミングで放つ事が可能となっている。無造作に放たれた業火が彼に降りそそいだまさにその時だった。
《闘技・螺旋流星突き》
言霊にも似たその台詞は、離れていた四人の冒険士達に、目の前にいたリザードキングに、頭の中に直接響き渡るほど鮮明に聞き取れたのである。彼が口にしたであろう言葉が魔物と冒険士達の頭に浮かんだ刹那、この戦場に眩い閃光が走る。
シュバンッ!!
練気を纏った貫手から繰り出される高速の突きが、瞬きするほどのごくわずかな時の間に、実に十数発。渦を巻きながら光の進軍となって、放たれた業火とリザードキングを飲み込んだ。天の特異体質のせいか、それとも彼の繰り出した技の威力が余りにも凄まじかったせいか、彼に迫りくる火炎を一瞬で吹き飛ばして、そのままリザードキングの頭部を跡形も無く消し飛ばした。魔物は、首元から上が大きな何かでくり抜かれたように無くなってしまっている。その悲惨な姿に変わり果てたリザードキングだったはずの、首無しのモンスターに向って彼は言い放った。
「…リザードキング討伐完了」
…ドスン!
意識してか無意識でか、天は自身の口から戦いの終焉を告げる。彼が発した言葉と共に、胴体から上が無くなったリザードキングの体が、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。彼がリザードキングを目視で確認してからおよそ40秒、対峙してから15秒ほどの短い時間で勝負は決した。




