第10話 疵
眼前に広がるのは、漆黒が支配する闇の世界。
「ヒック……ヒック……」
真っ暗な暗闇の中で、ひとりの幼い少女が泣いていた。
少女がなぜ泣いているのか。どうしてこの暗闇の中でその少女の姿だけがはっきり目に映ったのか……俺には分からなかった。
ただ一つ言えることは、俺はその幼い少女のすすり泣く姿を見て、今にも胸が張り裂けてしまいそうなほど辛く切ない気持ちになった。
「ヒッ……ク……ヒッ……ク……」
つぶらな瞳から流れる大粒の涙。
白いワンピースが少女の涙で濡れる度、まるで心臓をナイフで抉られたような痛みが、胸の奥に走る。
少女に歩み寄ろうとしたが、足がまったく動かない。少女に話しかけようとしたが、まるで声が出ない。俺に唯一できたのは、目の前で泣き続ける小さな女の子を、ただただ黙って見守ることだけだった。
「……あっ……」
しばらくして、少女の方も俺の存在に気づいた。
少女は俺を見るなり駆け寄って来た。そして涙で顔をくしゃくしゃにしながら、俺に縋りついてくる。その時、俺はようやくその少女が誰かわかった。
嗚咽を漏らし、黒い猫耳を震わせて、獣人の少女は涙ながらに俺に懇願する。
「いかないで……ください……天さん……」
バッ! と跳ね上がるように身を起こした。
と同時に、ハァ、ハァと荒い息づかいが耳に飛び込んでくる。やけに癇に障る耳触りな音だと思ったら、どうやら発信元は自分だったらしい。
俺は額に滲んだ気持ちの悪い汗を拭いながら、一度大きく息を吸って、ゆっくり吐きだす。そして胸に手を当てて動悸が治るのを待ち、呼吸を整えてから、静かに目を閉じて自分に語りかける。
ーーお前は誰だ?
……花村天。
ーーお前は今何処にいる?
……今はもう使われていない、廃墟となった僧院跡。
ーーお前は何故そこにいる?
「………………これまで自分が培ってきた力を存分に発揮するためだよ、クソッタレ」
力なく吐き捨て、俺は枕元に置いてあったシワだらけのTシャツに袖を通す。
完全にベットから出るのはまだ少し億劫だった。俺はベッドから上半身だけ起き上がったまま、足を地面につけて腰を据える。
「……ガキの頃から親父に叩き込まれてきたパニック時の精神安定術を、まさかこんなところで使うなんてな」
苦笑するしかなかった。我ながら情けない、と。
あの日の出来事ーーあの夜のラムとのやり取りは、今もなお俺の脳裏に鮮明に焼きついている。
『ヒック……あたし、もっともっとしっかりしますから……だから……』
ーーそれは記憶というよりも疵に近かった。
まるで今しがたできたばかりの生傷のように、ラムの泣き顔を思い出す度、言葉では言い表せないほどの激痛が俺の胸を穿つ。
「あれからもう一週間か……」
感傷的な気分で蜘蛛の巣だらけの天井を仰いだ、その時だったーー。
「グガゥ……グガガ……!」
荒々しい唸り声とともに、辛うじて原型を留めていた木の扉に亀裂が走る。次の瞬間、バキバキバキ! と不吉な音を立てて、大きく鋭い鉤爪が扉の中央を突き破った。
「ーーこいつは、まだ戦ったことのないヤツだな」
コキコキと首を左右に鳴らし、俺はカビ臭い黒ずんだベッドから立ち上がる。
……気配の大きさからいって、『Cの下』ってとこか……
軽く腰をひねり、体をほぐしながら、微睡みの残る意識を一気に覚醒させる。驚きも動揺もなかった。ここはもともとそういう場所だ。
俺は今着たばかりのシャツを脱いで、ベッドの上に放り投げる。
そうこうしているうちに、腐りかけていた木造りのドアはあっという間に崩壊し、異形なる訪問者がその姿を露わにした。
「グゥウガガ、グガァアアッ」
琥珀色の蛇の目がギョロリと動く。
ヨダレを撒き散らしながら部屋に入って来たのは、体長三メートルはあろうトカゲ型のモンスター。
「ふむ。見た目は『リザードマン』に似ているが、あきらかにサイズが違う。察するにアレのワンランク上の種族ーー『ハイリザードマン』とかいう奴かもしれんな」
「グガッ、グガガガッ!」
「それにしても間の悪い奴だ。もはや気の毒としか言いようがない」
「グゥガガガァアアアアーー‼︎‼︎」
「今日の俺の寝起きは最悪に近い。従って、虫の居所も当然最悪だ」
言いいながら、俺は牙を剥いて襲いくる大型の魔物に向け、構えをとった。
「なんというか非常に申し訳ないが。お前には『俺の鬱憤を晴らす』という名目で……“技”を使用させてもらう」
「グガガァアーーッ‼︎」
「ーーそろそろ焼けたか」
俺は焚き火で焼いていた串焼きを手に取り、じゅうじゅうと脂がしたたり落ちる焦げ目のついたソレに、躊躇なくかぶりつく。
「……不味い」
何ともいえない臭みが口いっぱいに広がる。どうもコイツはハズレだったようだ。
ーーだが食えなくもない。
と。
ズボンのポケットから持ち合わせの調味料を取り出し、見た目だけはうなぎの蒲焼のようなソイツに味付けをする。
「ふぅ。やっぱ『モンスター』は、食うもんじゃなくて魔石に変えるもんだわ」
などと一人で納得しつつ、俺は先ほど倒した魔物ーー手元にあったハイリザードマン? の首を、串で小突いた。
「まあ、何事もチャレンジすることが大切だ」
腰に備え付けていた水筒でのどを潤し、ほのかに異臭が漂ってくる串焼きを二口、三口と俺は口に運ぶ。
「うん。少しはマシになった」
俺はハイリザードマン? の串焼きを頬張りながら、すぐ側に落ちていた枯れ枝を折って焚き火に投げ込む。
この場所で暮らし始めてからもう五日目。
なんだかんだあったが、俺はすっかりここでのサバイバル生活に馴染んでいた。
「こういう時、『状態異常無効』を持っているのは有難いな」
……この“スキル”がなければ、流石の俺もこんな未知の生命体をおいそれと口にできんからな……
しみじみ思いながら、俺は最後のひと口を飲み込んだ。
「ごちそうさまでした」
朝食後。
俺は手早く焚き火の後始末を済ませ、この廃僧院に来てから既に日課となったーー朝の瞑想を始める。
……先ず『状態異常無効』は、その名の通り病気や毒など身体を蝕む全ての状態異常を無効化してくれる、万能スキルだ……
自分自身の『個人ステータス』を視ることが出来るようになったあの日から、俺は頭の中で何度も繰り返しそれを行った。この世界に来てから己に起こった変化点の検視、自らが持つスキルの検証を。
ーーこの『状態異常無効』は自分の生まれ持った性質なのか。それともこの世界に来てから発現した異能なのか。
前の世界でも病気とは無縁の体だった。毒に侵された経験もない。従って、これについて現状では確かめようがない。
ーーでは『魔法無効体質』はどうだ。
そもそも元の世界では“魔法”そのものが空想の産物。この魔法という言葉が使われている時点で、このスキルは後付けと考えるのが妥当だろう。
ーーそれなら『練気法』は?
これは正真正銘、俺が元から持っていた技術だ。正式名称は異なるが、あらゆる面において、“気を練る”という行為自体に違いはない。
ただ相違点があるとすれば、この世界は俺が元いた世界よりも抜群に気が練りやすい。
……恐らく、こっちの世界の方が自然界にあふれるエネルギーの密度や濃度が段違いに高いんだろう……
俺は一度深呼吸して、さらに深い場所まで意識を潜らせた。
ーー次に『体内力量段階操作法』。
頭の中でそのスキル名を唱えると同時に、俺はスイッチを入れた。スキル発動時に行う、意識的な意味でのスイッチだ。
途端、俺の脳裏に自らの『個人ステータス』が浮かび上がった。それはもはや俺の中では見慣れた光景だ。
俺は自分の能力値を一番低い力量のものまで落として、徐々にそれを戻していく……
一段階
Lv 20
最大HP 8500
力 390
耐久 430
俊敏 380
知能 150
二段階
Lv 40
最大HP 17500
力 500
耐久 520
俊敏 480
知能 150
三段階
Lv 60
最大HP 23000
力 650
耐久 680
俊敏 650
知能 150
四段階
Lv 80
最大HP 27000
力 700
耐久 790
俊敏 690
知能 150
そして五段階
Lv 100
名前 花村 天
種族 人間?
最大HP 30500
力 777
耐久 820
俊敏 750
知能 150
特性 ・ 全体防御力アップ(効果大)
魔法無効体質 状態異常無効 練気法 体内力量段階操作法 力調整法
ーー『体内力量段階操作法』は、車のギアのように自分の『レベル』を五段階に分けてコントロールすることができる、いわば手加減用のスキルだ。
昔から手を抜くことが日常茶飯事ではあったが、当然そこには『Lv』や『ステータス』などといった概念は存在しなかった。つまり、このスキルもこちらに来てから習得したものと考えて、間違いないだろう。
……手加減用のスキルといえば、最後の『力調整』に至ってはまんまその分類に入るんだが……
この『力調整』に関してだけは、自信を持って断言できる。この身体技能は、確実に以前の俺には無かったものだ。
……無論、単に力を加減するだけなら俺も日常的に心がけていた事なので、それなりの調整はできる……
ーーだがこのスキルはそこまで単純な代物ではない。
強いていえば精度が違う。
俺はこの世界に来る前とは比べようもないほど、繊細で精密な動きが可能になった。手先も驚くほど器用になった。おかげで、今では生活用品のほとんどを自分で作り、賄っているほどだ。素手で鉄の盾を鉄の鍋にしたり、裁縫セットを買って、ビックサイズの道着を雑巾や風呂敷にしたり。
……何だかんだでこのスキルが一番重宝している気がする……
以前は一から一〇〇パーセントの中で一の位までしか力の調節ができなかったのに、今は少数第二位まで微調節がきくようになった。そんな感じだ。
……少なくともこっちに来る前の俺は、まだその域まで達していなかったはずだ……
俺は戦闘のプロだ。己自身の実力や練度は、常に正確に把握している。それができてこその武術家、百戦錬磨の格闘家だ。
闘争の世界に限ったことじゃない。己を知るということは、生きていく上で最も重要なファクターの一つだ。
……だからこそ、新たに手に入れてた自分の力をはっきり理解しておく必要がある……
腹に落とすように静かに息を吐いて、俺はゆっくりと意識を浮上させる。
「……にしても」
朝の瞑想を終え。座禅用に敷いていた白い風呂敷を広げながら、俺はぐるりと部屋を見渡す。
「やっぱ『流星突き』は、ちとやり過ぎだったか?」
辺りに散らばるハイリザードマン? の肉片を見やり、俺は頬を指で掻いた。何というかスプラッター映画のワンシーンのようだ。
「……とりあえず、魔石にできそうな部位を拾い集めるか」
少しばかりの後悔とともに、俺は広げた風呂敷の上にバラバラになった魔物の亡骸を集めていく。『技』を使うといつもこうだ。大概は使用した相手を百グラム単位で小分けしてしまう。力などほとんど込めていない、ただの型にすぎないというのに。
「しばらくの間、技を試すのは控えるか……」
でないと、いつまでたっても金が貯まらない。最近気になっている『魔動力のコンロ』にも、いつまでたっても手が届かない。
俺は一円でも魔石の価値を上げる為、『流星突き』で吹き飛ばしたハイリザードマン? の残骸を、部屋の外まで集めて回った。
ーーそして数分後。
「こんなもんか」
飛び散った部位をあらかた拾い終えた俺は、最後にその上に魔物の首を置き、風呂敷に包んだ。
「ーーこの分だと、また『おばちゃん』にどやされちまうな」
担いだ風呂敷包みの心もとなさに内心苦笑しながら、俺は廃僧院を後にする。
外は清々しい朝の空気に包まれていた。
視界一面に広がる壮大な原生林は、今ではすっかり見慣れた風景だ。
「ん〜〜、空気がうまい」
俺は大自然の息吹で枯渇したヒットポイント(心の)を回復させると、少し前から世話になっている魔石製造場へと足を向けた。




