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第108話 逃亡

「ハァ……ハァ……」


 深い夜陰に紛れ、ただひたすらに少女は逃げる。


「ハァ……ハァ……ハァ……!」


 視界の悪い山径を。悪臭を放つドブ川の畔りを。道とも呼べぬ雑木と草むらの中を。


「ハ、ハァ、ハァ……ハァ……い……っ」


 小さな体をあちこちすり傷だらけにして。

 薄い寝巻きのような衣服をボロボロにしながら。


 ―――それでも少女はがむしゃらに逃げた。


 捕まったら殺されるのは分かっているから。


 たとえ飲まず食わずで丸一日以上走り続けでも……

 たとえどこにも行くあてがなくとも……


 少女に、歩みを止めることは許されなかった。


「だれか……たすけて……」





 ◇◇◇





 その日。

 王国の北東部に所在する(ぼう)大使館は、朝から剣呑な雰囲気に包まれていた。


「ええい、あの小娘はまだ見つからんのか‼︎」


 ドンッ! と近くにあった適当なテーブルを殴りつけて。『ランド王国』宰相ゴズンドは、顔を真っ赤にして側にいた騎士の青年を睨みつける。


「あんな小娘一匹捕まえるのに、いったいいつまでかかっておるのだ!」


「申し訳ありません」


 無機質な声で謝罪の言葉を述べると、騎士の青年は機械のような動きで頭を下げる。額にかかる細い茶色の髪。その奥に見える熱のない茶色の瞳。容姿は整っているが、青年の相貌は人形のように表情が消えていた。


 ――彼の名はジシム。


 ゴズンド直属親衛隊の隊長を務める(もと)ハーフ獣人の青年。王国騎士団の序列は(あかつき)グラス、御剣(みつるぎ)ユウナに()ぐ第三位。剣の腕はグラスよりもやや劣るものの、ユウナより上。戦略、軍略での成績は少し前までユウナと騎士団トップの座を争っていた。


 ――同僚の騎士達はジシムを“完全無欠の騎士”と呼んだ。


 だが一昨年の春に行われた就任式で、王国騎士団の新団長に就任したのはグラス。副団長に就任したのはユウナだった。


 二人がそれぞれのポストに就任して二年経った今でも、その事は騎士達の間でよく口論の種になる。毎回――「どうしてジシムはどっちにも選ばれなかったんだろうな?」という年配の騎士の何気ない一言から始まるその口論は、中盤の展開は違えど、着地点は大抵同じであった。


 ――ジシムは他の二人と違い、どこか人を拒絶する冷たさがある。


 まるでマシンのような、他を寄せ付けない鋼鉄の男。それが他の騎士達から見た、王国騎士団序列第三位――ジシムに対する評価だった。




「ゴズンド様。只今、親衛隊の精鋭部隊がアシェンダ姫の行方を捜しております」


 そこまで言って、ジシムはふたたび頭を下げる。


「“エンシェント”と言っても姫はまだ子供。体力面でもじきに限界が来るでしょう。そうなれば、捕捉するのは時間の問題かと思われます」


「そのセリフはもう聞き飽きたわっ!」


 ゴズンドが怒号を発しながら、今度は椅子を蹴り飛ばした。


 伴って、ジシムは事務的に「申し訳ありません」という台詞を繰り返した。元はと言えば、こうなってしまった原因はゴズンドにあるのだが。


 ――それはいつものことだ。


 だからジシムも、いつものように表面上は素直に謝っておく。今現在の自分の主が、どうしようもなく傲慢で、浅はかで、救いようのない愚か者である事は、今に始まったことではないからだ。


 ……せいぜい今のうちに王様気分を味わっておくんだな……


 ゴズンドに頭を下げながら、ジシムはわずかに口元を歪める。

 彼には野心があった。

 だがそれは、ゴズンドのように国を乗っ取り、人々を支配するというものではない。

 地位も名誉も富も女も、ジシムは一切興味がなかった。


 ジシムの望みは、幼い頃から一つだけだ。


 ――ただ純粋に強くなりたい。


 世界に名だたる英雄達よりも。

 高位等級使徒たるゴズンドよりも。

 その更に上位存在である統括管理者よりも。


 ――そして、あの暁グラスよりも遥か高みへと至るのだ。


 その一心で、ジシムは国を裏切り、世界を裏切り、人類を裏切って――二年前、当時既に邪教徒の“管理者”の地位にあったゴズンドの誘いに乗り、人型であることを捨てたのだ。



 コンコン……。


 不意に、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

 扉のすぐ横に立っていたジシムは、反射的にゴズンドに頭を下げた姿勢のまま、そちらの方へと顔を向ける。


 ……ガチャ。


 木製の黒い扉は。

 部屋の主人であるゴズンドの返事を待たずに、ゆっくりと開かれた。


「……失礼します」


 弱々しい声でそう言って。

 長い紫色の髪と豊満な胸を揺らしながら部屋へ入ってきたのは、胸元が大きく開いたドレスを着た色気のあるエルフの女性。『ランド王国』第二王妃――ジェーンであった。


「おや、ジェーン殿。こんな夜分に何用かね?」


 ギロリと刺々しい目つきでジェーンを見るゴズンド。怒鳴り声こそ上げなかったものの、その態度は歓迎とは程遠いものであった。


「すみません。あの……」


 あからさまに不機嫌な態度を見せるゴズンドに気圧されつつも、ジェーンは用件を切り出す。


「昨日からアシェンダの姿がどこにも見当たらないのです……。あの、ゴズンド様。なにかご存知ないでしょうか?」


「……ふん。何を言い出すかと思えば」


 ボソリと吐き捨て、ゴズンドはジェーンを小莫迦にするように鼻を鳴らした。


「ご存知も何も、あの小娘がここから逃げ出したせいで、ワシはいま計り知れぬ気苦労を強いられておるのだ」


「! あ、アシェンダが逃げ出したとは、一体どういうことですかっ⁉︎」


 ゴズンドの言葉に顔を真っ青にして狼狽するジェーン。

 一方、ゴズンドは嘲るようにジェーンを見据えながら、また鼻を鳴らす。


「ふん。貴様の娘は盗み聞きの趣味があるようでな。どうやらワシの計画を立ち聞きしておったようなのだ」


「ゴズンド様の、計画……?」


 不穏な話の流れにジェーンは唇まで血の気を失っていた。


「グフフ。なに、ごくごく自然なことよ――」


 反対に、ゴズンドは久方ぶりにその髭の濃いむっつりした顔を破顔させ、


「無能な部下と役に立たん同僚のせいで、アリスの方は失敗に終わったからのぉ。アシェンダにはその代役を務めてもらおうと思う」


「なっ‼︎」


「ククク。アレも一応、王族には変わりないからな」


「そそ、そんなっっ‼︎」


「……」


 自らの謀略を簡単に暴露するゴズンドと悲鳴をあげるジェーンを眺めながら、ジシムは内心で舌打ちする。短絡に過ぎる主と危機感のない母親。ジシムは見ているだけで反吐が出そうな気分になった。


「――ゴズンド様! それでは話が違いますわっ! 私共がこちらの陣営に入る代わりに、アニクとアシェンダには手を出さないと‼︎」


「ええい、黙れ黙れ!」


 すがりつくジェーンを払いのけて、ゴズンドは言った。


「これは貴様の望みを叶えるためにも必要なことなのだ! 貴様は息子(アニク)をこの国の王にしたいのであろう?」


「だ、だからといってこんな……! あんまりですわ! あ、あの子は、アシェンダは私の実の娘なんですよっ⁉︎」


「うるさい! これはもう決定したことなのだ! ジシム。この女を早く部屋からつまみ出せ!」


「……ハッ」


 ゴズンドに言われるがまま、ジシムは床にへたり込んでいるジェーンを強引に立ち上がらせ、彼女を部屋の外まで引っ張って行く。


「残念だが、娘のことは諦めろ。あの方に(くみ)するということはそういう事なのだ」


「そんな……アシェンダが……アシェンダは……」


 ジシムが小声で話しかけるも、既にジェーンの耳には届いていない様子だった。


「……」


 いずれ娘の(かたき)は俺がとってやる。


 心の中でそう告げて。ジシムは放心状態のジェーンを部屋の外に追いやり、音も立てずに扉を閉めた。


 

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