2日目 ③
前回より少し時間は遡り。講習中のこと。
「…………」
「…………」
冒険士見習いの取得時講習が始まって早一時間。静まり返った大部屋からは、ペンやマーカーの擦れる音だけが断続的に流れる。
「それでは、ここまで宜しいでしょうか?」
「はい。大丈夫です」
いささか手狭な講義用の机にでかい図体をジャストフィットさせて、俺は社会人一年目の新入社員を思わせる熱心さで、支給されたメモ帳にペンを走らせる。こんな感覚は一体いつぶりだろうか。
必死だった。柄にもなく緊張していた。
最初はお気楽気分で座席の背もたれに体を預けていた。が、講習開始から五分と経たずに、気がつけばごらんの有様である。自分でも薄気味悪いほど真剣に取り組んでいると思う。しかしそれはある意味当然なのだ。今はそれだけ切羽詰まった状況なのだ。この講習と試験の結果次第で、俺の今後の異世界ライフが大きく変わるのだ。
「なるほど。見習いのうちは任務に持っていくおやつは果物にした方が印象が良いのか」
などと、自身の勤勉さをそれとなく試験管にアピールするのも忘れない。以前住んでいた世界では縁がなかったが、これが俗に言う就職活動なのだろう。オトナが世の中を生きていく為に執り行う崇高な儀式。日々の生活水準を保つ為に乗り越えなければならない気高き試練。失敗すれば自動的に『無職』なる称号が付与され、自らの尊厳と自信を一気に持っていかれる例のアレである。
……俺の場合は反対に大人としての尊厳を取り戻すためのプロセス。言わば絶対に負けられない戦いだ。
無職無一文という肩身の狭い状態から一秒でも早く脱却したい。今なら分かる、先ほど戦士の顔で俺の背中を見送っていたラムの心境が。
「では次に、冒険士の主な活動内容についてご説明します」
「はい」
俺はびっしりと書き込まれたメモ帳のページを無言で進める。実際のところ、俺が思っていたよりも『冒険士』という職業は単純ではなかった。最初は酒場のような場所に行って壁に貼り付けてある報酬額入りの手配書をめくり取り、『今日はコイツにするか』『オヤジこれを頼むぜ』とか言って、店を後にする際やたら背中で語るシーンを挟んでくるタイプの職種かと思っていたんだが。その概要は大分違っていた。
冒険士とは、端的に言えば国際機関公認の便利屋である。
その業務内容は実に多種多様でバラエティーに富んでいる。事実、彼等は冒険士協会に依頼が来れば大抵のことはやる。もちろん法に触れるような内容の仕事は基本的に引き受けないとのことだが、それ以外は何でもやるそうだ。魔物の討伐や身辺警護に始まり、地域調査や街の治安維持、福祉活動やら他企業の派遣労働、果ては新薬の開発なんてのもあるらしい。そのシステムは個の職業というよりも多の職業斡旋所といった感じだ。
冒険士の仕事はその内容、難易度に応じて冒険士協会で定められた『ランク』で識別されている。当然のことだが、これらのランク別の格付けは任務を遂行する冒険士自体にも行われる。ちなみに、現在俺が受けている見習い講習とその後に行われる筆記試験のみで取れるランクは、一番下のFランクである。
……英文字やカタカナまでこの世界には普通に存在するんだよな。
ランクはFの次にE、その上にDという感じで位が高くなり、最終的にAランクのさらに上となる最上位のクラスが『Sランク』となる。なお、今現在『S』の称号を持つ冒険士は世界にたった六名しか存在しないとのこと。ちなみにその内の一人が、本部の玄関前でジュリ達も話していた冒険士協会現会長を務める『シスト』という男だ。
……この部屋にも肖像画があるが、外見は体格のいい四、五十代のダンディなおっさんにしか見えないな。
驚くことに、そのシストなる人物はすでに九十を過ぎた老漢だという。更にはその歳でこの冒険士協会の会長職はもちろん、この国――ソシスト共和国の大統領も兼任しているというのだ。
「どこの世界にも、必ず一人や二人は規格外の超人がいるもんだ」
他人事のようにそんな取り留めの無いこと呟きながら、俺は机に置かれた薄いテキストのページをめくった。
◇◇◇
「それでは、これより十分間の休憩後、冒険士免許取得試験を始めます」
茶色のうさ耳をした試験官の女性が、持っていた分厚いテキストとホワイトボード用のマーカーを教卓の上に置いて、緊張感を誘発する口調で号令をかける。
「いよいよか……」
俺は緩みかかっていた頭のネジを再度締め直す。泣いても笑ってもこれで決まる。俺の異世界生活の幸先が!
――そして十五分後。
「……終わりました」
配られた試験の解答用紙をすべて埋め終えた俺は、極限まで高めた緊張感を根こそぎ持っていかれたような気分で、それを試験官に提出する。何と言うか……死ぬほど簡単だった。
……まあ、難しいよりはいいんだが。
ペーパーテストを終えるまでに掛かった所要時間はわずか五分。直前にとった十分休憩より早く終わってしまった。拍子抜けもいいところだ。あまりにアレなテスト内容に、俺は安堵を通り越して不安すら覚えた。
【問1】
冒険士のランクは全部で七つに分けられていますが、その中で一番下位のランクは次のうちどれですか?
① Bランク
② Fランク
③ 調理士3級
【問2】
現在あなたが受けている冒険士の一番下位のランクを得るために必要な講習は、次のうちどれですか?
① 見習い冒険士資格講習
② Fランク冒険士資格講習
③ 大統領選挙
【注】
正解が複数存在する問題もございます。その場合、どれか一つを当てれば正解としてカウントさせていただきます。
などなど、あからさまに受験者側に点数を稼がせるための、いわゆるサービス問題のオンパレード。さらに全問題において選択肢の③は見え見えの切り捨て回答。その内容はどれも引っ掛けにすらならない珍回答が記載されていた。
……あんなもん悪意がなけりゃ選ばんだろ普通。
しかも問題の半分以上が①と②の両方とも正解なので、③さえ選ばなければ一〇〇点満点中五〇点は取れる計算だ。ちなみにこのペーパーテストの合格点だが――
「資格認定試験の合格ラインは『五〇点』です」
うさ耳先生は言った。
まあ、なんだ。つまりはあれだアレ。この試験は最初から受験者を合格させる前提で執り行なわれた形式上のものだったのだ。試験とは名ばかりの単なる研修だったのだ。俺のあの緊張感を返せ!
「試験の採点が終わりました」
俺が心の中で叫んでいると、うさ耳試験官が神妙な面持ちで口を開いた。
「おめでとうございます。花村さんの冒険士資格認定試験の結果は、一〇〇点満点中一〇〇点でした。従いまして、冒険士免許取得試験を合格とさせていただきます」
「…………」
でしょうね。
俺は無の表情でノートを閉じる。ビックリするくらい感動が無かった。ずっと楽しみにしていた映画のラストシーンで望まぬどんでん返しを食らい、期待を裏切られたあの感覚に近い。
……いや待て。こういった事で大切なのはあくまでも結果だ。
形はどうあれ、これで三十代無職を脱したことに変わりはない。瞬時に頭を切り替えた俺は、さっさと淳達のもとへ戻ろうと席を立つ。実に窮屈な座席であった。
「あの、花村さん」
俺が試験の合格証明書を受け取りに教卓の前まで行くと、先程までこの研修会の講師も務めていたうさ耳先生が、躊躇いがちに話しかけてきた。
「その……私の講義は分かりやすかったですか⁉︎」
「はい。とても丁寧で分かりやすい講義でしたよ」
意を決したようにその事を訊ねてきた彼女に、俺は即答した。お世辞ではない。それは忌憚のない意見だ。試験内容はともかく、彼女の講義は要領を得たものだった。
「よ、よかった。実はつい先日、私の講義で危うく不合格者をひとり出してしまうところだったので……」
「あの内容でですか?」
うさ耳試験官の衝撃の告白に、俺は唖然とする。こう言ってはなんだが、あの程度の試験内容なら、雀の涙ほどの教養と少しばかりの理解力があれば、難なくクリア出来るはずだ。よほど要領が悪くないとあのテストで五〇点以下は叩き出せない。もしくは冷やかしの類いか何かか。そんな風に俺が頭の中でいくつかの予想を立てた、その時である。
「純粋そうな子だったので変に勘ぐってしまったのかもしれません……もともと猫型の獣人は物事を深く考えてしまう方が多いので」
「……‼︎」
刹那、俺の脳裏にある一人の少女の名前が浮かび上がった。
「結局その子にはもう一度特別講習を受けてもらい、簡易的なテキストを丸写しする課題提出を条件に、後日再試験という形をとってもらいました……」
「……お疲れ様でした」
その一言だけ告げて、俺はそそくさと部屋を退室したのだった。
◇◇◇
「『ドバイザーショップ』は五階だったと思うから、一つ上の階なのだよ」
歌交じりに話しかけてきたのは、見るからにご機嫌といった様子で俺の隣を歩いていたジュリである。
「ププ、それにしてもさっきの亮の顔ったらないね」
「あの後どうなったんだ?」
俺は何となしに訊き返す。ちなみに亮というのは中村さんの下の名前のようだ。
「すぐに帰ったよ。くやしそうに地団駄踏みながらな」
そう答えたのは淳。こいつもジュリと同じく実にいい顔をしている。まったく分かりやすい娘達である。俺はフッと表情を緩め、何気なくまたジュリの方に目をやった。
「亮のヤツ、まったくいい気味なのだよ。冒険士になった時期がボクらよりちょっと早くて、ランクが一つ上ってだけで、いっつも偉そうにしちゃってさ。ま、これに懲りたら少しは……」
「…………」
そのとき不意に俺の視界に飛び込んできたのは、激しく上下に自己主張を繰り返す、魔女っ子の豊満な胸だった。
……弥生もそうだが、年のわりに発育が良すぎるだろコイツら。
決して露出度が高い服を着ているわけではないが、上機嫌にスキップで移動しているせいもあってか、ジュリのソレはまるで生き物のように延々と揺れ動いていた。
「それでね、天。アイツったらことあるごとに……あー」
「ッ!」
しまった! と思った。
だが既に色々手遅れだった。
「ねーねー、今やらしい目でボクの胸を見てたでしょ?」
「あ、いや」
案の定、ジュリはいやらしい笑みを浮かべて小悪魔の顔でこちらに擦り寄ってくる。どうやら次の獲物としてロックオンされてしまったようだ。
……俺としたことがやらかしちまった。
別段性的な意味合いで眺めていたわけでもないのだが。今そんな言い訳をしても藪蛇になるのは火を見るより明らかである。
「そっか〜天も結局は男の子ってことだね? ププ、普段は真面目ぶってるくせしてこのむっつりスケベ!」
「……」
とにかくここは嵐が過ぎ去るのを待つしかない。俺は貝になることを決意した。
「ムフフフ、いいんだよ別に? 天も晴れて冒険士の仲間入りをしたわけだしさ? そのお祝いにお姉さんがちょっと触らしてあげても」
「ジュリさんっ!!」
すかさず声を張り上げたのは淳と並んで目の前を歩いていた弥生。彼女はひどく取り乱しながら、猛然とジュリに噛みつく。
「ふふ、ふしだらですわ!」
「えー、別にボクらぐらいの年なら、おっぱいを触らせるぐらい大したことじゃないと思うのだよ」
「おお、おぱっ⁉︎」
「おい、ジュリ!」
耳まで真っ赤にして頭から湯気を立てる弥生。そこへ淳が当然のように割って入る。もはやお決まりの流れである。
「弥生に変なこと言うなよ。弥生はお前と違って正真正銘の淑女なんだからな!」
「ちょっと淳。それじゃあまるで、ボクが品のない女みたいじゃないか?」
「みたいじゃなくてまんまそうだろ。お前はガキの頃から正真正銘の品がない女だよ」
「うわー、言い切っちゃったよ、このシスコン。これは普段温厚なボクでも、ちょっとカチンときちゃったかなー」
「温厚? は、笑わせんなよ。お前の場合は単に能天気なだけだっつーの」
「はあ⁉︎」
互いの視線上でバチバチと火花を散らすヒロインコンビの淳君とジュリ。
「妹バカ、ドシスコン、女顔」
「マヌケ、お調子者、尻軽」
いいぞー、やれやれー。俺は内心で二人にエールを送った。これで今しがたの失態が有耶無耶になる。こちらとしては大助かりだ。
「淳の馬鹿バ〜カ!」
「少しは弥生を見習え、このアホ女!」
「……」
二人が額を擦り合わせてレベルの低い口喧嘩のラリーを繰り広げている隙に、俺はこれ幸いとばかりに歩くペースを落とし、キャットファイトのリングから見事エスケープに成功した。
「あの〜、天さん」
列の最後尾まで来ると、ラムがおずおずとこちらに近づいてきた。どういうわけか彼女は先程からずっと元気がないのだ。
「どうしたんだ、ラム先輩?」
「ええっと……です」
何やらラムは俺に訊きたいことがあるようだが、それを訊くのが怖くて迷っている、そんな顔をしていた。
……多分あのことについて知りたいんだろうな。
そんな猫耳少女の様子を見てなんとなく察しがついた俺は、それとなく話の水を向けてやることにした。
「ラム先輩。あの見習い試験、思ってたよりも結構しんどかったよ」
「!」
瞬間、ラムは目を見開いて勢いよく身を乗り出した。
「じゃあ! 天さんもいっぱい『宿題』出されちゃったんですか!」
「いいや、俺は出されなかったな」
「そ、そうですか……」
途端にラムは弱々しく耳を萎らせ、どんよりと暗い表情で俯いてしまう。やっぱりか。予想通りだった。要はこの子は、恥を分かち合う仲間がほしかったのだ。自分と同類の人間、傷を舐め合う相手がほしかったのだ。
「そうですよね……普通は宿題なんて出されませんよね……」
「……」
俺は目の前で自分を卑下する少女をとても責める気にはなれなかった。むしろ彼女ぐらいの年でそれをしっかり『恥』として認識できるのは立派なことだ。俺は歩くのを一旦止め、ラムの真正面に立ち、ゆっくりと息を吐いた。
……心底ガラじゃないんだが、この場合は致し方ないか。
先輩を立てるのは後輩の務め、そう自分に言い聞かせ、俺は落ち込んでいるラムの肩にそっと手を置いた。
「天さん?」
「宿題か。そんなものがあるんだったら、俺にもぜひ山ほど出してもらいたかったな」
「え」
「だってそうだろ? 俺はまだ右も左も分からない『見習い』の身だ。なら勉強する機会を与えてもらえるのはありがたいこと、歓迎すべきことじゃないか」
「あ……!」
ハッとしたように、ラムが顔を上げた。
「誰だって最初は何も分からない。それが普通だ。俺だってそうだ。だからそれ自体は恥ずかしいことじゃない」
「…………」
猫獣人の少女は表情を引き締め、黙って俺の話に耳を傾けていた。
「ただ、分からないことを分からないまま放置する、やるべきことをやろうとしない。それが真に恥ずべきことだと、俺は思う」
「天さん……」
「ラム先輩は、その出された宿題をやらなかったのか?」
「すぐにやりましたですぅ!」
ラムは両手を胸の前で握りしめて、俺の目をまっすぐ見つめながら言った。
「ちょ、ちょっと時間はかかっちゃいましたけど……その日は眠るのを我慢して、次の日にはちゃんと試験をやり直させてくれた先生に提出しましたですぅ!」
「だったら、何も問題ないはずだ。そうだろう?」
「は――はいです!」
ビシッと手を上げ、ラムは元気よく返事をする。見れば、少女の顔にはもう気落ちした暗い雰囲気はすっかり無くなっていた。そこには普段の彼女の明るい笑顔があった。
ーー良かった。
ラムのその笑顔を見て、俺は咄嗟にそう感じてしまう。自分でも驚くほど自然に。
「ド、ドバイザーショップは五階だったな」
分かりきっている事をわざわざ口にし、俺はズンズンと足を速める。やはり慣れないことはするものではない。絶え間なく押し寄せてくるこの気恥ずかしさは、正直言って先程のジュリの比ではなかった。
「……ねえ、淳」
「……なんだよ」
「さっきから天の方がリーダーっぽい事してるって感じてるのは、果たしてボクだけなのかな?」
「う、うるさい!」
「天さんて私達と年はそんなに変わらないはずなのに、何故だかとても大人びて見えますわ……」
なんやかんやあったが、ここまでは順風満帆だった。
しかしこの時すでに、俺の屈辱の日々、地獄週間の入り口はすぐそこまで迫ってきていたのだ……。
◇◇◇
五階・ドバイザーショップ。
「……魔力が、ゼロ?」
「はい」
そして前回のこの場面である。
◇◇◇
『ドバイザー』と呼ばれる手の平サイズの携帯端末は、この世界では必需品だ。老若男女を問わず、幅広い世代が持ち歩いている。この異世界の最先端技術を駆使したハードウェア。言うなればスマートフォンと非常によく似た手持ちデバイスである。実際それらは見た目も瓜二つで、機能も類似する点が多々あった。ただ決定的に違う点は、ドバイザーは実体のあるもの――物質ですら端末本体に収納できるということ。さらに使用者本人と直接リンクして、魔技や装備変換などが扱える――護身的、戦術的な用途が備わっているということである。
RPGなどのゲーム的な表現を使わせてもらえば、ドバイザーは『まほう』と『どうぐ』と『そうび』の役割を一挙に担う、言わば最重要システムそのものなのだ。故に、もし仮にドバイザーを使用することが出来ず、このシステムの恩恵を受けらない状況に陥った場合。その影響は計り知れない。
……どうしよう。もう残された行動選択肢が『はなす』と『しらべる』しかねえ。
たった今、目の前に座っている家電量販店の店員のようなロゴ入りジャンパーを着た初老の男性から告げられた、思いもよらない戦力外通告。いや、どちらかといえば死刑宣告に近いかもしれない。
『お客様には“魔力”がありません』
いくら最先端の技術で作られた代物でも使うためにはそれなりの過程、資格が必要なのだ。そして俺にはそれがない。皆無。まさしく『0』なのだ。
……初っ端からいきなりお先真っ暗だよ、俺の異世界ライフ。
ここに来るまで全てが順調だった。からのコレである。天国から地獄とはまさにこの事だろう。俺が半ば投げやり気味に画面真っ黒のままピクリとも起動しない新品のドバイザー眺めていると、
「これは困りましたね……」
俺程ではないにしろ、こちらも渋い顔をしてあからさまに困ったと首を捻る初老の男性店員。ちなみに彼は、ここ『ドバイザーショップ・ソシスト店』の主任を務める人物。この前代未聞の超異例なケースに、若い店員だけでは対処できないとわざわざ駆け付けてくれた、一線級の営業マンである。
「さて、どうしたものか」
そんな人物が難しい顔で腕を組み、頭を抱えているのだ。店側にとってもよほどの緊急事態であることは想像に難くない。
「お待たせしてしまい大変申し訳ございません。このようなケースは、私どもも初めてでして……」
「当たり前なのだよ」
「私も聞いたことがありませんわ」
「もしかすると、天の先祖は冗談じゃなくマジで猿なのかもな」
「ふぇ! 天さんお猿さんだったんですか⁉︎」
何やら後ろがガヤガヤと騒がしかったが、今の俺には右から左だった。
「誠に申し上げにくいのですが……このままですと、花村様の冒険士資格証明も登録できません」
主任のこの言葉以外は。
「やはりですか……」
ガックリと項垂れる俺。ドバイザーの用途は、なにもファンタジックな便利機能だけではない。ドバイザーはこの世界での社会的立場を確立させるために必要な、言わば最も優先順位の高い『身分証』なのだ。仮に戸籍や住所がなくとも、この一台さえあれば問題なしという、大変優れもののアイテムなのだ。
……まさに今の俺にはピッタリの代物だったんだが。
俺は人目もはばからず盛大なため息をついた。せっかく住所不定無職の身から脱せると思っていたのに、その矢先にこれだ。今の今まで浮かれていた分も上乗せされ、跳ね返ってきた一撃は、自分でも想像以上に堪えていた。
ーーもう駄目か。
生まれて初めて味わう圧倒的絶望感に打ちひしがれ、俺はもうなにもかも諦めようとした、その時だった――
「ーー失礼ですが、皆様の中で、花村様と同じ『Fランク冒険士』の方はいらっしゃいますか?」
何かを決意したように、百戦錬磨の老将が凛とした空気を身にまとう。そこには紛うことなき一流の事務家の姿があった。
「これはあくまで私からの提案なのですが、もし皆様の中に花村様と同じく見習い冒険士の方がおいでなら、一旦その方に花村様の代わりとしてドバイザーの新規契約をしていただき、その後こちらで名義や資格登録などを花村様のものに変えさせていただく、という形をとるのはいかがでしょうか?」
「だ、大嗣主任! そんなことをして大丈夫なんですか⁉︎」
老将の知略に、彼の後ろに控えていた若輩二等兵は怖気づくように声を震わせていた。
しかし歴戦の勇者は悠然とした態度を崩さぬまま、揺るがぬ意志を宿した双眸で正面に座る俺を見据えた。
「確かにそれは規則上許されないことかもしれません。ただ、今回の場合は過去に例を見ない非常に稀なケース。ですのでまだそれに対する正しい対処法、明確な取り決めは、現段階では確立されておりません」
「ッーー!」
俺は普段なら開いてるか閉じてるか分からないような細目をこれでもかと見開き、思わず姿勢を正す。つまり彼はこう言いっているのだ――これから自分がやろうとしていることは確かに規定では許されていない方法かもしれない、だが逆に言えば、その方法を禁じる取り決めもまだ成されていない、と。
「ラム先輩!」
次の瞬間、俺はその救いの女神の名を呼びながら、飛び上がるようにして椅子から立ち上がる。そして恥も外聞もかなぐり捨て、一回り以上は年の離れた少女に、深く腰を折って頭を下げた。
「どうか俺に、ラム先輩の力を貸してくれ」
「ぇえ⁉︎ あ、あたしがですぅうう⁉︎」
「何をそんなに驚いているのだよ? 今の話の流れからいって、他にいないじゃないか」
「ラムちゃん、頑張って!」
「はは、先輩らしいことが出来て良かったじゃないかよラム」
皆がワイワイと盛り上がる中、俺は恩人とも呼べるその御仁のもとへ再び顔を向けた。
「一時はどうなることかと思いましたが、主任さんのおかげで無事に冒険士になれそうです。本当にありがとうございます」
「いえ、私は然るべき対応を取ったにすぎません」
ただ、と彼は続けた。
「やはり契約儀式を行うのが花村様本人でない場合、ドバイザーを使うにあたって様々な使用制限がついてしまうと思われます」
「十分です。あなたが機転を利かせてくれなければ、俺はドバイザーを持つことすら叶わなかった。心から感謝します」
「とんでもございません。お客様の声を聞いて、可能な限りお客様のニーズに合わせたサポートを心がけるのは、私ども職員の義務でございます」
「主任さん……」
その日。俺は異世界の英雄――あくまで俺の中で――『大嗣主任』の名を、深く心に刻み込むのであった。




