第88話 偽りの面 ②
この世界には、“邪教徒”と呼ばれる闇の住人が存在する……
よくギャングやマフィアなどの犯罪組織をつかまえて、『裏社会の人間』などという比喩表現が使われるが。かの者達はそんな生易しい集団ではない。
ーー曰く、魔の権化。
ーー曰く、邪悪なる反神の徒。
ーー曰く、世界に災厄をもたらすもの。
それこそ、鬼や悪魔、魑魅魍魎の類いと評しても過言ではない。それほどまでにこの世界の人型にとって“邪教徒”なる宗徒たちは、その名は……恐れ、忌み嫌うものの代名詞として認識されていた。
冷たく湿った空気が、より冷ややかなものへと変貌を遂げる。
「邪教徒……じゃと?」
「まさか、そんな……」
申し訳程度のランプの灯がおぼろげに周囲を照らす中、シャロンヌ、エレーゼ姉妹の従者であるロイガンとサリカは、部屋の照明よりも弱々しい声で呟いた。
両者の顔から血の気が失せて見えるのは、決してこの部屋の明かりが乏しいからではないだろう。
「あの男は、『ミザリィス』の間者ではない」
家来たちの思い違いを正すように、シャロンヌがそう告げる。
途端、エレーゼの侍女であるサリカが、吐き気を抑える仕草で口に手を当て。この集落の近衛隊長を務めるロイガンは、「フーッ、フーッ」と激しい呼吸音を立てて身を震わせる。
「なんという、何という失態かっ」
「そのような輩に、これまでエレーゼ様の身を委ねていたなど……」
今、彼等の心中にあるものは、おそらく邪教徒への怒りよりも己への深い自責の念。
「お前たちに落ち度はない」
シャロンヌは小さく首を振った。
「私がもっと頻繁にエレーゼに会いに来てさえいれば、このような最悪な事態は回避できたかもしれん」
「最悪な事態とはご挨拶ですね」
その喋り口調は、どこまでも人を食ったものであった。
「今まであの娘が生き永らえていたのは、一応はこの私の功績なのですよ?」
「きさま……!」
「まぁ最後は薬湯を井戸水に代えて、危篤を演出したりもしましたがね」
相変わらず部屋の入り口の前で天と向かい合わせに立っていた渡良瀬が、これ見よがしに肩を竦め、嘲笑を浮かべる。
「それにしても驚きましたよ。まさかあんなに早く効果が現れるとは。多少なりとも水に塩分を加えておいた方が、完璧な自然死を装えたのでしょうか? 興味は尽きませんが、もう確かめようがありませんね。ああ、実に残念だ」
「なんだ、もう取り繕うのは止めちまったのか?」
こちらも、如何にも人を小馬鹿にしたような態度で、
「もう少しお前をからかって遊びたかったんだがな。つまらん」
シャロンヌを嘲笑う渡良瀬を、天が嘲笑った。
「……ふむ」
渡良瀬は表情を消し、自らの顔を隠すように眼鏡に手を押し当てた。
「何時、気づいたのですか?」
「そうだな。最初に違和感を感じたのは、ここに来る途中、動力車の中でシャロンヌ殿にエレーゼ殿の具合を聞いた時だ」
天は飄々とした調子で答えた。
「シャロンヌ殿は俺に、エレーゼ殿の主治医の話ではと言って、『薬湯を投与し続ければ半日は持つ状態』と答えた」
「言ってたのです」
「記憶している」
リナとシャロンヌが硬質な声で相槌を打つ。
天は一つ頷き、渡良瀬に目線を合わせたまま話を続ける。
「俺はその時、『そいつは本当に医者なのか?』と思った」
「は?」
「医者の言葉ってのは大小にかかわらず重さが宿るもんだ。それが親族に対する余命宣告なら尚更だろう」
「言っている意味がよく分からないのですが」
「だろうな。何せお前は藪医者ならぬ偽医者だ。そもそもが人ですらない」
蔑みのこもった天の言葉に、渡良瀬が小さく舌打ちを返す。もともと、天はこういった手合いへの対応は得意分野だ。
「お前の言葉にはまるで重みが無い。人伝に聞いてもそう感じられた。第一に、普通なら医者が自分の患者の余命を長めに宣告するなど、まずあり得ない」
「…………何故そう思った」
鼻につく丁寧口調すら忘れ、渡良瀬は低い声を落とした。
何故分かった、とも捉えられる渡良瀬のその問いに、やはり天は軽い調子で答える。
「そいつは企業秘密だ」
「なんだと……」
「まあ、強いて言えば長年の経験からくる勘ってやつか」
まさか「神様に教えてもらった」と言うわけにもいかないーーどうせ言っても信じないーーので。天はその部分については茶化した物言いをした。
ーーしかし、だからといって口から出任せを言った訳でもない。
天が最初に定めたエレーゼの命のタイムリミットは、自分達が神界から戻ってきたその瞬間から数えて七時間強。対して、天がその目でエレーゼを直に看て出した答えは……『もって六時間弱』というものであった。
ーーまさに紙一重だった。
シャロンヌの手前、決して態度には出さなかったものの。実際にエレーゼの現状を目の当たりにした瞬間、流石の天も肝を冷やした。
結果的に見れば、天達は余裕を持ってエレーゼのもとに辿り着いたーーが、何か一つでも選択肢を誤っていたら、『オークキング』以外のトラブルにも巻き込まれていたら……
ーー最悪の結末も十分あり得ただろう。
だから余計に天は違和感を覚えた。エレーゼの主治医である渡良瀬の言葉に対して、疑問を抱かずにはいられなかった……「これで半日はもつだと?」と。
無論、それは天の価値基準でしかない。
ましてやここは異世界。自分の持つ常識など何の役にも立たない事は、天も重々承知の上だ。
故に彼は、ソレを自らの目で確かめたのだ。
「俺としたことが、痛恨のミスだ」
「ミス?」
「ああ。幾らエレーゼ殿に気を取られていたからといって、こんな『どでかいネズミ』を初めに見逃しちまうとはな」
「……一応伺いますが、その“ネズミ”というのは私のことを言っているのですか?」
「他にいるんだったら、是非俺にも教えてくれ」
「フン。ペテン師風情が言ってくれますね」
「『ペテン師』ってのは世間じゃお前みたいな奴をさす言葉だ。人の世に紛れ込むなら、最低限それぐらいの教養は身につけておけ」
「やれやれ。あなたは本当に口の減らない男のようだ」
それは口喧嘩などという生温いものではなかった。互いが互いの存在すらも否定し合う冰の意志の応酬ーー
「あなたのような俗物は、“家畜”にすらしたくありませんね」
「ネズミ一匹に家畜なんて上等なもん必要ないだろ? カビの生えたチーズさえありゃ充分だ」
その様はまさに蛇蝎の如く。両名が決して相容れぬ存在であることは、火を見るよりも明らかであった。
「ふぅ、たまたま勘が当たっただけで、また随分と調子に乗るものだ」
「大事なのは結果なのです」
平然とそう言ってのけたのはリナ。
「ぶっちゃけソレさえついてくれば、そこに至るまでのプロセスなんてどうでもいいの」
「全くもってその通りだな」
シャロンヌも会話に加わる。こちらも気後れした様子は微塵もなかった。
「天殿はきさまの正体を見破った。重要なのはその一点のみだ」
「……まったく」
突如、渡良瀬の声が変わった。
「これだから下等な生物は嫌いなんですよ」
興が殺がれたという態度で渡良瀬は額に手を置く。途端、その顔の皮がずるりとズレた。
「そろそろお喋りに付き合うのも飽きましたね」
そう言って、かの者は自らの顔の皮膚を剥ぐように、その偽りの面を脱ぎ捨てた。
「なるほど。そいつがお前の素顔ってわけだ」
「もう、このマスクは必要ありませんね」
地面に転がった生々しい面を踏みにじりながら、男は微笑を浮かべる。
フランス人形を思わせる作り物のような顔立ち。身につけている白衣よりも真っ白な肌。それに対比するような黒髪。その生気の取り除かれた風体は、ひときわ異質な存在感を醸し出していた。
男は深紅の瞳の片方をつぶり、悪戯にウインクして見せた。
「お初にお目にかかります、薄汚い“堕人”諸君」
と、男は左手を胸の前に置いて丁寧に一礼した。
おそらくは先刻の意趣返しのつもりなのだろう。
天は眉一つ動かさなかった。
「個人的には、その気色悪いツラよりはまださっきの悪趣味な面の方がマシだったな」
「ふむ」
男は天の悪態には応じず、何やら思案するように顎に手を添え。
「あの面を作るにあたって、初めは臭みを消すのにそれなりに苦労したんですが。実際にこうして用済みになって、以外に何も感じないものですね。まぁ元々の材料が堕人の皮ですから、愛着など湧きようもないのですが」
「……そうか」
短い沈黙の後、天の声から軽みが消える。
「やはり、既に本人はこの世にいないのか」
「当然でしょう」
それはあたかも生命を弄ぶような口ぶりだった。
「必要な部分だけ残して、あとは魔物の餌にしましたよ。もともと首から上だけあれば十分でしたので」
「なんという事を……」
「この外道めがっ」
嫌悪感剥き出しの顔でロイガンは刀の柄を握り込む。その横では、サリカが悲鳴を押し殺すように口を手でおさえている。
二人の目には憎悪と恐れ、そして幾ばくかの遣る瀬無さが宿っていた。
「すまぬ、渡良瀬。儂は一瞬でもお主を疑ってしまった……」
「渡良瀬様。どうかその魂だけは、安らかな旅路を」
ロイガンとサリカは静かに目を閉じた。
少なくとも自分達が最初に信用した渡良瀬は潔白だったという喜び。しかしもう彼は死んでいるという悲しみ。それらすべてを一緒くたにした……そんな心境なのだろう。
直後、二人の気持ちを嘲るような悪魔の音声が届けられる。
「そうそう、あなた方お二人が私のことにいつ頃気づいてくれるのか、密かに楽しみにしていたのですよ? なのにあなた方ときたら、結局最後まで私のーー」
「おい」
悪魔の舌を断ち切る鋭利な一声。
天はさも不思議そうに首を傾げて、男に問う。
「お喋りはもう止めるんじゃなかったのか?」
「……つくづく癇に障る男ですね、あなたは」
男は憎々しげに吐き捨て。
「最後に一つ、私からもあなたに良いことを教えて差し上げますよ。先ほどの虚偽のお礼にね」
「良いこと?」
「はい。何故いまだに私はこの場を離れずにいるのか、その理由です」
「まあ、普通に考えりゃ、よっぽどの馬鹿なのか、もしくは自分の腕に相当の自信があるのかのどちらかだろうな」
「後者ですよ」
そう言って男は不敵に笑んだ。
「改めて自己紹介させていただきます。私の名はディゼラ。“一等星使徒”の、ディゼラと申します」
《マナプロテクト》解除。
と。
名乗りと共にディゼラが呪言を唱えた直後。
かの者を取り巻く空気が爆ぜ。
目視でも確認できるほど闇く禍々しい魔力が、ディゼラの全身から立ち昇る。
「後悔なさい。この私を本気で怒らせたことをっ!」
「ようやくか……」
呟かれたその声に熱はなかった。
この時、変貌を遂げていたのは……何もディゼラだけではない。
そしてその事に気づけたのは、彼の仲間であるシャロンヌとリナだけであった。
「ククク。自分達の方が圧倒的に人数が優っているから、こちらには『常夜の女帝』が居るからーーなどという安易な考えは、今すぐ捨てることをオススメします」
身につけていた白衣を突き破って。ディゼラと名乗った“争いの民”の背中から、大きな蝙蝠のような羽がバサッと生え出る。太く強靭に肥大化した体。長く鋭い牙と爪は、明らかに人型のそれとは異なるもの。
その姿はまさにーー
「まるで吸血鬼だな」
天はぼそりと呟いた。
「当初の予定では、妹の死に目に会えず、失意する常夜の滑稽な様をたっぷり鑑賞してから正体を明かすつもりでしたが……まぁいいでしょう」
変態によりボロボロになった白衣を破り捨て、ディゼラは口元を醜悪に歪める。
「たった今この場でひとり残らず皆殺しにすれば、それで事は済むのだから!」
ディゼラは、両手を広げて高らかに宣言した。瞬間、さらなる魔力の渦がディゼラの周囲に形成される。
「なんと凄まじい魔力でしょうか……」
「くっ、直ちに我らも天殿に助勢せねば!」
「必要ない」「邪魔になるだけなの」
落ち着き払った様子で、少しの動揺も見せずにーーシャロンヌとリナは声を揃えてロイガンの闘争行為への介入を止める。
「し、しかし、シャロンヌ様」
「くどいぞ、ロイガン。天殿がお前たち二人に命じたことを、もう忘れたのか」
「我々はこの場から動いてはならない……。失礼いたしました、シャロンヌ様」
サリカは構えていた短剣の剣先を下げ、シャロンヌに丁寧な所作で頭を下げる。ロイガンも渋々ながらも戦闘態勢を解く。
「ーー変身はもう終わったのか?」
「おかげさまで」
皆の眼前では、天とディゼラが、今まさに一触即発という空気を漂わせて対峙していた。
「そうそう、先に言っておきますが、あなたはただでは殺しませんよ?」
ディゼラは刃物のように尖った爪の先を天に向け、
「あの忌々しい三柱の力で、貴重な試験台と長年温めてきた私の計画を台無しにしたあなたには、それ相応の報いを受けてもらいます」
そう言いながら狂気に満ちた目を愉快げに細める。
「先ずはその目を抉り、次に耳を削ぎ落とし、順々に四肢を裂いてーー文字通り八つ裂きにして差し上げますよ!」
「そうか」
素っ気ない返事だった。天の声も、態度も、表情も、等しくディゼラの言葉に関心を示してはいなかった。
「ククク。先ほどまでの威勢はどうしたのですか? どうやら、あまりの恐怖に声も…………ぎ、うぎぃいやああああああああっ‼︎」
「“戦命力”の最大値は『3872』か」
突然、悲鳴を上げたディゼラを完全に無視し。天は顎に左手を当て思案をめぐらせる。
「やはり等級が一等星ともなると、“鬼人化”した際の戦命力はシャロンヌ殿やおっさんを上回るな」
独り言を続けながら、天はぶらぶらと右手を振る。それに伴い、赤い血の雫がポタポタと地面に滴り落ちる。
「わわ、わた、わたしの美しい翼があああああ!」
天の右手には……彼が一瞬の間に引きちぎったディゼラの左翼が、粗雑に握られていた。
「よくも……よくもよくもよくもぉおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」
「怒鳴ってる暇があるなら、少しは攻めろ」
淡白にそう告げると、天はディゼラの残ったもう片方の翼を無造作に毟り取る。
「ぐぎゃぁああああああああっ‼︎‼︎」
激痛でのた打ち回るディゼラを見下ろし、天は嘆息する。
「戦命力はともかく、お前ら『ハイアポストル』はとことん戦いの素人だな。ずば抜けた魔力量以外は、何もかもがお粗末だ」
天は皮肉げに肩を竦める。
「どうだ、これで信じてもらえたかい? 俺が腕力のみで、エレーゼ殿から『奴隷の首輪』を外したってことを」
「ば、バカな……たかが人型ごときに、そんな事できるわけが……!」
傷をかばうよう肩を握りながら、ディゼラは信じられないといった表情で天の顔を見上げる。その目には先刻のそれとは違い、驚きだけでなく怯えと焦りの色が混じっていた。
「返すぞ、コレ」
言うと同時に、天は持っていたディゼラの両翼を軽く放った。
ぽいと投げられた二枚のコウモリの羽が、ディゼラの視界を覆う。刹那、ディゼラの顔面を天の回し蹴りが薙いだ。
「ブフェッ!」
不細工な呻き声と共にディゼラの体が宙を舞う。
透かさず天の二発目の蹴りが、空中で的確にディゼラを捉えた。
ディゼラは為す術もないまま、カーテンで仕切られた入り口を突き破って部屋の外まで吹き飛ばされる。
「グ、グフッ。こ、こんな馬鹿な事があってたまるか……! 私は、選ばれしシナット様直属の配下なのだぞっっ⁉︎」
体中に砂利をくつけ地面に寝そべった体勢のまま、ディゼラは無我夢中に手を前に突き出した。
《魔争災技・業焔》
ドシュンッ! と豪快な破裂音が空気を揺さぶる。
ほんの一瞬にも満たない時間で生成された赤黒い火の玉は、みるみるうちに加速して天に襲い掛かる。
……しかし。
「芸の無い奴らだ」
その言葉と共に、ディゼラが放った炎撃は天に直撃する寸前で跡形もなく消滅してしまった。
思わず絶句するディゼラ。
双眸を驚愕の色で塗りつぶし、ディゼラは金魚のように口をパクパクさせていた。
「なあ……」
カツン……カツン……と凶兆を告げる足音。
それに連れ立って発せられた声は、ひどく冷めたものであった。
「どうして俺が、お前をすぐ殺さずに、今の今まで無駄話に付き合ってたか分かるか?」
「っっ……」
「データを取る為だよ」
ディゼラの回答を待たず、天はそう告げた。
淡々とした報告の後に、三度ディゼラの顔面に蹴りが見舞われる。それはさながらサッカーボールを蹴飛ばすかのように。
羽を失ったコウモリ男は、勢いよく洞窟の湿った岩壁に激突した。
「ぐっ、……これは悪夢か? 一等星使徒のこの私が、まさかこんなっ⁉︎」
「ーーおい」
狼狽するディゼラを置き去りにして、
「思いつく限りの攻撃手段を俺に試してみろ」
天はこう続けた。
「その間だけ、お前を生かしておいてやる」




