第85話 それぞれの想い
霧深く険しい山道を悠然と馳ける三つの人影。
「二人共、悪いが少しペースを上げさせてもらう」
「問題ない」
「あたしの方も大丈夫なのです」
「よし。では行くぞ」
先頭の影がそう言うと、人の形をした三つのシルエットはさらに速度を上げた。およそ道と呼べぬような急傾斜の山路を、縦横無尽に駆け登る影たち。いかに熟練した登山家であっても、仮にそれが真夜中でなくとも、今の彼等をはっきりとその視界に捉えられる者はそうはいないはずだ。
他者が見て感じたそのものの速さを讃える表現の一つに、『疾風の如く』という言葉があるがーーこの三人を形容するなら、まさにソレだろう。
「それにしても驚いたの」
列の最後尾を走るリナが、息ひとつ切らさずにすぐ前を行く天の背中に話し掛けた。
「まさか、天兄の故郷とシャロンヌさんが言ってた目的地が、おんなじ場所だったなんて」
「まあ、正確に言えば俺の実家があるのは向こう側なんだがな」
走行速度を緩めることなく、天はわずかにリナの方を振り向き、苦笑交じりにそう言った。
天はその私事をリナやシャロンヌに隠さなかった。というより打ち明けざるを得なかった。
『まさかとは思ったが』
と。
うっかり零してしまった独り言の所為で、天はリナとシャロンヌに誤解を与えてしまったのだ。不安を与えたと言ってもいい。
『どうしたんだ、天殿? 何か問題でもあるのか……?』
『天兄、さっきからちょっと様子が変なのです』
『……いや、実はだな』
天は早々に妥協した。
この状況化で含みのあるセリフを口にすれば、誰だって気になる。誰しもが悪い方に想像を膨らませる。
シャロンヌとリナを安心させる為には、その方法が一番確実で手取り早かった。
『あの山は、以前いた世界で俺の“家”があったところなんだ』
天は、自分の不注意により仲間達に要らぬ心配をかけてしまった責任を、『訳を話す』という形でとったのだ。
「ーー天殿は、その……元いた世界に未練はないのか?」
先頭を走るシャロンヌが、前を向いたまま、躊躇いがちにその事を天に訊ねた。
反対に、天は一切躊躇うことなく答える。
「無い」
「そ、そうか」
いっそ清々しいまでのそのキッパリ感に、訊いたシャロンヌの方が戸惑ってしまった。
「むしろ俺が最も怖いのは、何の前触れもなく向こうの世界に戻されることだ」
「でも、その心配はまず無いと思うのです」
どこか嬉しそうな声で、リナが言う。
「三柱神様たちの天兄に対する入れ込みようったら半端じゃないのです。それこそ、絶対に誰にも渡さないって感じでっ」
「たしかにな」
リナの力説に相槌を打ったのはシャロンヌだ。心なしか、彼女の声音からもわずかながらの安心の色が感じられる。
「ーー天殿、リナ。もうそろそろ目的地に到着する」
だが、そんな穏やかな雰囲気も一瞬で忘却の彼方へと追いやられる。
「初めに言っておくが、集落といっても民家が密集しているわけではない。あそこにいる住人は皆、峡谷の切り立った岩壁に洞窟を掘ってその中で生活している」
「なるほど。確かにあの辺りの岩場は、人は疎か山の動物たちですら避けて通るこの山で一番の難所だ」
「隠れ家としてはうってつけなの」
「……そういうことだ」
シャロンヌは相槌を打つと同時に、天とリナの理解の早さ、物分かりの良さに、内心で舌を巻いていた。
普通の者なら、何故そんな危ない場所にわざわざ集落など作るのか? という疑問から入るのだがーー
「峡谷の岩場の中となると、このルートから集落に入るには崖の上から飛び降りる必要があるな」
「余裕なのです。昔から高い所は得意なの」
天とリナは違った。疑問どころかシャロンヌがその事について二言三言話しただけで、大体の事情を把握し、すんなりそれらを受け入れた。
まあ、実際のところ、天やリナ達《零支部》の拠点も似たような理由から似たような立地にあるので。二人がシャロンヌの説明に何の違和感も覚えないのは、至極当然の事と言えなくもない。
……頼もしい奴らだ……
こんな状況にも拘らず、シャロンヌは唇に微かな笑みを浮かべる。話が早い者、話の分かる者はそれだけで相手に安心感を与えるものだ。どちらかと言えば彼女はいつも安心を与える側なのだが、たまには例外があってもいいだろう。
「……天殿とリナに、先に伝えておきたい事がある」
シャロンヌの声が神妙なものへと変わる。
「今回のことは、本当に申し訳なく思っている。大切な任務中にも拘らず、お前たちを俺の個人的な事情に巻き込んでしまって……」
そう言いながらシャロンヌは天とリナに頭を下げるように俯く。
「カイトやアクリアもそうだが、この借りいずれ必ずーー」
「気にする必要はない」
シャロンヌが話し終える前に、天が強引に彼女の話を終わらせた。
「俺やリナがこの場まで来たのは、自分でそれを望んだからだ。それは今ここにいないカイトやアクも同じだ」
「なのです」
天の意見に強く共感するように、リナが合いの手を入れた。
「みんなただ自分の意思に従って行動してるだけなのです」
「ああ。俺自身そうしないと気が済まないからそうしているに過ぎない。よって、シャロンヌ殿が俺達に負い目を感じる必要は微塵もない」
「それにカイトさんも言ってたけど、これはもうあたし達の急用でもあるのです。借りとか堅っ苦しいのは要らないの」
「……そうか」
自分はズルい女だ、とシャロンヌは思う。天とリナの応えは、彼女の思った通りのものだった。二人ならきっとそう言ってくれると、シャロンヌは信じて疑わなかった。
ーーそう。わざわざ確認せずとも、自分はとっくに気づいていたのだ。
天やリナ、カイトやアクリアの答えも。
自分自身の気持ちも。
「ありがとう……」
その言葉はすぐさま夜鳥の鳴き声に紛れ、遂に彼女の“仲間”たちの耳に入ることはなかった。
◇◇◇
「……思わしくありませんね」
エレーゼの寝室がある洞窟の前でノート型端末のモニターを凝視しながら、エレーゼの主治医ーー渡良瀬は言った。
「このままでは、エレーゼ殿はあと三時間ももたないかもしれません」
「なんだとっ⁉︎」
渡良瀬の隣で同じくモニターを食い入るように見ていた筋骨隆々の老兵ーーロイガンは、血相を変えて渡良瀬の襟首を掴む。
「渡良瀬、貴様! さっきまで姫にはまだ半日近くの時があると申しておったではないか!」
「状態がさらに悪化したのです。薬の投与は続けますが、正直かなり厳しい状況です……」
「な、何とかせんか! お前は、エレーゼ様の主治医であろうっ!」
「お静かに」
落ち着き払った声と共に、古風なメイド服に身を包んだエルフの女性が洞窟の奥から姿を現わす。
エレーゼの侍女サリカは、ロイガンと渡良瀬に歩み寄りながら言う。
「ロイガン殿、どうかご静粛に。エレーゼ様のお体に障りますので」
「こ、このような時に、お主はどうしてそう落ち着いていられるのだっ。このままでは、シャロンヌ様が参られる前にエレーゼ様は……!」
「シャロンヌ様はきっとお越しくださいます」
その目は言外に、シャロンヌは絶対間に合うと語っていた。
サリカはロイガンから視線を外すと、霞みがかった夜空に浮かぶ朧月を見上げて、祈りを捧げるように目を閉じる。
「どうかシャロンヌ様とエレーゼ様に、三柱様のお慈悲を」
◇◇◇
「カイト君……すまないが、もう一度聞かせてもらえんかね」
珍しくシストの声は震えていた。いや、声だけではない。
「頼むカイト君……。たったいま君が話してくれた事を今一度、儂とマリーに聞かせてほしいのだよ」
手を、肩を、唇を震わせ。シストは明け透けな期待感をその目に宿し、今か今かとカイトの言葉を待っていた。
見ればシストの後ろに控えているマリーも、シストと同等かそれ以上に驚愕の色を瞳に浮かべ、動揺を隠せずにいる。
マリーは、どこか縋るような面持ちでカイトに問う。
「そ、それは本当のことなのよね、カイト……?」
「はい」
爽やかで優しげな何ともいい顔で、カイトは言った。
「兄さんは、人型に取り付けらてしまった状態の『奴隷の首輪』の除去に成功しました。“瘴気”を一切生成させることなく、対象に傷一つ負わせずに」
カイトがそう告げると、マリーは感極まったように両手で口を覆い。シストは自らの手の震えを抑えつけるように硬く大きな拳を握った。
「こんな日が……こんな日が来るなんて……」
「もしやと思っておったが……」
「はい。だからこそシャロンヌさんは、兄さんや自分達にエレーゼさんの事を打ち明けてくれたんです」
カイトのその言葉に、シストは大いに納得したと言わんばかりに深く頷く。と同時に、シストはずっと燻っていた疑問がようやく解消したとでも言いたげな顔で、カイトを見やる。
「では、やはりアリス姫も初めは」
「アリス王女には大変申し訳なく思いましたが」
カイトは言い訳を挟まず頭を下げることで、シストの指摘を肯定した。
「あのまま王女を王宮に戻してしまうのは得策ではないと判断し、誠に勝手ながらこちらの裁量で事に及ばせていただきました」
「“首輪付き”になった王族の扱いは、どこの国もさして変わらんからな……」
シストの顔に暗い影が落ちる。カイトが言わんとすることは、シストにも十分理解できた。
「仮にアリス姫をその状態のまま王国に引き渡したとして、彼女が惨憺たる仕打ちを受けるのは目に見えておる。少なからず『ランド』の国内情勢にも影響が出るだろう。これは結果論になってしまうが、君達の判断は極めて正しいものだったと言えるのだよ」
「ありがとうございます」
シストからの労いの言葉に軽い会釈で応えると、カイトはじっと何かに耐えるように黙したままのマリーに笑みを投げかける。
「エレーゼさんの件が無事に片付いたら、次は『一堂家』に向かうつもりだと、兄さんは言っていました」
「ッーー‼︎」
ビクッと体を跳ね上げ、マリーは言葉を失ったままカイトを見つめた。
「実は兄さんから、マリーさんへの伝言を預かってるんだ」
カイトは微笑み、口調を柔らかいものにして、マリーにそれを告げるーー
「『この件が終わったら俺をジュリの母親の許へ案内してほしい』ってね」
「あ、ああぁ……う、ううぅ……っ」
途端、喉の奥から堪えきれない嗚咽を漏らしながら、マリーはその場で泣き崩れる。
ジュリの母親、それはつまりマリーの姉であった。
「今だけは気の済むまで泣くといい」
そう言ってシストは子供ように泣きじゃくるマリーの肩にそっと手を置く。まるで実の娘を慈しむように、彼の一挙一動にはマリーへの思いやりが込められていた。
「うう、うあぁあああう、うぅああ……ううぁあああっ……!」
実に十一年もの間、胸の内に溜め込んできた声なき慟哭の想いが、大粒の涙となって流れ落ちる。
その涙は、彼女が昼間に流したそれとは違い、暖かな輝き帯びていた。
◇◇◇
最初にその者を視界に入れたのは、夜空を見上げていた侍女のサリカだった。
「あれは……?」
「むっ」
ほとんど間を置かず、ロイガンもサリカの視線を追って上空に目を向ける。ただ彼の場合、その者の気配に気づいたというより、サリカの様子に普通ではない兆候を感じとったところが大きい。
ロイガンは空を仰ぎ見た瞬間、思わず体を硬直させる。
同様に、先にその者を視覚で捉えていたサリカもまた、顔を真上に固定したまま時を止めていた。
「シャロンヌ様……ではない?」
「……人間種?」
宙を舞う人影、淡い月の光に照らされたそのシルエットは、ロイガンとサリカがよく知る人物ーーシャロンヌのものとは明らかに違っていた。
その者はさも当然の如く、呆然とたたずむ二人の目の前に降り立つ。
「まさか“戦命力”の数値が一桁とはな……」
風が鳴る。
されど足音はまったく聞こえなかった。
代わりにロイガンとサリカの鼓膜を揺らしたのは、若い男の声だった。
「どうやら、思ったよりも余裕は無かったらしい」
見た目の若さに反した一分の隙もない端正な佇まい。
服の上からでも分かる鍛え抜かれた強靭な体躯。
「ーーだが、ひとまず間に合ったようだ」
そこに立っていたのは。どこか底知れぬ凄みを感じさせる。
ひとりの人間の若者であった。




