第84話 目的の地
《冒険士協会本部・最上階》その一角に設けらた冒険士協会会長シスト専用のVIPエリアへ行くには、同じく専用のエレベーターを使わなければならない。そしてそのエレベーターを使用するにも専用のカードキーが必要となり、カードキーは本部一階にある総合受付で、担当の者から直接手渡される。
つまり、この場に入ることができる者は特別な地位にある者か、何らかの理由でシストがそれを認めた者のみという訳だ。
まあ、いずれにせよシストの許可を得ねば、シスト本人とその秘書であるマリー、それに一部のスタッフを除き、ひとりの例外もなく勝手に立ち入ることは許されない場所なのだが。
現在の時刻は1時30分。
「ふう……」
彼は緊張した面持ちで、このエリアの中でも一際大きな存在感を放つその部屋の前に立ち、一つ深呼吸をして、身だしなみの最終チェックを行う。
「ーーよし」
黒い木製のドアがコンコンとノックされた。「入りたまえ」というシストの言葉と共に、会長室の扉がゆっくりと開かれる。
「失礼します」
一礼して部屋の中に入ってきたのは、《冒険士協会・零支部》の支部長を務めるエルフの青年ーーカイトだった。
「そう畏まる必要もないのだよ、カイト君」
身を硬くして部屋に入ってきたカイトを見て、シストは苦笑いする。
「もっと楽にしてくれて構わんよ」
「いえ、自分はこのままで」
カイトは姿勢を正したまま、軽い会釈でシストの声に応える。
「そうかね? 君やアクリア君なら、何だったらノックをせずにこの部屋へ入ってきてくれても、儂は一向に気にせんのだがね」
「会長、それはさすがに問題では……?」
眼鏡の端を持ち上げながら、マリーは呆れ声をこぼした。すると、シストは意地の悪い笑みを表情に含ませる。
「なんだ、いかんのかねマリー」
「いけないもなにも、ここは仮にも冒険士協会のトップの部屋ですよ?」
「ふむ。儂の記憶が確かならば、君も先ほどまでは、ノックもなしにこの会長室を行き来しておった気がするのだがね?」
「あ、あれは緊急事態につき止むを得ずと言いますかっ」
例によってシストとマリーがたわいもない言い合いを始めそうになったところで、「コホンッ」と小さな咳払いが二人の耳に届いた。
両者ともにハッとして、すぐさまカイトの方へと顔を戻した。
「失敬。それでカイト君、あの二人の容体はどうかね」
「まだ目を覚ましませんが、前もってお伝えしましたように、命に別状はないと思われます」
シストの質問に対し、カイトは淀みのない口調でそう答える。実を言うと、カイトはそれとは別の要件で会長室を訪れたのだが、現状を鑑みれば、シストのこの早合点もまた当然のものと言えた。なので、カイトはそちらから先に報告することにした。
「シャロンヌさんが言うには、アリス王女達は魔力で無理矢理昏睡状態にさせられている可能性が、極めて高いそうです」
「やはりか。幽かだがアリス姫からは“呪術”の気配が感じられたのだよ。おそらく、攫われた時に何らかの術式を奴等に掛けられたのだろう」
「はい。ただこの術の持続時間は長くても二日程度だそうで。直に王女達も目覚めると思われます」
「ふむ。ならば良かった」
「念のため、お二人には今アクリアが『レベルフォー』の回復魔技を施しています」
「正しい判断ね」
「うむ。アリス姫達を誘拐したのは他でもない奴等だ。たとえ目立った外傷が見当たらずとも、姫達が眠りの呪術以外にも何らかの危害を加えられている可能性は、十分考えられるのだよ」
「……それとなんですが」
カイトは、少々強引にアリスの話を一旦区切る。普段の彼は鷹揚で、人の話を途中で区切るような真似はまずしないのだが。
「シスト会長、少しお時間をいただけますか?」
この時ばかりは話が別だった。もとより、カイトの真の要件は他にあるのだ。
カイトは、意を決したように本題を切り出す。
「会長とマリーさんに、内密のお話がーー」
そこで急にカイトは言葉を止めた。
カイトは後ろを振り向き、鋭い眼光で会長室の扉を見据えた。
シストとマリーは、何事かとカイトのそれに倣うように扉に視線を移す。
「……会長。今日この時間に、来客の予定は?」
カイトが神妙な声でそう訊ねると、
「いいや」
シストはスッと表情の色を消した。
「今のところ、そういった予定も連絡も入っておらんはずだが」
そう言いながら、シストは静かに闘気を漲らせる。曲がりなりにも世界に六人しか存在しない『Sランク冒険士』ーーカイトの一連の言動からまだ状況を理解できぬほど、シストは鈍くなかった。
そしてマリーも。
「エレベーターのドアが、開いたわ……」
ゴクリと喉を鳴らし、マリーはそう呟く。
シストはおもむろに立ち上がった。
「どうやら、招かざる客が来たようだね」
「招かざる客というのは当たっていますが、とりあえず敵ではないようですね」
明らかに他意のあるカイトの言葉から一拍置いて、会長室の扉がノックもなしに開いた。
「やあ、ハニー♪ こんな深夜まで仕事なんて、相変わらず真面目だね〜」
「ぷっぷ〜〜。シスト会長、夜分遅くに失礼するのだ。つまり、お邪魔しますってこと」
まったく悪びれる様子もなく部屋に入ってきたのは、その場にいたシスト、カイト、マリーのよく知る、見知った顔の冒険士二人組だった。
「ナイスン、どうしてここに……」
「ふぅ、サズナ君までおるのかね」
マリーとシストは、揃って憮然とした表情を浮かべ、突如現れたサズナとナイスンに目を向ける。
……これはある意味、敵よりもたちが悪いかもしれないな……
飄々とした態度の問題児二人を横目に、カイトの頭は本格的に痛み出した。
◇◇◇
暗躍する影たちは、決まって闇を好むもの。そこは月の光すら届かない、深い深い森の奥……
「ちょっと、ちょっとちょっとちょっっと〜〜‼︎」
何処からともなく、不気味な金切り声が聞こえてくる。
「なんでアタシの『オークキング』ちゃんの反応が、あっという間に消えちゃったわけ〜っ⁉︎」
その場には誰もいないーー人はおろか、森に住む虫や動物すらも。
「マジ意味分かんないんですけど〜! ーーあ、もしかして、もしかして! “天撃”や“嵐の皇帝”でも来ちゃったのかしら?」
ただ人の声だけが、真っ暗闇の中から流れてくる。薄気味悪く、耳にまとわりつくような……婀娜っぽい女の声が。
「まいっか」
謎の声の主は、実に軽い調子で言う。
「材料さえあれば、どうせいくらでも造れちゃうしねん。とりま、早く帰って次の遊びの準備に取り掛からなくっちゃ♪」
不吉な予感めいたものをちらつかせ、女の声はその場からどんどん遠ざかって行く。
「で・も・ね〜」
彼女は去り際に、声の調子を地の底まで下げて告げるーー
「誰だか知らないけど……この借りはいずれ必ず返すわよ」
悪意を孕んだ呪詛の言葉を残し、謎の女の声は漆黒の空へと溶けていった。
◇◇◇
自分勝手に場を荒らしたグループと、いきなり何の前触れもなく緊張感を壊されたグループを一つの部屋に一緒くたにして放り込んだ場合、きっと目も当てられない空間が形成されるに違いない。
現に此処《冒険士協会本部・会長室》もまた、そのご多分に漏れず、何とも名状しがたい雰囲気に包まれていた。
カイトは、あたかも規律を重んじる軍人のように言う。
「シスト会長、一つ進言させていただいてもよろしいでしょうか」
「……なにかね」
「今後のことも考えると、一階の総合受付にも最低一人は男性の従業員を配置するべきかと愚考いたします」
「前向きに検討しよう」
シストは、激しい頭痛を堪えるようにこめかみを押さえながら、カイトの助言をすんなり聞き入れた。
「一番悪いのはもちろんアイツですが、仮にも本部の窓口を預かる者が、こうもあっさり籠絡されるのは如何なものかと」
「まったく困ったものだ……」
シストは深くため息をつく。
カイトが言わんとしていることはシストにもすぐ分かった。というより、シストもカイトとまったく同じことをこの惨状を前にし、苦慮していた。
「久しぶりだね、ハニー」
「ナイスン、あなたどうやってこの場所まで入って来たの?」
ナイスンの軽口には付き合わず、マリーは小刻みに肩を震わせ、どこまでも低い声でその事をナイスンに訊ねる。彼女のその様は、まるで自分の感情を必死に抑え込んでいるようであった。
そんなマリーの心境を知ってか知らずか、ナイスンはへらへらと軽薄な笑みを浮かべて答える。
「そりゃあもちろん、ハニーのことを考えてたら、いつの間にかここにいたのさ」
「誤魔化さないでっ!」
我慢の限界は早くも訪れた。マリーは、堰を切ったように声を荒げる。
「『会長室』が設けられたこのエリアは、シスト会長の許可がないと、通常絶対に立ち入れないはずよ!」
「あれ? おっかしいなぁ〜」
ナイスンは、いかにも態とらしく惚けた調子で首を傾げる。
「あのプリティな受付嬢の子は、俺が『会長に緊急の用がある』って言ったら、快くエレベーターの鍵を開けてここへ通してくれたけど」
「やっぱり、いつもみたく受付の娘を誑かしたのね……!」
「誑かしたなんて人聞きが悪いなぁ。あ、もしかして彼女に嫉妬しちゃったのかい?」
「ッ! そんな事、あるわけないじゃないっ!」
マリーはさらに声に怒気を宿す。
「あなたと私は、とっくの昔に終わってるのよ‼︎」
「フフ、相変わらず怒った顔もチャーミングだね、ハニーは」
「からかわないでちょうだい!」
それはどんなに贔屓目に見てもこのような場でする内容の会話ではなかった。ナイスンはともかく、少なくともマリーの方は、自分の立場を考えて自重しなくてはならない場面だ。
だがしかし、マリーの上司であるシストも、その光景を特等席から眺めざるを得ない状況のカイトも。とてもマリーを責める気にはなれない、という表情を浮かべていた。
「お願いだから、すぐにこの部屋から出ていって」
「ハニーが俺と一緒に夜の街に繰り出してくれるんなら、喜んで♪」
「っ〜〜!」
マリーは顔を真っ赤にして、恥辱と怒りに身を震わせる。これ以上、自分の所為で場が混乱するのは、彼女には耐えらなかった。
ーーこの男は自分に会いにここまで来たのだ。
下唇を噛み、固く握りしめた拳をぷるぷると震わせて、マリーは堪らずといった様子でナイスンから顔を背ける。
マリーがナイスンの事で責任を感じているのは、誰の目にも明らかだった。
無論、マリーは悪くない。悪いのはどう考えてもナイスンの方だ。むしろマリーは被害者と言えるだろう。だが今の彼女にとって、それは傍から見ればの話でしかない。マリーにとって重要なのは、あくまでナイスンがここに来た訳ーーこの場にいる理由である。
「もう、私に構わないで……」
今にも消え入りそうな声でそう言うと、マリーは沈痛な面持ちで顔を伏せる。己の立場に誇りと強い責任感を持つ彼女だからこそ、今のこの状況は耐え難いものなのだろう。
「ーーまるで呪いだな」
抑揚のない声音で放たれたそのセリフは、遠慮も情も一切感じられなかった。
カイトが思ったことをそのまま口に出すと、ナイスンは一旦マリーとの会話を止め、カイトの方へ向き直る。
「おやおや〜、ここに場違いなのが約一名いるな〜? 正直目障りだから、できれば今すぐ俺の視界から消えてほしいんだけどさ」
「棚上げもそこまでいくと立派な技術だな。とりわけお前のその軽い頭の中には、目を覆うばかりの大量のウジが湧いているんだろうね」
「ハッ、あーやだやだ。そういうのを負け犬の僻みってーー」
「ぷっぷ〜、言えてるのだ。つまり、カイトお兄ちゃんにまったく同感ってこと」
手を頭の後ろで組みながら、サズナは毒を吐き続けるナイスンを遮り、あっけらかんとカイトの主張に相槌を打った。
同時に、ナイスンが目を剥く。
「なっ、えぇえ⁉︎ ちょ、ちょっとサズナ! キミは、いったいどっちの味方なのさっ!」
「ぷっぷっぷ〜〜、僕ちんはいつだって僕ちんの味方なのだ。つまり、言うまでもないってこと」
サズナは涼しげな顔で、ナイスンのクレームを右から左に聞き流す。
「少しいいかね」
様々な会話が飛び交う中でも、その声ははっきり皆の耳に届いた。音量は決して大きくはなかったが、シストが発した言葉には、有無を言わさぬ迫力と統制力があった。
「ナイスン。お前は儂に緊急の用があると言っていたが、それは一体どんな用事かね?」
シストは自らの会長席に座したまま口の前で手を組み、ナイスンに鋭い眼光を突きつける。
「へ? ……え、えっと〜、それ気になっちゃいます、やっぱ?」
「当然なのだよ」
ナイスンの軽口を正面から受け止め、シストは重々しく頷いてみせる。
「その理由を聞いた上で、お前達二人が無断でここまでやって来たことに対して一考の余地があるかどうか、厳密な判断を下そう」
「アハ、アハハハハ……」
乾いた笑いを漏らし、ナイスンは顔を引きつらせる。シストの猛虎のような苛烈な眼光、重厚なプレッシャーは、いちナンパ男の手に負えるものではない。その事については、ナイスンの隣に並んで立つ彼女も、最初からコレには何の期待もしていなかった。彼女がナイスンを引き連れてシストのもとへ来たのは、あくまでそれらしく見せる為だ。
「ぷっぷ〜」
その時、選手交代とばかりに少女は動くーー
「ナイスンの話には、ちょっと語弊があるのだ」
「語弊とはどういうことかね、サズナ君?」
回答者の変更と共に、シストはナイスンに向けていた厳しい眼差しと変わらぬものを、サズナに注いだ。対して、サズナはいささかも気後れすることなく答える。
「どっちかというと、会長が僕ちんたちに用があるならと思って来たのだ。つまり、僕ちんたち『ハイクラス』の力が必要かどうかってこと」
「……なるほどな」
それで納得したわけでもないだろうが、シストは建前上、サズナの言い訳に不本意ながらも頷く。
ナイスンは当然として、サズナの真意が別にある事はシストも分かっていた。分かってはいたが、
「ちょっとの間だけとはいえ、本部の一階ゲートを閉鎖するなんてただ事じゃないのだ。つまり、緊急事態ってこと」
「むぅ」
シストの表情がわずかに渋く歪む。
サズナの言い分は先刻までの冒険士協会本部の慌ただしさと照らし合わせて、いちおう筋が通ったものだった。こういう時、『心配で駆け付けた』というのは実に使い勝手のいい口実だ。
シストは人知れず頭を抱えた。たとえ虚偽であったとしても、Aランク冒険士自らの助力の申し出である。ここで下手にサズナやナイスンに厳罰をもって脅しをかけようものなら、この場のみならず、後々あらゆる方面でしこりを残す恐れがあった。
サズナは、ここぞとばかりに会長席に座るシストの前まで歩み寄ると、迫真の演技で語る。
「会長の許可なく勝手にここまできたことは謝るのだ……でも、僕ちんもハイクラスの冒険士として何か力になりたいのだ! つまり、いても立ってもいられなかってこと!」
抜け目も恥も外聞もなく、利用できるものは何でも利用する。それが若干十二歳にしてAランク冒険士の称号を掴み取った希代の英才ーーサズナの真骨頂である。
「シスト会長。先ほどの件なのですがーー」
ただサズナにとって誤算があったとすれば、この時この場に彼がいた事だろう。
「恐れながら、どうしても会長のお耳に入れておきたい重要案件がございます」
「ぷー、カイトお兄ちゃん……?」
熱弁をふるうサズナの横に並ぶかたちでシストの真正面に立ったのは、カイトだった。
シストはカイトと一瞬だけ視線を交わし、顔の前で組んでいた手の下から覗く口元をニヤリと吊り上げる。
「聞こう」
特に台本を用意していたわけでもないが、シストのその応答はカイトの注文通りのものだった。
カイトは背筋を伸ばしたまま軽く一礼する。
「ありがとうございます」
「もしも〜し、今サズナが会長と話してるところじゃんか。なに、見えないの? 目が悪いの、お前?」
「お話をする前に、シスト会長に人払いを願います」
悪態を吐くナイスンを完全に無視し、カイトはシストに理解を求める体でその言葉を紡いだ。
「先ほども申し上げた通り、これは他聞を憚る用談ですので」
「相分かった」
力強く声を張って、シストはカイトの要求を飲むと皆の前で宣言した。そして、どこか芝居がかった態度でサズナとナイスンを見やる。
「サズナ君、それにナイスン……聞いた通りなのだよ」
二者に反論の暇を与えず、シストは続ける。
「はるばる足を運んでもらったところ悪いが、昨日から色々と立て込んでおってな。つい先程ようやく事態が収拾し、これからカイト君に事後報告も兼ねて諸々の話を聞こうとしておったところなのだよ」
「ふ〜ん」
「ぷ〜……」
ナイスンはまるで興味なしといった感じでシストの話を聞いていたが、サズナの顔には、はっきりと敗北の色が浮かび上がる。
遠回しに帰れと言われただけではなく、『もうやる事はない』とさりげなく付け加えられた日には、流石のサズナも引き下がるしかなかった。もともと、サズナはシストの仕事を手伝う前提で天の居場所を訊き出そうとしていたのだから。
「サズナ君の気持ちはとても有難いが、カイト君と内々の話もある。また次の機会によろしく頼むのだよ」
「ぷっ……ぷぅ」
なまじ先に『自分達の力が必要か否か』とシスト自身に決めさせようとしたが為に、もはや部屋を出ていくしか選択肢がなくなってしまった。策士策に溺れるとはこの事だろう。
「じゃ、じゃあ、最後にちょっとだけ僕ちんから会長に質問がっ」
「別に人払いなんかする必要ないでしょ」
サズナの最後の悪あがきに横入りするかたちで、ナイスンは耳を小指でほじりながら言う。
「どうせカイトがする話なんて、大したもんじゃないだろうし」
瞬間、その場が凍りついた。
「……いかんな、どうも年のせいか耳が遠くなっておるようだ。悪いがナイスン、今のセリフをもう一度言ってもらえんかね?」
「ナイスン、あなた何てことを言うの!」
「ぷぅぅ」
サズナは思ったーーこの男は本物の馬鹿なのだ、と。
「だって本当のことでしょ? 所詮、カイト程度が持ってきた話なんてたかが知れてるよ」
シストの警告を完璧に無視して、ナイスンはさらに悪舌を振るう。
冒険士に限ったことではない。たとえ冗談でも、いかな相手が方便を使っていたとしても。組織間のブラックボックスを軽視するような発言はそれ自体が禁句、御法度である。
……僕ちんとしたことが、見通しが甘かったのだ……
サズナは自らがミスを犯した事を認識した。
せっかく自分が機転を利かせても、ナイスンはそれら全て台無しにしてしまう。ナイスンをこの場に同行させたのは失敗ーープラス要素よりマイナス要素の方が遥かに大きかった。
「シスト会長ーー」
だがこの時、サズナも、マリーも、シストすらも重大な思い違いをしていた。
「ーーお人払いをお願いします」
この場にいる誰しもが見誤っていたのだ。彼がどれほどの覚悟を持って、『その話』に臨もうとしていたのかを。
「もし万が一これからお話しする内容が他者の耳に入るような事があれば、俺はその者を斬らねばなりません」
そう言ってカイトは左手でドバイザーを操作し、右手に剣を顕現させる。
「ハッ、なにマジになってんだよ、コイツ」
殺気立つカイトを詰るように、ナイスンは挑発的な笑みを浮かべる。
「そもそも、お前みたいな雑魚が俺やサズナに勝てると思ってんの?」
「ぷっぷ〜、今はそういう事を言ってるんじゃないのだ。つまり、ちょっとは空気読め馬鹿ってこと」
「ほら、サズナもご機嫌斜めになっちゃったよ。どうすんのこの空気? このバ〜カ」
「馬鹿はお前に向けて言ったものだろ」「馬鹿はナイスンのことを言ったのだ。つまり、それぐらい分かれアホってこと」
カイトとサズナが声を揃えて、それぞれクエスチョンとアンサーを提示する。
直後、ナイスンが狼狽えながらサズナに駆け寄る。
「おいサズナ! 何で俺の方がバカ呼ばわりされなくちゃいけないんだよっ⁉︎」
「事実を言ったまでなのだ。つまり、何が悪いの? ってこと」
「こ、コイツはこんなところで剣を抜いたんだぞ⁉︎ どう考えてもバカなのはコイツの方だろ!」
「ぷっぷ〜、ナイスンは本当に顔と魔力以外はダメダメなのだ。つまり、処置無しってこと」
「くっ、あんまり俺を見くびるなよ」
そう言いながらナイスンも右手にドバイザーを構えた。
「カイトなんて、昔から俺の足下にも及ばないヤツなんだよ! 今それを証明してやる!」
「止めておくのだ、ナイスン」
サズナはナイスンを制しながら、いつになく神妙な面持ちでカイトのことを見つめる。
「今のカイトお兄ちゃんは、『1000マッシブ』を軽く超えているのだ。つまり、ナイスンじゃまず敵わないってこと」
「せ、1000マッシブだって⁉︎ ……って、なんだいその『マッシブ』って?」
「ーー二人とも、無駄話はその辺で切り上げてほしいのだがね」
焦燥を帯びた言がサズナとナイスン会話を断ち切る。静かに、けれど確かに、シストは憤怒していた。サズナやナイスンに、ではない。他ならぬ自分自身に対して、シストは激しい憤りを覚えていた。
ーーもっと早くに気付くべきだった。
思えば、この部屋に来たその時から、カイトの様子はどこか張り詰めていた。加えて、カイトは持ち場をアクリアに任せて、シストのところにやって来たのだ。単なる事後の連絡なはずがない。
ーーそして決死とも言えるその覚悟。
間違いない。シストは確信した。カイトは天に何らかの言伝を託され、自分に伝えようとしているのだ、と。
当然、その内容を知るカイトは、それが天にとってどれほどの機密かを理解し、同時に天の諸事情を重く受け止めている。
奇しくもそのカイトの姿勢は、『世界五大勢力』の首脳陣を相手に一歩も引かず、遂には天の秘密を一言も漏らすことなく遣り果せた、シスト自身の姿と酷似していた。
「いらっしゃい、ナイスン」
シストからの指示はなかったーーが、シストが動くよりも先に、マリーが行動を起した。
「あなた、本当はシスト会長じゃなくて私に用があったんでしょ?」
「え、ま、まぁ……」
「下でお説教のついでに話ぐらいなら聞いてあげるから、ついてきなさい」
言いながら、マリーはカイトとナイスンの間に割って入るように両者の真ん中に立ち、ナイスンに自分と共に来るよう促す。
「へ? いいのかい?」
「勘違いしないでほしいのだけれど、あくまでお説教のついでよ」
途端、ナイスンの表情がパッと明るくなる。
「アハッ。ほんと素直じゃないよね、ハニーは♪ オッケー。早速、近くのバーにでも行こうか」
「馬鹿言わないで。私はまだ勤務中よ。いま一階の事務室を開けるから、話はそこでするわ」
素っ気なくそう言い放つと、マリーはシストの方にくるりと体を向き直し、丁寧にお辞儀をする。
「よろしいでしょうか、会長?」
「うむ……」
シストの返事は歯切れの悪いものだった。ただそれは勝手に話を進めた部下への不信感からくるものではなく、自ら損な役回りを買って出てくれた彼女への労り気持ちがこもっていた。
ナイスンにこの場から居なくなってもらうには、自分が連れ出すのが一番確実ーーそう思ったからこそ、マリーはナイスンへの態度を一変させたのだ。彼女もシスト同様、カイトの一連の言動を目の当たりにして、すぐにその覚悟の訳を悟ったから。
「行くわよ、ナイスン。それとサズナさんも一緒に来てちょうだい。受付係の子ともども言っておきたい事があります」
「フフ、りょ〜かい」
「ぷぅ……」
案の定、ナイスンから反発の声は上がらなかった。同じくサズナも、ようやく諦めたと言った感じで渋々とマリーの背に続いた。
「そうと決まれば、善は急げだね」
「ちょ、ちょっとナイスン」
まるで水を得た魚のようにと言うべきか、ナイスンは生き生きとマリーの手を引きながら、一目散に部屋から出ていこうとしたーー
「悪いけど、それは容認できない」
だが、それはすぐさま未遂に終わる。突如放たれた鋭い声と共に、マリーを連れ出そうとしたナイスンの腕が第三者に掴まれたのだ。
「……離してくんない、この手」
「今言ったばかりだと思うが、それは無理な相談だ」
ナイスンの腕を掴んだまま、カイトは彼の申し出を丁重にお断りする。
「あのさ、俺、男に腕を握られて喜ぶ趣味ないんだわ」
「見れば分かるよ、そんな事は。むしろその不誠実を絵に描いたような顔を見て、気づかない方がどうかしてる」
「そうかい……じゃあ、さっさとこの手を離せよっ!」
「断る」
「カイト……?」
マリーはカイトの方へ顔を向けると、その真意を測りかねる、といった表情で彼を見つめる。
ナイスンは、あからさまな不機嫌を表に出して吐き捨てた。
「ていうかさ、お前って会長に大事な話があったはずだろ? ハニーとサズナのエスコートは俺が引き受けるから、あとは好きなだけ野郎同士でお話してろよ」
「どうも誤解があるようだが、俺がその事柄を伝えるべき相手は、何もシスト会長ひとりじゃない」
カイトはふっと微笑み、その視線をナイスンからマリーに移す。
「彼は、マリーさんにも話してくれと言っていた。……いや、マリーさんにこそ聞いて欲しいと、彼は言っていたんだ」
「ッーー‼︎」
その瞬間、マリーの胸の奥底から途方もない幸福感が込み上げてきた。気づけば、それまでの気苦労や昼間受けたショックすらも、跡形もなく消えさっていた。
「本当に……?」
思わず訊き返してしまったマリーへ、カイトは優しく頷いた。途端、マリーは目に涙を浮かべ、ナイスンに掴まれていない方の手で口元を覆う。嬉しかった。こんなに幸せを感じたのは一体いつぶりだろうか。マリーは覚えていなかった。
マリーは、ナイスンに引かれていた手を強引に振り払う。
同時に、カイトもナイスンの腕を離した。
「なっ⁉︎」
「……ごめんなさい、ナイスン」
丸くした目で自分を見るナイスンへ、マリーは実に数年振りとなる作り物ではない本物の笑顔を、直接彼に向けていた。
「どうしても外せない大切な用ができちゃったみたい。だから、あなたとの話はまた今度にするわ」
「そ、それじゃ話が違うっ」
と。
ナイスンの未練たらしい言葉が最後まで発せられることはなかった。
空気を裂くような高速の蹴りが、ナイスンの頭部目掛けて打ち込まれたのだ。
ブワッとナイスンの長髪が勢いよく巻き上がった。
マリーとサズナが思わず息を呑む。
唯一カイトだけが眉一つ動かさずに、いつの間にかそこに立っていたその男に目を向けていた。
「儂は何度も警告したつもりだったんだがね。とっとと『出ていけ』と」
見れば、シストが放った上段蹴りが、ナイスンの耳元すれすれの位置で止まっていた。
「あぅ、ぁ……」
ナイスンは、腰を抜かしてその場でへたり込む。
「ナイスン、これが最後通告だーー」
シストはナイスンを見下ろしながら言う。
「直ちにこの場から立ち去るのだよ。さもなくば、お前を不法侵入してきた賊として処分させてもらう」
「おお、横暴だよ、こんな仕打ちは‼︎」
「止めておくのだ、ナイスン」
ひどく真剣な顔つきで、サズナはシストを見据える。
「シスト会長のマッシブ値は『約3000』……つまり、ナイスンじゃ逆立ちしても勝てないってこと」
「だからさっきからなんなんだよ、その『マッシブ』っていうのはさっ⁉︎」
「そういう一丁前の口を利くのは、最低でも『500マッシブ』を上回ってからにするのだ。つまり、モヤシにはまだ早いってこと」
「サズナさん、一つ訊きたいことがあるんだけど」
謎の言葉を連呼するサズナにまるで気後れすることなく、カイトはごく自然に彼女に話し掛けた。
「サズナさんがここに来た『もう一つの理由』は、結局何だったのかな?」
「ぷぷっ!」
この瞬間、サズナの中でカイトは数少ない尊敬できる大人のカテゴリーに区分された。
カイトは、『本当の理由』ではなく、あくまで『もう一つの理由』としてサズナに質問した。それは『シストの手伝いをしにきた』と公言してしまったサズナへの配慮であり、また彼女が少しでもその真意を話しやすくする為の方便でもあった。
チャンスはもうここしかない。サズナはカイトの心遣いに感謝しつつ、興奮気味に答える。
「僕ちんは“筋肉の君”の居場所を訊きに来たのだ! つまり、あの人を探してるってこと‼︎」
「「筋肉の君?」」
シストとマリーは、サズナのその回答に揃って頭の上に疑問符を浮かべた。
「生憎、兄さんは今ここにはいないよ」
けれども、カイトは然も当然のように会話を継続した。もはやサズナの中でのカイトの評価は最上位に位置されていた。
最初からカイトに訊いておけばよかった、と頭の中で唱えつつサズナは続ける。
「あの人がここに居ないのは分かっているのだ。つまり、筋肉の君が向かった先を知りたいってこと」
「……だったら、俺とひとつ取引をしないかい?」
サズナの要求に一瞬だけ何かを思案するように目を閉じた後、カイトはキャラに似合わず、うっすらと人の悪い笑みを浮かべた。
「コレを本部の裏に流れてる川に捨ててきてくれないかな? そしたら、兄さんの行き先をサズナさんに教えるよ」
言いながら、カイトは足元でへたり込んでいたナイスンを指差す。
「はあっ⁉︎ お前、何ふざけたこと言ってん、うぇっ!」
「ぷっぷ〜、お安い御用なのだ。つまり、交渉成立ってこと!」
ナイスンの首根っこを掴み上げ、サズナは満面の笑みでカイトに敬礼する。
ちなみに、冒険士協会協会本部の裏手に流れている川の流域面積はこの世界で三番目に広く、さらにこの周辺のポイントは川の流れも速い。その上、この時期の夜の川の水温は余裕で10℃を下回る。
カイトは、とても爽やかな笑顔で言った。
「兄さんが向かった先は、『ソシスト共和国の西部国境地域』だよ。正確な場所までは俺も知らされてないけど、あの辺りにある山のどれかって言ってたな」
「ちょっとカイト!」
「それだけ分かれば十分なのだ!つまり、カイトお兄ちゃんありがとう、ってこと」
サズナはマリーの声を押し退けてカイトに礼を言うと、右手にナイスンを持って、さっさと会長室のドアへ足を向ける。
「おい、ちょ、冗談じゃだろ、サズナ⁉︎」
「ぷっぷ〜、百パーセント本気なのだ。つまり、悪く思わないでってこと」
「ふざけんな‼︎ もし本当にそんな事やってみろ! いくらキミでも絶対許さないからなっ‼︎」
「うるさいのだ」
次の瞬間、サズナの右手に黄色い閃光が走る。
《雷貫》
「ぐげっ」
ビクンッと体を仰け反らせ、潰されたカエルのような悲鳴を上げた後、ナイスンはピクリとも動かなくなった。
「ぷっぷ〜、では、僕ちんたちはこれで失礼するのだ。つまり、お騒がせしましたってこと」
サズナは上機嫌に手を振りながら、気絶したナイスンを引きずって鼻歌交じりに部屋を出ていく。
シストは苦笑し、マリーは呆れながら、そしてカイトは涼しげな顔でそれを見送った。
◇◇◇
《ソシスト共和国・西部国境地域》
「ここからは徒歩だ」
それだけ告げると、シャロンヌは我先にと矢継ぎ早に動力車を降りた。既にほぼ森の中にいる為か、冷たい夜気に紛れて虫の声が聞こえてくる。
逸る彼女に遅れることなく、動力車の前席のドアが左右同時に開く。
天とリナは動力車のドアを後ろ手で閉め、無駄な動作を挟まず迅速にシャロンヌのもとへ駆け寄る。
「こっちだ」
近寄ってきた天とリナの方へわずかに首だけ振り向いて、シャロンヌはついて来てくれと二人に合図を送る。天とリナは、余計な問答はせずに黙ってシャロンヌの背に続いた。
「ーーこの辺りは来たことがないの」
急勾配の獣道を走り始めてから少しして、リナが周囲を確認しながらそう呟く。といっても、周りはいわゆる夜の森で、景観はおろか視界すらほとんど利かない状態だ。さりとて、獣人の彼女には違う景色が視えているのかもしれないが。
「ここは……」
一方、天はどこか落ち着かない様子で、周辺一帯の暗がりに目を配らせていた。それはとても珍しい光景と言えた。天は用心深い男だが、見苦しくその様を表には出さない。他者に悟られるような目立った感情の起伏は見せない。筈なのだが……
「………………」
今の天は、明らかに何かに気を取られていた。
「ーーあそこだ」
動力車は出てから五分ほど走り続けて、ようやくシャロンヌは一度立ち止まった。
シャロンヌは、この辺りでもひときわ高い山を指差して言う。
「エレーゼが居る集落は、あの山の中腹に位置する峡谷の中にある」
「ッ!」
シャロンヌに告げられた目的地を眼前にして、天は思わず目を見張った。実際、天はここへ来る道すがら、『オークキング』の討伐に向かった時も、動力車の中でシャロンヌやリナと話していた時もーー「もしかしたら」という思いがあった。
そして、彼の予感は当たった。
「まさかとは思ったが……」
天は我知らず頭に浮かべた言葉を吐露していた。
シャロンヌが指し示したその場所は、天がこの世界へやって来た始まりの地。
彼が以前に住んでいた世界でいうところのーー
“花村天の実家”であった。




