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三題噺 第27話

作者: 水平斜面

三題噺 第27話

 お題 アナウンサー、病院、チョコレート


   ◇


診療報酬


 よくある他愛のない噂話だと思っていた。

 実体のない薄っすらとした恐怖だけを流布する都市伝説の一種、そう思っていたのに。本気になって探せば、こんな簡単に辿り着けるものだったなんて、この目で見た今でも、まだ信じられない。そんな気分で、半ば呆然とその建物を見上げる私を置いて、タクシーは走り去って行った。

 そこは、法外な治療費と引き換えにどんな病気でも治すと、噂が囁かれる病院。見た目は小ぢんまりとした白い普通の病院だ。エントランスの車寄せの前には、緑の庭が整えられている。平日の日中、郊外に立地する病院の周りに人通りはない。病院そのものは、病院特有の静謐な静けさを湛え、人々の喧騒はない。ひっそりと静まり返るロビーに足を踏み入れると、それでも幾人かの患者らしき姿が、待合の椅子に腰掛けているのが目に入り、ほっと息をつく。

 安心と同時に、やはり都市伝説に過ぎないのかと、疑う気持ちが首をもたげる。しかし、まずは診療して貰わないと話は始まらない。そう言い聞かせて、窓口に保険証を提出した。


 待ち時間は、それほど長くはなかったような気がした。

 総合診療と書かれたプレートのかかる診療室に通されると、温厚そうな医師が着席を促した。どう話を切り出したものかと思っていたが、医師が手元の資料をぱらぱらと捲って、先に口を開いた。医師の言葉は、耳に優しく染み入るように聞こえた。受付で記入した問診票の記述を確認しているだけなのに、不思議と、何もかもを理解されているような気になる。声が嗄れて治癒の見込みもないアナウンサーなどという絶望の淵に立たされていた私の心そのものも、ゆっくりと揉み解されていくようだった。

 夢心地のまま診察を終えて、医師の出した処方箋を院内の薬局に持ち込むと、薬剤師は、銀紙に包まれた一口大のチョコレートをお皿に乗せて差し出した。尋ねると、薬剤師はにっこりと蕩けるような笑顔を浮かべて、先生が処方されたものです、チョコレートはすぐに溶けてしまいますから、騙されたと思って服用してみて下さいと言う。チョコレートを指で摘み上げ、なおも訝るような目で見ていると、薬剤師は、チョコレートをすっと掠め取り、私の口元に寄せてきた。薬剤師が顔を寄せてきて、安心してと囁く声が耳をくすぐる。私は、唇に当てられたチョコレートの香りに誘われるように、口を開けた。


 はたと気がつくと、帰りのタクシーの中だった。キツネにつままれたような気持ちのまま家に帰る。玄関のドアを開けて、いつものように、誰に聞かせるわけでもないただいまを口にした時、私ははっと口を押さえた。

 声が、透き通る。

 不調だったはずの喉には痛みを感じることもない。

 以前よりも、もっと澄み渡る、蕩けるような声が、私の喉からこぼれていた。その感動に1曲歌いだしそうな気分だったが、はたと治療費のことに気付き、顔が青ざめる。都市伝説を信じるならば法外な治療費を請求されるはずなのだ。支払を行った記憶が曖昧で、あわててバッグを漁ると、保険証はちゃんと財布に収まっていた。しかし、領収証には数字の記載が一切なく、手書きのメモ用紙が一枚添付されていた。

『具合が良ければ、お代にあなたの声を病院のアナウンスに使わせて頂きたいと思います』

 そう書かれたメモを見て、きょとんとする。深呼吸して、グラスで水を飲み、ソファに腰を下ろし、気を落ち着かせるが、いくらひっくり返してみても、透かしてみても、やはりそうとしか書かれていなかった。


 それからは、全てが順調に流れた。

 喉の不調から復帰した私は、前よりも格段に良くなった声を武器に仕事の数も一気に増して、忙しい日々を送ることになった。心のどこかで、あの病院にお礼をして、それからアナウンスを吹き込みにいかないとと思っていたが、なかなか機会を見つけられず、月日は過ぎていった。

 けれど、チョコレートは、やがて溶ける。薬剤師もたしかそんなことを言っていたのではなかったか。ある時を境に急に掠れてきた声に焦りを感じ、再びあの病院へとタクシーを走らせた。

 ロビーに患者の姿はなく、病院はひっそりと静まり返っていた。背中に這い上がる悪寒に耐えながら、がさがさと財布を漁り、診察カードを見つけ出す。無人の受付に置かれた端末に診察カードをかざすと、ピピーっと小さく電子音が鳴り、エラーを示す小さな赤ランプが点灯した。そして、端末から音声が流れた。

『お客様の声の不調は、既に処置が完了しております。本日は医療費のお支払いにお越し頂き、まことにありがとうございました』

 その声に、耳を疑う。それは、失ったはずの自らの声。無人のロビーに響く掠れのないクリアな私の声に、愕然とする。

『本日の診療は、全て終了しております』

 気付けば、明かりが灯っているのはロビーだけで、受付の中も廊下の先も闇に飲まれたような黒に沈んでいた。

『どなた様も、どうぞお大事になさって下さいませ』

 ロビーの電灯が落とされていき、帰宅を促すアナウンスが凛と響く影の中に、私の喉から漏れる掠れた絶叫が空しく吸い込まれていった。


Fin.

チョコレートは、メルティキッスのイメージです。

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