わだいがない 16
朱里ちゃんの場合
僕の一番古い記憶の中にあるのは、おばあちゃんが一人で大きな写真に向かって、話しかけて笑っている後姿だ。誰もいないのにおかしなことをしていると、母親に言いに行くと、母は笑っていた。
「あれは、おじいちゃんと会話しているのよ。」
「会話?」
「そう、おじいちゃんとおばあちゃんがお話しているの。」
「でも、誰もいないよ?」
「あなたには見えなくても、おばあちゃんには見えているのよ。」
「ホント?僕もお話ししたい。」
「あなたには、まだ無理よ。大きくなったらね。」
「そうなの?」
「そうよ。だから、おばあちゃんは大丈夫よ。」
「ふーーーん。」
その言葉に僕は安心した。おばあちゃんは、いつもおじいちゃんの、「おい、あれ。」だけで、なにが必要かわかっていた。会話らしい会話ではなく、単語でしか会話をしていなかったような思い出がある。
「あれ、だけじゃわかりませんよ。」
そう言いつつも、おばあちゃんの手の中にはいつも正しいものがあった。新聞、メガネ、リモコン、靴下、靴べら、カバン、パジャマの用意。おじいちゃんがいなくなっても、おばあちゃんには何かがわかっているのだと僕はすんなり受け止めていた。
「でも、あの部屋寒いのよねぇ。見てくるわ。」
そう言って、母はすっと立った。
僕が高校生になったころに、祖母が亡くなった。昔のように毎年通っていたおばあちゃんの家もだんだん行かなくなりだしたころだった。
祖母の座っていたところに、ゆっくりと母が座った。隣には父さん、もう反対側には叔父がいる。僕はいることは知っていたが、今回初めて叔父に見たような気がした。
「大きくなったなぁ。」
「はぁ。」
そういわれても記憶がない。
「兄さん、前にこの子に会ったの、15年以上前よ。」
「そうか、父さんの葬式のときには海外にいたからなぁ。やっと帰ってきたら、今度は母さんだしな。」
「こんなに早いなんて……。」
「ああ、まったくだな。入院が決まったと思ったら、あっという間だったな。」
その二人の後姿を見ながら、僕は母の頭に白髪を見つけた。だんだん後姿が祖母に似てきているような気がした。その前には、写真が二つ。仏壇の位牌も増えた。
ロウソクの明かりが揺らめく中、線香の煙も揺れている。
「お母さん、父さんに会えたかしら。」
「当たり前だよ。父さん、待ちくたびれたんじゃないか。」
「お父さんはもっと早かったもんねぇ。」
「そうだなぁ……。」
二人の兄妹の会話が続いている。僕はそっと席を立った。隣の部屋の暖房を入れた。父さんが入ってくる。
「寒いな。あの部屋は。昔っからだけど。」
「うん。」
僕は頷いた。
「二人、呼んで来い。ずっとあそこにいたら、風邪をひくぞ。ああ、ロウソクは消してから来るように、言ってな。」
「わかった。」
僕は、二人に声をかけた。
また月日が流れた。
「ねぇ、とうちゃん。」
新聞を読んでいると、新聞の下から娘が顔を出した。ガサガサ音がする。
「なんだ、朱里。」
「おばあちゃんがね?一人で何かぶつぶつ言って笑っているよ。」
「えぇ?どこで?」
妻が目を丸くする。
「あっち。」
娘が指をさす。
「ああ、あっちは、仏壇があるからな。」
「ぶつらん?」
「仏壇。パパのおじいちゃんとおばあちゃんの写真があるところだろう?」
「おじいちゃん?あったよ。」
「朱里のじゃなくて、パパのおじいちゃんだから、朱里のひいじいちゃんのだね。」
「ひいじいちゃん?」
「おばあちゃんはね、おじいちゃんとお話をしているんだよ。どれ、見てこよう。」
僕は新聞を横に置くとソファから席を立って、畳の部屋をのぞいた。
「母さん。」
「ん?」
母親が振り向いた。
「父さんと会話中?」
「あらやだ、なによ、急に。」
「いや、朱里がおばあちゃんがなにかぶつぶつ言ってるっていうからさ。」
「ああ、そう。そうねぇ。お父さん、病気によく頑張ったねぇって話していたのよ。生きてた頃は、言ってあげられなかったしね。朱里、怖がってなかった?」
急に、心配になったのか、聞いた。
「いや、どうかな。僕も昔、おばあちゃんがおじいちゃんと会話している姿を見たときは、心配はしたけど怖くはなかったなぁ。」
僕は、母親の隣に座りこんだ。
「あら、そうなの?」
「そうなのって、母さんが言ったんじゃないか、あれはおじいちゃんと会話しているんだって。あのときは、本当にそうなんだと信じていたんだから。」
「そうだった?」
「意外と言った本人は覚えてないんだねぇ。」
「そうねぇ。全然覚えてないわ。」
母は首を振った。
「おばあちゃん。」
娘が部屋を覗き込んだ。
「あら、朱里ちゃん、いらっしゃい。」
「もう、おじいちゃんとお話終わった?」
母が僕を見つめる。
「ええ、終わったわよ。」
娘が部屋に入ってきて、そのまま僕の膝に座った。
「なに話してたの?」
「んー?病気によく頑張ったねって。」
「ふーん……朱里もお話しできる?」
「朱里ちゃんはもうちょっとしないと無理かな。大きくなったらね。」
母が昔と同じようにほほ笑む。しわが増えた顔で。
「父さんはできるぞ?」
「えー?」
娘が見上げる。
「なに?うんうん。」
僕は写真を見つめる。ロウソクがそっと揺れた。
「おじいちゃん、なんて?」
「ここは寒いから、向こうでみんなでコタツに入ってきなさいって。」
「ほんとー?」
「ほんと、ほんと。さ、母さんも暖房の入っている部屋に行こう。朱里はお母さんにお茶入れてって言ってきて。ここは寒いよ。」
「うん、わかった。」
娘が駆け出す。
「そうね、そうしましょ。」
母がゆっくりと立った。僕はその母親の姿を見ながら昔を思い出す。あのときも、母さんがおばあちゃんに言っていた。
「ここは暖房が入らないんだから、風邪ひくから向こうでコタツに入ろう。」
そんなことを思い出しながら、思う。次は朱里が妻に言うのだろう。
なにかない限り、これは順番だ。祖父がいなくなり、祖母がいなくなり、叔父がいなくなり、父がいなくなった。しばらくしたら、母がいなくなり、今度は自分がいなくなる。
これは基本的には順番だ。
「ねぇ。お義母さんのことだけど。」
夜、妻が話しかけてきた。娘はおばあちゃんと寝ると言い張って、ほかの部屋で寝ている。
「なんだ?」
「お義父さんがいなくなって大丈夫かしら。夕飯も少ししか食べなかったけど。」
「んー。ま、大丈夫だろう。うちは僕のおじいちゃんも早くに亡くなったし、父さんも早い方だけど、女性陣は基本的に、長生きな方だし、ボケるタイプでもないしな。まぁ、しばらくは、がっくりくるだろうから電話をこまめに入れるよ。」
「そうね、私の方からも電話を入れて朱里の声を聞かせるわ。」
「頼む。だけど、おばあちゃんも友達が多かったせいか、そんなに長い間、落ち込んでいなかったな。ほら、自分と同じような年齢の友達だからさ、みんな誰かしらを亡くしているんだよ。親だったり、親戚だったり、子供だったり。その悲しみがわかるから、支えてくれたし、誰かを支えてきた。母さんも友達が多いからな、誰かが支えてくれるだろうし、誰かを支えていくだろうな。」
「そう。」
「僕の葬式のときには、きっと朱里が君を支えてくれるよ。」
「そうねぇ。そうだといいわね。」
そんな会話をしながら、僕はゆっくりと目を閉じた。妻は僕がいなくなっても僕に話しかけてくれるだろうか。娘は大きくなっても、僕のお墓に来てくれるだろうか。ちょっと心配しながら……。