【堕落】
依然投稿時は誤字が目立ったので、リニューアルします。
(なんで…俺がこんな…)
(俺は違うんだ…やってない…)
(見るな…そんな目で俺を見ないでくれ…)
(……………………)
(畜生………)
事の発端は今朝まで遡る。
東京都世田谷区に、市原俊郎という高校一年生の少年がいた。今年、平成十二年の四月に彼は地元の高校へ入学し、三ヶ月経った今は部活に入らず毎日友人と遊んでいる。自由を好む性分で、放浪癖もあったりした。 俊郎はまだシワのないワイシャツに腕を通し、部屋の鏡でネクタイを結ぶ。スクールバッグの中に弁当、筆記用具、CDプレーヤー、財布を入れた。
ビリヤードのナインを象ったキーホルダーが付いたチャックを閉め、片手で抱える。
時計は八時を若干過ぎ、俊郎は頃合いと家を出た。自転車に乗り、ペダルを漕いで学校へと走り出すのだった。
初夏の都内を俊郎は音楽を聴きながら疾走した。耳に流れる鮮烈なサウンドは俊郎のリズムを支配し、小刻みに頭を揺らす。
悲しい曲調だがそれでいて激しく、メロディアスで感動的な音色が俊郎の感性を刺激する。本人的には最高の格好良さの極みであり、これ以上の感想は見つからない。
そうこうしている内、学校に到着した。
廊下を歩く俊郎は、通りすがる大体の生徒が揃って何かを手に持っている事が気になった。
小さな白い紙袋が膨らんでいる。 俊郎は思考を巡らせ、その手に持つ中身の正体を暴こうとした。
そしてハッとする。
バッグを開き、財布や弁当を退けてある物を探した。やがて手にそれらしき感触が伝わり、その物体を掴み上げる。
「やっちまった…」
手には検尿コップが握られていた。今日は尿検査があり、朝一番に採取した尿を保健の先生に提出しなければならないのだ。
俊郎は苦い顔をしながら教室に入った。何人か保健室に行っているのだろうか、教室内の生徒は少なかった。その内の一人が俊郎の横に近寄る。
「よお」
話し掛けてきたのは、いつも遊んでいる友人の山口辰也だった。
「よお。なあ辰也、検尿出した?」
「ん?出してねえよそんなモン」
辰也は入学当時、俊郎が最初に話した男だった。教卓から見て左の一番後ろ、つまり廊下側の最高尾に俊郎の席があり、その隣に辰也の席があった。 入学式終了後、俊郎は音楽を聞きながら休み時間を過ごしていると、突然左の肩に痛みが走った。俊郎は焦って振り向くと、そこには少し怒り気味の辰也が立っていた。
どうやら辰也は俊郎に何を聞いているのかを訪ねた様だったが、爆音で聴き入っていた俊郎の耳に入らず無視された。それが理由で肩を叩いたのだ。
《言ってんのが聞こえねえのかよ!》
《あ?あぁ悪い、ごめんな、まぁ座れよ》
巧く丸めたのは俊郎である。その割には二人共ウマが合い、今の仲に至るのだ。
怒りの沸点が低い典型的な不良、辰也。腰パンした太いスラックスの裾はもうボロボロであり、中学からの象徴である赤い短髪とピアスが妙にマッチする、外見はそんな男だった。
そしてその不良と対を成し、感情のツボを知る自由人、俊郎。特徴の大体が辰也と逆であり、黒く首辺りまで伸びた長髪と端整な二重(よって辰也は一重)が俊郎という男を形取っていた。
体格も逆である。俊郎が細身なら、辰也はなかなかの筋肉質だった。実は肌の色も逆で、俊郎が色白なら辰也は焼けた小麦肌なのである。
これらのあらゆる対称性は、まさに凹凸コンビと呼ぶに値した。
「そうか…だよな。お前が真面目に尿検査する訳ないもんな」
「だってダリいじゃんよ。うし、保健室行くか?」
「…検尿忘れた」
俊郎がそう言うと辰也は顔をグシャグシャにして笑った。
「コップとかはあんだよな。ちょっと柴崎に聞いてくるわ」
「俺も行くか」
俊郎と辰也は一階の保健室に向かった。
階段を降りる途中二人は、同じクラスである6〜7人程の女子集団とすれ違った。廊下の殆どを埋め尽くし、ズンズンと階段を上がる。不細工と地味顔が周りを固め、まるで誰かを保護するかの様に突き進んでいた。
察する先、一風異なる存在を俊郎は見た。牧山春香。雑草の中心に咲く、一輪の花だった。
学年に数人は美人がいるものだ。その中の頂点が紛れもなく牧山春香という、清楚で上品な女性である事を皆が了解し合っている。
学校でも三強の一人として評判を集める彼女だが、実は俊郎と同じ出身中学だった。
しかし面識があるだけで、良く喋ったという訳ではない。中三で同じクラスになっただけであり、覚えている会話など少ししかなかった。
だが俊郎が最近思うのは、彼女が一段と細身になった事だった。やはり女性、外見を気にして痩せようとするのだろう。
そのまま俊郎は振り向きもせず、階段を駆け降りた。
俊郎は保健室に入り、柴崎という保健室の主に話しかけた。白衣を着た、四十代の女性が振り返る。
「はい?」
「今日の朝検尿し忘れたんですけど…」
俊郎は申し訳なさそうに言った。廊下からは辰也が見守っている。
「あらそお…まあ仕方ないわね、コップとかはあるの?」
「はい」
「じゃあ後で持ってらっしゃい」
「了解です」
そう言われ、俊郎は保健室を出た。
「どうだった?」
「後でいいってよ。戻ろうぜ」
そのまま教室に戻る二人だった。途中、俊郎と辰也はまたあの麗人と出会した。春香。手に紙袋を持ち、保健室に向かうようだ。
俊郎はなるだけ目を反らしていたが、何故か春香からの視線を感じた。それも何か、ただの見るという行為に止まらない堕ちた眼力。
俊郎はその方を振り向く。
彼女から見てくると言うのはどういったの意味があるのだろうか、ましてや、何という表情をしているのか。俊郎はギョッとした。
申し訳なさそうな、それでも確固たる信念に突き動かされ、獲物の臓物を抉る。生き残るが故、犠牲を顧みない犯罪心理。そんな罪を犯す前の、悪魔に取り憑かれた様なオーラを発している。
さらに俊郎が気付いたのは、春香の顔が窶れている事だった。普段遠くからしか見ない為にわからなかったが、化粧で目の隈を隠そうとしているのが理解出来る。
これまでが、春香とのすれ違い様に感じた俊郎の一考察だった。不気味な感覚が一瞬、俊郎の背中を走る。
「あいつスッゲー面してたな…牧山春香」
畏怖した辰也が俊郎の背中をつついた。
「ああ、俺刺されんじゃねえ?」
「まさか」
そんな話をしながら教室に入ると、そのまさかの如く背後に春香の荒々しい息遣いが聞こえた。振り返ると同時に、汗を流す春香の表情に二人は気圧される。
急いで階段を駆け上ったのだろう。肩で呼吸し、頭髪は乱れていた。分けていた前髪が片目を覆い、その隙間から覗く鋭い視線が俊郎を貫いている。
(なんで…なんで…)
俊郎はふとその瞳から、そんな感情を読み取った。春香が何をしようとしていたのか。そこまで急ぐ必要は何なのか。
いつもの穏やかな雰囲気と違い、今日の春香は不可解な行動が多過ぎた。
「牧山…どうした?」
辰也は恐る恐る聞いた。
「なんでもない…ごめんね」
素っ気なく言い捨て、春香は二人の間をすり抜け自分の席に向かった。
「本当に何なんだ?春香…」
「わかんねえ…でもしっかり俊郎を見てたぜ」
妙な胸騒ぎ。春香は保健室に検尿を出しに行き、何を感じて急いで教室に戻ったのか。何故戻るなり俊郎の元であんな態度を取ったのか。何故今日に限り、俊郎への振る舞いが暴力的なのか。
そして何より、春香は一体何を成したいが為、わざわざ出そうとした検尿を提出せず教室に戻って来たのか。息荒げにしっかり握られていた白い紙袋は、どんな理由で持ち主の手を離れないのか。
それを理解した時、俊郎の運命は崩壊する。
渋々二人は席に着き、俊郎はバッグから検尿道具一式を取り出してトイレに向かった。教室を出るとチャイムが鳴り、それと同時に廊下の奥に担任の姿が見えた。俊郎は見つからぬよう反対側の階段を降り、今は一階の誰も使っていないと思われるトイレに駆け込んだ。
さすがにもう生徒などは教室に入ってホームルームの時間なのだろう。案の定、トイレには誰もいなかった。かといって小便器でコップに酒盛りというのも、いざ目撃された時には恥を見る。俊郎は大の方でお酌する事にした。
尿を容器に収め、コップと別れを告げる。事前にクラスと名前を書いた白い紙袋に尿容器を入れ、手を洗い外に出る。急いで提出し、早く教室に戻ろう、という矢先の事だった。
「俊郎…」
トイレを出た瞬間、春香の弱い声が俊郎を呼び止めた。突然の出来事で、俊郎はバッと声のする方を振り向く。
「な、何?」
下を向いたまま動かない春香は間を置いた後、ゆっくりと顔を上げた。そしてその表情に俊郎は驚いた。
「…なんで泣いてんだよ」
「俊郎…」
泣き面の春香から呼吸が聞こえる。腹の底から絞り出された声、春香の潤んだ瞳は、次の瞬間俊郎の右手に向けられた。
「は?」
その瞬間、疑問の表情を浮かべる俊郎の視界から春香が消えた。同時に右手に持つ物体の感覚も消える。
「あっ!おい春香!」
なんと春香は俊郎の検尿を奪い、隣の女子便所に駆け込んだ。逆は変態的にまだしも、何故女子が男子の尿を強奪するのか。しかもその変態が学年一の美女だとは。
思考が全く追い付かない俊郎は、躊躇いながらも女子便所に踏み込もうとした。すると、パチリとフラッシュが俊郎を捉える。インスタントカメラを構えた春香が、手洗いまで侵入した俊郎の姿を写真に写したのだ。
「お願い、邪魔しないで。そうしたら俊郎があたしのストーカーだってこの写真バラまくから」
「あぁ?」
それ以上俊郎の言葉は続かなかった。現状を理解できぬまま、身を女子便所から退ける。それを確認した春香はドアを閉めた。
「意味がわかんねえよ…」
「…黙って」
廊下から俊郎が洩らした声が聞こえたのか、トイレの奥から春香の冷たい声が響く。
「…」
間もなくして春香がトイレから出て来た。壁際に座り込む俊郎に検尿を差し出す。当の本人は怒りを露わに立ち上がった。
「何のつもりだよ?俺の検尿に何したんだよ」
俊郎は春香から荒々しく紙袋を受け取った。
「…何もしてない」
「嘘つくなよ。何もしてねえんならどうして人のモン奪うんだ?」
俊郎は春香を鋭く睨み付けた。負けじと春香も睨み返す。
「…」
「おい、何か言ってみろよ」
そう言われ、睨みながら春香は肘まで捲ったワイシャツを更に上げた。舌打ちも加わり、仕草が乱暴になる。
「あたしね、クスリやってるの。尿検査じゃバレるから、俊郎に罪被せようとした、それだけ」
口から出た衝撃。腕に無数の注射痕。俊郎は目と耳、そして春香にまつわる全てを疑った。
「な…」
「よくあたしに向かってそんな面出来たわね。俊郎、あんたムカつくんだよ。あたしの気持ちに気付かなかったクセに同じ学校選びやがって…先公にチクったりしたら分かってるよね?写真公開、あたしの言い方次第で俊郎がどこまでの変態かが決まるんだよ」
俊郎の中で牧山春香という女性のイメージが崩れ去った。清潔が汚濁に染まるかの様に、抱いていた観念が汚れる。そして心の底から沸き上がる負の感情を堪えられず、三つの言葉に換え春香に叩き込んだ。
「ふざけんな!死ね!!このクソブスがっ!!!」
「…言ったわね」
互いに一歩も引かず、激しく睨み合う。そこに俊郎の怒声を聞いた一人の教師が駆け付けた。春香は沫やという所で袖を下げた。その教師は二人を教室に戻るように促す。
「チッ」
先に俊郎が歩き出し、その後を春香が続く。教師が去った辺りで、俊郎が手に持つ検尿をまた春香が奪い取った。
「悪かったわ」
「はぁ?」
突然謝った春香は、俊郎の紙袋から容器を取り出し、その中身の尿を水飲み場に捨てた。どうやら春香はトイレで自分の容器と俊郎の容器を紙袋とで交換した様だった。
つまり俊郎の紙袋には春香の容器があり、春香の紙袋には俊郎の容器が入っているという事になる。
「元に戻すわ。ごめんね、陥れようとして。ハナっから出さなきゃいいのよね」
「………あぁ」
良く考えればそうなる。だが、春香が麻薬をしているのは事実だった。痩せ細る最近の春香と、腕の注射痕は、その証拠として疑う余地もない。しかも俊郎にそれを口外し、顧みる事なく俊郎を突き落とそうとしたのが、どうにも恐ろしい。そして最も俊郎が察するべきは、今の素直さの裏側に潜む春香の冷徹さだった。
「はい、返す」
春香は俊郎に近寄って、と言うより、体をスレスレに寄せて言った。
至近距離で見る春香の顔は、隈があろうともやはり美人の顔だった。俊郎の鼓動が高鳴ると、春香は俊郎のポケットに紙袋を詰め込む。
「俺もさ、秘密にしとくから…」
分かってくれたとは言え、なんとなく後味が悪い。そのまま無言で廊下を歩く二人だった。
やがて、悪魔は口を開く。
階段を上る俊郎の背後で、春香は唐突に喋りだした。低く、鋭く、冷たい声で。
「俊郎、勘違いしないでよ」 訳の分からぬタイミングで話す春香に、
俊郎はどう反応すればいいのか困惑した。
「さっき言ったよね?ブスって」
「あ…すまん」
「は?すまんじゃねえよ、あんた絶対許さないからね。予定はズレたけど、最初からこうすれば良かったんだ。潰してやる…あたしを馬鹿にしたらどうなるか、高校生活全部貰って教えてやるよ!」
そう吐き捨てると春香は俊郎を追い抜いて階段を駆け上って行った。俊郎は立ち止まり、呆然として動けなかった。
同時に悪寒。春香の言葉が頭でエコーし、体の全神経が警鐘を鳴らす。今こうしている内、春香が何かをしでかすのが分かってしまった。
しかし不安と恐怖で足が竦み、危険な状況であるのにも関わらず一歩を踏み出すのが精一杯だった。確かめなければならない。脈が速まり、俊郎は一歩ずつ階段を上がる。廊下を進み、教室の前に来た。
扉の小窓から教壇の担任と、春香が見える。それを目にし、足が凍った。雰囲気で感じ取れる。春香が今、とんでもない誤解と嘘を言い触らしているという最悪の事態を。
俊郎は意を決し、教室に入った。
最初に響いたのは、俊郎を見た春香の悲痛な声だった。それに合わせ、クラスの全員が後ろを向いて俊郎を見る。第二声は担任が受け持った。
「市原お前、牧山を追い回してるってのは本当か?」
「…違う」
予想は遂行されてしまった。否定しようともクラスの雰囲気は冷たく、辰也でさえ疑う様に俊郎を見ている。
「先生嘘です!あたしさっきトイレに行ったら、彼女子トイレに入ってきたんですよ?カメラに撮りました!」
泣き顔の春香は体全体で嫌々しさをアピールした。担任もギョッとし、女子数名は悲鳴をあげた。
「俊郎、マジかよ…」
辰也は信じられないという表情で言う。
「違う!そんな訳ねえ!それはお前がっ」
「違うくないわよ!凄い嫌らしい顔してトイレに入って来て…人の検尿奪い取って…あたしの前で…」
春香は一瞬躊躇うように言葉を沈めた。それこそがこの女の演技力である。小悪魔どころではない、純正の悪魔と呼ぶに値した。
「おい…」
俊郎を含めこの時、春香以外の人間は最悪の情景を予想し、それが的中した。
「飲んだくせに!」
「はぁっ!?んな訳ねぇ!」
「キャアアアッ!」
「サイッテー!」
「違えぇよ!」
教室内が嵐の様に荒れ始めた。女子は口に手を当て嫌悪感にのたうち、男子は俊郎に怒りの視線をぶつける。担任は冷静を保とうとするが、どうにもややこしそうな顔をしていた。
当の春香は涙ぐみながら、不気味に俊郎を睨み付けている。さながら取り憑かれた悪女の様に。
ブーイングは鳴り止まない。俊郎は握り拳で違うと怒鳴り散らすが、クラスの勢いを逆撫でするだけだった。となりの辰也でさえ困惑に満ちた表情で俊郎を見る。
「ふざけんな!嘘に決まってんだろ!あいつの言う事は嘘なんだよ!俺があいつのストーカーなんかするかよ!なぁ!誰も信じてくれねえのかよ!」
荒げた大声で叫び床を踏み鳴らし、必死に身振り手振りで説得するが誰もそれに応えない。廊下には騒ぎを聞きつけた生徒が面白そうに小窓から傍聴していた。
「市原、まず職員室に来なさい」
担任は俊郎を沈めようと、なるだけ穏やかに言ったが無駄に終わった。
「あぁっ!?なんでだよ?なんで俺がそうなるんだよ!俺がストーカーだって証拠はあんのか!?あいつの検尿に手を出した証拠はあんのかよ!?」
一度、クラス内が静寂に包まれた。廊下では騒動の解釈が進み、まさに話の核心を掴む程に至る。
まだグスグス泣いて演技をする春香はスカートのポケットからインスタントカメラを取り出し、教卓に乗せた。
「…これ、あいつが女子トイレに入る時の証拠写真です。それで検尿は…彼のポケットにあります」
再びどよめきが教室を覆った。廊下からも騒ぎは聞こえ、俊郎に集まる視線も残酷を極めた。事態はとうとう最終局面を迎える。
「うっわぁマジ?」
「もう見てらんないあいつ…」
「テメェ!デタラメ言ってんじゃねえ!いい加減にしやがれ!」
「デタラメじゃないわよ!だったらあんたのポケット探ってみなさいよ!」
「ある訳ねえだろ!これは俺の…」
俊郎は言いかけて止めた。何か嫌な予感がするのだ。その気がかりな記憶を呼び起こすと、俊郎の心臓は縮み上がった。
ポケットに検尿は確かにある。あるのだが、ポケットに検尿を入れたのは何者でもない、あの春香だった。
(まさか…嘘だろ?)
注目が集まる中、俊郎はポケットに手を入れた。そして紙袋を掴み、ゆっくりと引き上げ、拳の中の存在に問う。
(俺の検尿であってくれ…)
少しずつ拳を開いていく。心なしか、紙袋が微妙に軽い気がした。中身の気配が感じられない。
(冗談…そんなの!)
自分の鼓動が聞こえ、俊郎の額に汗が滲む。考えたくもない結末が口を広げて待っている様な気がし、俊郎は激しく恐怖した。
そしてふと春香を見る。涙で目を曇らせながらも、春香は不敵な笑みを浮かべ笑っていた。勝った、とでも言いたいかの様に。
その勝利を確信した笑顔は、俊郎の首を切り落とす死神の嘲笑にも似る。俊郎は気圧され、一気に拳を解放した。
(なんで…!)
握っていたのは、紛れもなく牧山春香と書かれた白い紙袋だった。あまりのショックに、俊郎はその紙袋を床に落とした。それを辰也が見る。
「…牧山のだ!」
絶交の誓いが如く、俊郎を睨み付け辰也が叫んだ。教室も廊下もざわめきが大規模になり、とうとう扉が開いたまま他クラスの生徒が観戦する事になった。
そして辰也は止めを刺すかの様に、目の焦点が合わずフラフラ立ち尽くす俊郎の下、紙袋の容器を取り出した。次の瞬間、辰也は容器を放り投げ俊郎に掴みかかった。
「おい俊郎ぉ!お前何考えてんだよ!」
担任が止めに走る中、宙を舞う容器が真ん中の席に着陸する。中身の尿はない。容器の内側に少し黄ばんだ液体が、若干残っているだけである。
「うわあぁっ!あいつ変態だ!」
席の主が叫んだ。釣られて教室周辺が絶叫に包まれた。廊下では既に俊郎変態という名目で話が広まり始めている。まさに展開は、地獄へと一途に伸びていく様。
春香は教卓で友人達に嘘泣きを慰められていた。今、確実に春香のポケットには俊郎の検尿が入っている。だが俊郎は言う気にはなれなかった。ましてや、春香が麻薬をやっていると反論するのも、何か切り出せない。
そう。俊郎は疲れてしまった。膨大な孤立感と敗北感で、俊郎の心は深く傷ついたのだ。
今、目の前で激昂した辰也が胸ぐらを掴んで怒っている。何も聞こえなかった。というより、聞こうとしなかったと解釈する方が正しい。無音の世界で、目に映る物全てがスローモーションに見える。
「市原、今すぐ職員室に来い」
悪夢はこうして始まった。いつ覚めるか知れない、いつ止むか知れない雨の様に、冷たく体を濡らしてゆく。
十六歳の夏、俊郎は青春を失った。
(なんで…俺がこんな…)
(俺は違うんだ…やってない…)
(見るな…そんな目で俺を見ないでくれ…)
(……………………)
(畜生………)