The Righteous & The Wicked
言葉になっていない悲鳴を上げながら、きさらは意識を取り戻した。
荒い息を吐き、吐いては深く深く息を吸い――それをひたすら繰り返して、ひどく揺らいだ意識を必死に落ち着かせる。
嫌な夢はたくさん見てきた。怖い夢ならなおのこと。
だけどこれほど具体的で、神経をくまなく嘗め回されるような不快な夢は初めてだった。
……心臓がうるさい。潰れてしまいそうなくらいに泣き叫んでいるのが分かる。
過呼吸のし過ぎで肺と喉が痛む。今にも破裂してしまいそうだ。
頭痛はない、だけど胸が苦しい。心がきしむ。
落ち着け。落ち着いて。あれは夢だったの。ここは私の部屋。自分は布団の上にいる。花畑なんかじゃないし今は夜。青は死んでない。なんともないの。何 も 起 こ っ て な ん か い な い の よ 。だから……だから落ち着いて……。
祈った甲斐もあってか、どうにか意識が落ち着き始める。
あれだけばくばくいっていた心臓も、ようやく自分のリズムを思い出してきてくれた。疲れきった肺にがんばったねと胸ごしに撫で、きさらは力が抜けたように枕に顔を埋めた。
「…………」
息が苦しくなって、枕の水面から顔を上げる。
……あの夢は、いったい何だったのだろう。夢にしては妙にリアルで、それでいて意味ありげだった。
そして、あの男の人はいったい誰……?
「……きさら……」
障子ごしからしわがれた声が聞こえてきて、きさらは声の方を振り向く。障子に月明かりが差しこんでいて、墨色の影がうっすらと障子の白に滲んでいる。
それは腰の曲がった老人の形をしていて、しかも、あるべきはずの右腕がごっそりと抜けていた。きさらには、それが誰だか分かる。きさらだから分かる。
ジジ様だ。まだ年端もいかぬきさらを育ててくれている――彼女にとってたった一人の保護者。
「何があった?」
どうしよう。ジジ様に言う? 何を? 何から言えばいいかも分からないのに……。
「……何でもない。何でもないの」
ほんの些細な嘘をつく。善意と欺瞞の入り混じった言葉を。
「……そうか」
きさらの嘘を信じたのか、それともあえて何も問わなかったのか、ジジ様はそのまま立ち去っていく。
「水を汲んできてやる。……飲んだら寝ろ」
ぶっきらぼうな、だけどやさしさの滲んだ口調でそう言うと、ジジ様はそのまま行ってしまった。きっとすぐに戻ってくるのだろう。
「…………」
感謝と、ほんの少しの罪悪感を抱きながら、きさらはそっと障子を開ける。
四角く切り開かれた夜空から月がのぞく。細く鋭利な三日月が、きさらの丸い瞳を灼いた。
そういえば、親友の肩にもあんなカタチの刺青があったっけ、とぼんやり考える。
両端を吊り上げる三日月は、きさらを嘲笑う唇のようにも――あるいは閉じたまぶたのようにも見えた。あのまぶたが開いたら――『アレ』は何を見るのだろう。
ここから何が見えるのだろう。
――ねえ、お月様。そこから何が見える?
私の夢も見えた?
ふと、きさらは思う。
月が返事をするのと、ジジ様が水を汲んでくるのとどっちが先だろう、と……。
太陽も昇りきったころ、きさらは買出しのために町に下りていた。
賽ノ地は、日本でも名だたる犯罪都市のひとつだが、貿易拠点であるゆえかそれなりに栄えた町が存在する。
ここの治安の悪さは、攘夷派浪士が潜伏する京都に匹敵する。にもかかわらず、特殊部隊たる新撰組もここにはいない。
盾を持たないこの街だが、警察機構たる奉行所もやられっぱなしではない。治安が悪い分、その対策手段も念入りに講じられていて、さらに数年前に町奉行が交代してからというものの、その男の熱心な政策手腕によって、犯罪の芽は徹底的なまでに摘み取られ、犯罪検挙率は格段に跳ね上がっているのだそうだ。
また、江戸と同じく水道機関を改善して水路を確保。住む人々に新鮮な飲み水を与え、町に清潔さを保つことで、町に住む才能溢れる人々が逃げていくのをつなぎとめた。
土左衛門の名産地だった賀茂川も、今では底の丸い石ころが覗けるほどに見違えている。
町を包んでいた悪意も今では奥に奥にと追いやられていく一方だ。賽ノ地もずいぶんと平和になったものである。
短く切られた紅掛花色の髪が、陽の光をいっぱいに吸いこんで淡く輝く。
きさらは食べ物を詰めこんだ買い物袋を抱えて、この町を歩いていた。町娘の格好なんて久しぶりだから、少し歩きにくい。
とはいえ、さすがに蒸し熱くなってきたので、軒下に隠れて涼むことにした。ひんやりとした空気が心地いい。蕎麦屋の腰かけが横目に入るが、ほんの少しくらいなら店の迷惑にはならないだろう。
「…………」
きさらは、しばし辺りを見回してみる。
屋台で売り物をしているおばさん。釣ったばかりの魚を籠いっぱいに抱えて歩くおじさん。刀を提げて歩くお侍さんもいた。
きさらは――こうして町を眺めているのが好きだった。
仕事をしている人。毎日を一生懸命見生きている人。誰かが頑張っている姿を見ていると、こっちまで頑張りたくなる。元気が出てくる。
子供っぽい理屈かもしれないが、気分がうきうきしてくるのだ。
「あれ? きさらちゃんじゃない」
ふと、聞き慣れた声が隣から聞こえてくる。確か――
「……撫奈さん?」
振り向いてみれば、腰かけに着物姿の女性が座っていた。胡桃色の髪を二つに束ねていて、目尻がかすかに釣り上がっている――猫のような瞳できさらを見つめているではないか。
彼女は茶屋【風月庵】の看板娘。いつもは浅緑色の着物姿なのだけれど、今はお休みだからなのか、青りんごを思わせる萌黄色の着物を着ていた。
「きさらちゃんもオフなのー?」
「まぁ、そうなんですけど、撫奈さん。それお酒……ですよね?」
撫奈の手には、誰が見てもそれと分かる熱燗が握られていた。しかもそのそばには、すでに飲み尽くされた空瓶がいくつか並んでいる。……確かここは蕎麦屋ではなかっただろうか?
「何よぉ。カタいこと言わなくていいじゃなーい?」
「まだ陽は高いんですけど……」
大人ってどうしてこうお酒が好きなんだろう。変な匂いがするだけなのに、どこがおいしいんだか……。
「撫奈。誰と話してんの?」
彼女の隣にいた男の人が尋ねてくる。カボチャのような萱草色の猫っ毛。手にしている熱燗からして、二十歳を越えているのだろう。紫の双眸がじっときさらを見つめていた。
というか、この人も見たことがある気がする。確か、確か……。
――思い出した!
「朝青龍さん!」
「……こにしきだよ……」
ついでに言うと猫西音羽だよ、と彼は付け足して撫で肩をさらに落とした。
「あ、あのゴメンなさい。それで、確か……どこの組の方でしたっけ?」
「極道みたいに言うな。烏組だよ烏組」
烏組。
対羅刹機関として創設された、羅刹狩りを専門とした武装組織。ある意味新撰組に近い集団だ。人間アヤカシを問わず、力のあるものはひたすら傘下に収めていると聞いたことがある。
とはいえ、言葉のナイフで心をえぐられまくって落ちこんでいるこにしきを見ていると、とてもその一員とは思えないのだが……。
「あ、そう言えばでこぱちくん見たわよ」
撫奈の言葉に、きさらは思わず反応する。
「ハチが? どこでですか?」
「裏の団子屋」
ああ、ときさらは思わず納得する。耶八ことでこぱちは無類の団子好きで、団子の美味さで定評のある風月庵に入り浸っていることもしばしばだ。たぶんお金と団子を天秤にかければ、パンくずを見つけた鳩のような勢いで団子をわしづかむだろう。
ハチがいるってことは――彼もいるのかな?
不意に、きさらは夢のことを思い出す。花畑で眠っていたあの少年のことを。
だからきさらはすぐに二人にお礼を言って駆け出した。
それがいけなかった。
「きゃっ」
何かにぶつかって、きさらはその場にしりもちをついてしまう。その拍子に、買いもの袋が横に倒れて、その中身を地面にこぼしてしまう。
「何しよるんじゃあ。こんガキゃァ」
訛りの混じった口調で、男がうめく。この賽ノ地ではあまり聞かない方言だ。
男たちは五人ほどいて、誰もが目を細めてきさらの方を見下ろしていた。あまり機嫌のいい目ではない。
「ご、ごめんなさい」
きさらは慌てて立ち上がり、ぺこぺこと頭を下げる。そのよこで、撫奈とこにしきが買い物袋とその中身をせっせと片付けてくれていた。
ころころと転がった果実が男の足元に転がって――無残にも踏み潰される。
草履で踏み躙られた果肉から漏れた汁が地面を濡らす。
「ゴメンですむわけなかろォが!! 大事な服が汚れちまったろォ!! どおしてくれるんじゃァ!!!」
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!!」
ほんなら、と男は下卑た笑いを漏らす。そのとき、きさらは確かに嗅ぎ取っていた。
男たちの口から漏れる『悪意』のニオイを……。
「出すモン出してもらおうかのう」
きさらの表情に険しさがこもる。
「何を……ですか……?」
男たちの笑みがさらに深くなる。嫌味のこもった黒い笑顔。
「カネか、それともカラダじゃろ……?」
嗤いの合唱が響き渡る。
町を包んでいた悪意は、少しずつ奥に追いやられていった。それはつまり――
まだ消えたわけではないということだ。