「貴様の毒など効かん!」と豪語する暗殺者、それ致死毒じゃなくて強烈な下剤入りの胃薬ですわよ?
月明かりすら射し込まない深夜二時。王立薬草研究所の最奥にある特薬調合室の静寂を、カチャリと小さな金属音が破った。
音もなく開いた高窓から、黒い霧のように滑り込んできたのは全身を漆黒の装束で包んだ男――裏社会で『千の毒を喰らう黒狼』と恐れられる、帝国屈指のエリート暗殺者だった。
彼の今回の標的は、弱冠十七歳にして王立薬師の称号を得た天才令嬢、クラリス・ランバート公爵令嬢。
数々の画期的な新薬を開発し、敵対貴族の毒殺計画をことごとく水際で防いできた彼女は、ある巨大な反逆派閥にとって目の上のたんこぶだった。
「……フッ、ずいぶんと夜更かしだな、お嬢さん」
暗殺者は音もなくクラリスの背後に立ち、抜き身の短剣を喉元に突きつける――ことはしなかった。
彼の視線は、執務机の上に置かれた一つのガラス瓶に釘付けになっていたのだ。
禍々しい深紫色の液体。
表面には細かな泡が立ち、瓶の首にはご丁寧に【極限危険・劇薬指定】を示す鮮烈な赤字のラベルと、髑髏のマークが刻印されている。
「ほう……。侵入者に気づいて、とっさに奥の手の致死毒を用意したというわけか」
クラリスは椅子から立ち上がりもせず、手元の書類から視線だけをスッと上げた。
深緑色の瞳が、驚きも怯えもなく暗殺者を捉える。
「あの、どちら様ですの? 入退室管理簿へのご記名はお済みで?」
「とぼけるな。命乞いの時間すら与えんのが私の流儀だが……その前に、絶望というものを教えてやろう」
暗殺者は嘲笑を浮かべ、机の上の瓶を乱暴にひったくった。
「お前たち薬師は毒を万能の兵器と過信している。だが無駄だ。私は三歳の頃からヒ素を舐め、トリカブトの汁で喉を潤し、猛毒蛇の牙で血を洗ってきた! 我が肉体はあらゆる神経毒、血液毒、細胞壊死毒を克服した完全なる『毒耐性』の極致にある!」
栓を親指で弾き飛ばし、男は喉を鳴らして一気にその液体を煽った。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、プハァッ!
一滴たりとも残さず飲み干した男は、空になった瓶を机に叩きつけ、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「フハハハハ! 見ろ、何ともないぞ! 貴様の仕込んだ最凶の毒など、私の前ではただの薄い水も同然だ! さあ、己の無力さを噛み締めながら首を差し出――」
「あの」
クラリスが静かに紅茶のカップをソーサーに置いた。
カチャリ、と澄んだ陶器の音が響く。
「一応お伺いいたしますけれど……お味はいかがでした?」
「……ぬ? 味だと?」
暗殺者は眉をひそめ、舌の上を転がすように味覚を確かめた。
「フン、貴様にしては妙な気遣いだな。柑橘の爽やかな香りと、奥にある独特の苦味……それに、わずかな塩気を感じたがな。それがどうした?」
「ええ、患者様が少しでも飲みやすいよう、グレープフルーツ香料と微量のクエン酸をブレンドしてマスキングしてありますの」
「……患者、だと?」
男の眉間がさらに深く寄る。
クラリスは手元のカルテをパラパラとめくりながら、眼鏡の位置を指先で直した。
「それ、毒じゃありませんわよ」
「……は?」
「毒ではなく、お薬です。正式名称は『難治性超重度便秘および腸閉塞予備軍に対する超高張性塩類下剤・消化管運動促進薬併用濃縮原液』。分かりやすく申し上げますと、超ド級の下剤入り胃腸薬ですわ」
しん、と調合室に静寂が落ちた。
「げ……ざい……?」
「ええ。本来はドラゴンの肉を食べすぎて腸が完全にカチコチに詰まってしまった重症患者用に、一滴単位で薄めて使う超濃縮ストックです。原液のまま丸ごと一本飲むお馬鹿さんが現れるとは想定していませんでしたけれど」
「ば、馬鹿だと!? ふざけるな小娘! たかが下剤が何だというのだ! 私の頑強な肉体と解毒酵素をもってすれば、薬物の効果など即座に代謝・無効化――」
「あぁ、そこが大きな誤解ですわね」
クラリスは立ち上がり、黒板の前に歩み出ると、チョークを手に取って流れるように模式図を描き始めた。まるで深夜の補習授業である。
「あなたが誇る『毒耐性』とは、生体内の毒素受容体の変異や、肝臓におけるチトクロームP450等の薬物代謝酵素の誘導によるものでしょう? つまり、化学物質を分解して無毒化する生化学的プロセスです」
「な、何を専門用語をブツブツと……!」
「ですが、先ほどあなたが召し上がった主成分は『高濃度のマグネシウム塩』と『浸透圧活性物質』です。これは生化学ではなく、純然たる【物理現象】なのですわ」
クラリスはチョークで矢印を何本も書き殴った。
「その原液が胃を通過して十二指腸に入った瞬間、腸管内の浸透圧は通常の数十倍に跳ね上がります。すると何が起きるか? 人体の半透膜の性質に従い、全身の血管や組織液から、凄まじい勢いで水分が腸管内へ向かって一方的に吸い出されます。生物の細胞である限り、浸透圧の物理勾配には逆らえませんの」
「な……!?」
「さらに、配合された消化管運動促進薬が結腸のアセチルコリン受容体を直接フルスロットルで刺激します。結果として何が起きるか。大洪水のような水分流入と、マッハで暴走する強力な蠕動運動のダブルパンチ。……毒耐性? 生理現象の物理法則の前に、そんなものは何の役にも立ちませんわ」
暗殺者の顔から、フッと色が失われた。
「あの……ちなみに、飲んでから何分経ちましたかしら?」
「な、な……さん、三分……」
「吸収が極めて早い液剤ですので、そろそろ第一波が到達する頃合いですわね」
その言葉が終わるか終わらないかの瞬間だった。
――ギュルルルルルルルルルルルッ!!!!
静まり返った調合室に、およそ人間の体内から発せられたとは思えない重低音が轟いた。
大地が鳴動したのではない。男の腹の底から、雷鳴のごとき破壊音が鳴り響いたのだ。
「ぐ、おっ……!?」
暗殺者の屈強な身体が、くの字に折れ曲がった。
額から、尋常ではない量の脂汗が吹き出す。
「ぐああああっ!? な、なんだこれは……腹の中で……暴れ馬が、いや、地龍が暴れ回っているような……!?」
「暴れ馬どころではありませんわ。津波です。ダムの決壊です。本来なら二リットルの水分で薄めて三日かけて効かせる量を、一気にダイレクトインしたのですから」
「お、のれ……! 私の……私の鋼の腹筋を舐めるなよ……! 括約筋に全魔力を集中させれば、この程度の腹下しなど……ぐぎぎぎぎぎぎっ!!」
暗殺者は全身の筋肉をバキバキに隆起させ、直立不動の姿勢で歯を食いしばった。
常人ならとっくに気絶している激痛と便意。さすがはエリート暗殺者、超人的な意志の力で耐えようとしている。
しかし、クラリスは憐れむような目で首を横に振った。
「無駄ですわよ。内圧が限界突破しています。腹筋を固めれば固めるほど、逃げ場を失った圧力が下へ下へと集中するだけです。人間の括約筋の耐圧限界をご存知で?」
――ドリュリュリュッ! ゴロゴロゴロッ! キュルルルルルルルッ!!
「ぐほぉっ!?!?!?」
男の口から悲鳴とも呻きともつかない泡が漏れた。
瞳孔が開き、膝がガクガクと震え始める。
「あ、あと……あと何秒だ……!?」
「平常心なら一分、今のあなたの激しい動揺による交感神経・副交感神経のパニックを考慮すれば……あと二十秒といったところでしょうか。おめでとうございます、限界突破まで秒読みですわ」
「ト、トイレはどこだぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
ついにエリート暗殺者が床に膝をついた。
両手で必死に下腹部を押さえ、内股になり、額を床に擦り付けながら脂汗を撒き散らす。
「頼む……! 殺してくれ……いや違う、頼むから便所へ行かせてくれぇぇぇぇっ!!」
「あら、先ほどまでの威勢はどうされましたの? 帝国屈指の冷徹な暗殺者としての誇りは?」
「誇りなんぞ知るかぁぁぁッ! 漏れる! 漏れてしまう!! ここで出したら……私の男としての尊厳が死ぬ! 人間としての死を迎えてしまうんだぁぁぁぁっ!!」
涙と鼻水を流しながら絶叫する屈強な黒装束の男。
クラリスはフッと満足そうに口角を上げると、机の引き出しから一枚の真っ白なカルテ用紙とインクペンを取り出し、床に滑らせた。
「では、命がけの交渉と参りましょうか」
「こ、交渉だと……!? ぐぎぎっ、なんでもする! なんでも言うから早く場所をぉぉぉぉっ!」
「あなたを雇った黒幕の貴族名、連絡方法、王都内の潜伏先、そしてこれまであなたが関わった全ての暗殺案件のリスト。それをこの紙に、一文字も違わず正確に書き殴りなさい」
「なっ……! 依頼主の情報を売るなど、暗殺ギルドの掟が……!」
「あと十秒」
「書く! 書きます! 書かせていただきますぅぅぅぅぅぅっ!!」
暗殺者は床に這いつくばったまま、超人的なスピードでペンを走らせた。
長年の暗殺任務で培われた驚異的な指先の器用さが、いま全力で『国家転覆を企む貴族たちの全リスト』を暴露するために使われている。
カリカリカリカリカリッ! と凄まじい摩擦音が室内に響いた。
「ギュルルルルルッ!! ぐ、あ、ああああっ……! 括約筋が……我が防衛結界が崩壊するぅぅぅぅぅっ!!」
「あと五秒ですわよ」
「書いた! 書いたぞぉぉぉぉぉっ!! これで全部だ! だから頼む、神よ、薬師様、どうか慈悲をぉぉぉぉぉぉぉっっっっ!!」
クラリスは差し出された紙を指先でつまみ上げ、サッと目を通した。
筆跡は乱れているが、筆圧は凄まじく、内容の具体性は完璧。王都を揺るがす大スキャンダルの証拠がここに完成していた。
「たいへんよく書けましたわ」
クラリスは微笑み、白衣のポケットから小さな紙包みを取り出すと、中の白い粉末を男の口へ直接放り込んだ。
「んがっ!? こ、これは……!?」
「強力な消化管運動抑制薬と抗コリン薬の複合処方粉末です。水なしで素早く粘膜吸収されますわ」
ごくん、と男が粉末を飲み干した瞬間。
あれほど男の腹の中で荒れ狂っていた大嵐が、まるで時が止まったかのようにピタリと静まった。
「……あ?」
男がおずおずとお腹に手を当てる。
静寂。
ゴロゴロという轟音は消え去り、決壊寸前だったダムの水位が、奇跡のようにその場に留まっていた。
「と……止まった……? 痛みが……嵐が引いていく……」
「一時的に腸の蠕動運動を完全に麻痺させましたの。およそ三時間はその状態が維持されますわ」
「助かっ……た……。私は……人間として生き延びたのだ……」
男は床に大の字になり、まるで過酷な戦争から生還した兵士のように、天井を見上げて清らかな涙を流した。
その感動的な光景の中、調合室の重厚な扉がバーンと勢いよく蹴破られた。
「クラリス嬢! 無事か! 侵入者の警報魔法が反応したと聞いて駆けつけた――」
抜刀した近衛騎士団の隊長が、部下たちを引き連れて雪崩れ込んできた。
しかし、彼らが目にしたのは、お茶を片手に涼しい顔をしているクラリスと、床で魂が抜けたように幸福そうな表情で横たわっている特A級暗殺者の姿だった。
「……な、なんだこれは? この男は、帝国が放った指名手配中の『黒狼』……!? なぜ床で泣いているのだ?」
騎士団長が目を白黒させている。
クラリスは優雅に会釈し、先ほど暗殺者が命がけで書き殴ったカルテ用紙を手渡した。
「騎士団長様、ちょうど良いところにいらっしゃいましたわ。こちらの殿方が、国家反逆を企む黒幕についての詳細な自白書を提出してくださいましたの。証拠としてお納めください」
「自白書だと……!? あの口が堅いことで有名な暗殺者が、傷一つ負わずに全てを吐いたというのか……!? 一体どうやって……」
騎士団長が戦慄しながら男を見下ろすと、暗殺者は虚ろな目で呟いた。
「牢屋へ……早く地下の牢屋へ連れて行ってくれ……。ただし、便器のついている部屋にしてくれ……三時間後、私はすべてを解き放たねばならないのだ……」
「??? 理由は分からんが、直ちに連行しろ!」
屈強な騎士たちに抱えられ、暗殺者はドナドナのように静かに連行されていった。その顔には、もはや世界最強の毒耐性を誇っていた頃の面影はなく、ただただ「尊厳を守りきった男」の安らかな悟りだけが浮かんでいた。
騒がしかった調合室に、再び静寂が戻る。
クラリスは冷めてしまった紅茶を一息に飲み干すと、新しい茶葉の缶を手に取り、小さく微笑んだ。
「毒耐性を鍛えるのも結構ですけれど……人間の生理現象を侮ってはいけませんわね。さて、美味しいお茶を淹れ直しましょうか」
卓上のランプが、少女の知性的な横顔を静かに照らし出していた。




