合戦開始3秒、関ヶ原に消える〜名もなき者への鎮魂歌
歴史を構成する主成分は、名もなき者である。
彼らにも名はある。
ただ、誰も彼らの名を知らないだけだ。
これは、そんな名もなき者たちに送る鎮魂歌である。
今回の舞台は天下分け目の関ヶ原。
後の世で東軍と呼ばれる勝者の中にその者はいた。
当然、勝者と呼ばれるものの中にも死んだ者はいる。
戦を勝利に導くために死んだわけではない。
ただ、死んだのだ。
合戦開始3秒で、流れ矢に当たって死んだ。
人は誰も彼の名を知らない。
彼の生き様を、どうか聞いていって欲しい。
彼の名は、どん兵衛。
氏はない。
ただ、どん兵衛とだけ呼ばれている。
彼は、侍組頭のひとりだ。
組頭といっても、彼にはまともな領地もなく、家来は、年老いた下男が二人いるだけだ。
「どん兵衛様。」
下男に呼びかけられ、どん兵衛は振り返る。
二人の下男がおずおずとした態度で、古びた槍を持っている。
「どうした。死ぬのが恐ろしいのか。」
「違ぇます、どん兵衛様。あっしら、自分の死なんざ怖くね。優しいどん兵衛が死ぬのが怖ぇんです。」
どん兵衛は何も言わずに、二人の肩に優しく手を置いた。
いつも文句も言わずに、仕えてくれる彼らのためにも褒美が欲しかった。
「楽させて、やりてぇんだ……」
「どん兵衛様、あっしら、そんなのいらねんだ。」
「そうです、どん兵衛様、あっしら、あなた様がいてくれればそれでええ。」
どん兵衛はもう何も言えず、ただ空を眺めた。
とても青い空だった。
二人とは苦楽を共にした。
うどんを食べ、そばも食べた。
正月には餅を食べたりもしたもんだ。
「名を残すことが武士の本懐……」
下男たちが、何か言おうとしたその時、合戦開始を告げる矢が天高く舞い上がった。
「よし、やるぞ!」
どん兵衛が振り向いたその時、どん兵衛の胸に矢が刺さった。
遠のく意識の中で、下男が必死に呼びかける声が聞こえる。
そこで、どん兵衛は消えた。
どこにも名はない。
合戦後、二人の下男は店を出した。
一人はうどん屋。
もう一人そば屋。
二人とも暖簾には『どん兵衛』の名を掲げた。




