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異世界テンプレを現代日本で合法的に解決します

使い捨ての「聖女」です。無事に洗脳が解けたので弁護士と警察と一緒に”教団”から全てを取り返します

作者: lilylibrary
掲載日:2026/03/18

第1話 聖女、捨てられる



朝五時。


目覚ましは要らない。体が覚えている。


寝坊したら神罰が下ると言われて六年。

人間の体内時計というのは恐怖で簡単に矯正できるものだ。


「聖女様、光の儀のお時間です」


障子の向こうから声がかかる。


私は白い法衣に袖を通し、素足で廊下に出た。


宗教法人「光の御柱」。

信者数八百人。公称三千人。


サバを読むにも程があるが、教祖様いわく数字は光の意志で増減するらしい。


便利な光もあったものだ。

確定申告にも使えたら国税庁が喜ぶ。


——いや。今のは邪念だ。


本殿に向かう廊下は十二月でも暖房がない。

苦行が魂を磨くという教えのためだが、教祖様の居住棟だけは床暖房完備である。


魂が磨かれすぎて足が冷たいのは信者だけだ。

不思議なこともある。


光の儀。

信者の前で両手を広げ、教祖様が書いた台本を読み上げる。


「皆様に、光の祝福を——」


信者たちがありがたそうに目を閉じる。


私は三十分、腕を上げっぱなし。これが毎朝。

肩こりが神がかっている。


整体に行きたいが外出は月一回、届出制だ。


儀式のあとは信者との個別面談。

悩みを聞き、光のお告げを伝える。


お告げの内容は前夜に教祖様から渡されるメモの通りで、今日のメモにはこうあった。


「鈴木さんに浄化の壺を勧めること。予算六十万」


壺。六十万。令和に壺。


さすがにジャンルが古くないかとは思う。

しかし教祖様は伝統は力とおっしゃっていた。


伝統と時代錯誤は別物だと思うが、私は聖女なので余計なことは言わない。


午後は勧誘活動。

夕方は事務作業。

夜は教祖様への報告。


これが聖女の一日だった。


給料はない。

神の恩寵という名目の食事が一日二回。

休日もない。神に休日はないから。


でもおかしいな。

教祖様は毎週日曜にゴルフに行っている。


神は日曜にゴルフをなさるのだろうか。

ハンデはいくつなのだろうか。


——こういう疑問を持ってはいけない。


邪念だ。光が足りないせいだ。


そう自分に言い聞かせて六年が過ぎた。


◇ ◇ ◇


その日は突然だった。


「清音よ。お前の光は減じている」


教祖——天光院光春が、慈愛の笑みを浮かべてそう言った。


慈愛の笑みで人を切り捨てられる人間を、私は教祖以外に知らない。


「もはや聖女としての使命は終わりだ。感謝しなさい。お前は神に仕えたのだから」


六年。

毎日十二時間以上働いた。

貯金は全額献金した。

大学を辞めた。

家族との縁を切った。


感謝しなさい。


はい。


と答えた。答えてしまった。


聖女として染みついた反射だ。

教祖の言葉には「はい」。それ以外の選択肢を、六年間の私は持っていなかった。


部屋に戻ると荷物は既にボストンバッグひとつにまとめられていた。


六年間の人生が四十リットルに収まっている。

控えめに言って、収納術が天才的だ。自慢にもならない。


携帯を渡された。連絡先は教団関係者のみ。

通帳を確認する。残高三万円。


「外では教えのことを話してはなりません」


神官の月元がそう告げ、門を指した。


「功徳は教団に記録されています。感謝しなさい」


また感謝だ。


この教団は感謝の安売りがすごい。

ドラッグストアのポイント三倍デーより気前がいい。


ただし交換できる商品はない。


門を出る。


振り返っても、見送る者は誰もいなかった。


◇ ◇ ◇


十二月の公園。


ベンチに座る。

風が法衣の薄い布を素通りしていく。


通行人が不審そうにこちらを見ている。

真冬に白装束の女がベンチに座っていたら当然だ。

不審者としての説得力が高すぎる。


通帳残高三万円。

住所不定。

職歴なし。

学歴、大学中退。


なかなか見事なステータスだ。

RPGなら初期村にすら定住を断られるスペックである。


自販機の前でサラリーマンが缶コーヒーを買っている。百三十円。


私の全財産の〇・四パーセントが一瞬で消える計算だ。

割合で考えるな。惨めになる。


「私は、何だったんだろう」


呟いた言葉が白い息になって消えた。


六年間の聖女が終わって、残ったのはボストンバッグと三万円。

引き算にしても容赦がなさすぎる。


「——清音?」


聖女ではなく、名前で呼ばれた。


六年ぶりに。


「清音なのか?」


振り向く。


見覚えのある顔——ただし六年分だけ老けている。

目の下の隈が深い。白髪が増えている。


兄だった。白河照之。


「お前——六年間」


声が震えている。


「ずっと探してた。お前があの教団にいるって聞いてから、ずっと」


探していた。六年間。


家族と縁を切ったのは私のほうだ。

家族は魂の修行を妨げると言われて、自分から連絡を絶った。


なのにこの人は探し続けていた。

六年分の白髪を増やしながら。


「兄さ——」


「お前があの教団にやられていたことは」


兄が私の肩を掴んだ。


冷え切った体に、掌の熱さが染みた。


「全部、犯罪なんだよ」


犯罪。


教祖の言葉はいつも柔らかかった。

光。祝福。感謝。功徳。

温かい言葉で包んで、気づかないうちに全てを奪っていく。


それに対して兄の言葉は硬い。

硬くて、冷たくて。


——でも。確かだった。


「犯罪……?」


繰り返す。


まだ分からない。

六年間刻み込まれた「教祖様は正しい」が簡単に消えるわけがない。


でも——犯罪という言葉が、頭から離れない。


「俺の知り合いに弁護士がいる。カルト被害の専門だ。頼むから、一度だけ会ってくれ」


弁護士。法律。

教祖の光ではなく、法律。


三万円の通帳を握りしめたまま、私は兄の顔を見上げた。


六年ぶりに見る家族の顔は、教祖のどんな慈愛の笑みより——


泣きそうだった。



---


第2話 弁護士は神託を喋らない


高橋少樹法律事務所。

雑居ビルの四階。エレベーターなし。


六年間で足腰が弱っている元聖女には階段がきつい。


苦行で魂は磨かれたはずだが体力は磨耗していた。

教祖の教えは膝関節に効かない。


「白河清音さんですね。どうぞ」


弁護士・高橋少樹。三十五歳。


第一印象は地味だった。

教祖のような荘厳なオーラはない。声に神秘的な響きもない。


考えてみれば、荘厳なオーラを出す弁護士のほうが怖い。


まともな人間というのは存外地味なものなのかもしれない。

六年間まともな人間に会っていなかったので新鮮だ。


「まず確認させてください。お話しいただく内容が辛くなったら、いつでも止めて大丈夫です」


教祖の面談では「止めて大丈夫」と言われたことがない。


泣いている信者に「それは浄化の涙です、続けなさい」と言うのが教団のやり方だった。


止めていいという言葉がこんなに温かいとは知らなかった。


◇ ◇ ◇


兄に連れられてこの事務所に来るまで三日かかった。


三日間、兄のアパートの布団の中で天井を見つめていた。


行こうとすると足が動かない。

教祖の声が頭の中で響く。


「外の者に教えを話してはならない」


分かっている。これは洗脳だ。


頭では分かっている。

でも体が言うことを聞かない。


六年間の条件反射は、三日では消えない。


四日目の朝、兄が味噌汁を作ってくれた。


わかめと豆腐。母の味に似ていた。


それで泣いた。


味噌汁で泣く二十八歳。

面白くはないが仕方ない。


ずっと一日二食の教団食だった。

味は修行であり美味は執着だとされていた。


教祖が毎週ステーキを食べていたのは修行の一環だったのだろう。

肉に対する求道者だ。


「行ける。行くよ」


味噌汁の力で人は立ち直れる。

日本食の底力だ。


◇ ◇ ◇


「六年分のお話、全部聞きます」


高橋弁護士はメモを取りながら聞いた。


入信の経緯。

聖女としての生活。

献金の総額。

無償労働の時間。

家族との断絶。


総額を計算していく弁護士の手が、途中で止まった。


「二千八百万円」


六年分の献金、グッズ購入、特別浄化費用の合計だった。


「大学の四年分の学費が払えて、新車が二台買えて、世界一周の船旅にも行ける金額ですね」


弁護士の比喩が具体的すぎる。世界一周が余計にいたい。


私が壺と聖水を売っている間に世界一周できたらしい。

海も見ていない。


「白河さん。あなたは何も悪くない。これは全部、取り戻せます」


取り戻せる。


その言葉を、今度は信じていいのだろうか。

六年前にも「あなたは特別です」という言葉を信じて、全てを失った。


高橋弁護士は私の沈黙を見て、少し笑った。


教祖の慈愛の笑みとは違う。

困ったような、でも温かい笑い方だった。


「信じなくていいですよ。法律は信仰じゃないので。証拠で動きます」


信仰じゃない。証拠で動く。


その言葉だけで少し楽になった。


信じなくていい。確認すればいい。疑ってもいい。

教団では疑うことは罪だった。ここでは疑うことが許される。


それだけで空気の味が違う。


◇ ◇ ◇


「武器の説明をしますね」


高橋弁護士がホワイトボードに書いたのは法律の名前だった。


「消費者契約法。2023年の改正で、霊感商法による契約の取消権が大幅に強化されました」


普通なら眠くなる話だ。

だが今の私には一文字も聞き逃せない。


「悪霊のせいで病気になると不安を煽り、聖水や壺を買わせた場合、その契約は取り消せます。そして改正法では、この取消権の行使期間が洗脳が解けてから三年、契約から十年に延長されています」


三年。

私の洗脳が解けたのは一週間前。


まだ二年と三百五十八日もある。


「つまり、間に合う?」


「十分に。あなたの場合、聖水、光の護符、浄化の壺、特別祈祷の全てが対象になり得ます」


護符一枚三万円。

祈祷一回五万円。

聖水一本一万二千円。


全部買った。何度も買った。

光のためだと信じて。


「ちなみに」


高橋弁護士がファイルから一枚の紙を出した。


「同じ教団を脱会した方から預かった資料です。聖水の成分分析結果」


受け取る。


「ミネラルウォーター。市販品。小売価格税込み九十八円」


一万二千円の聖水。原価九十八円。

粗利率九十九・二パーセント。


教祖はビジネスの天才かもしれない。

上場したらアナリストが泣いて喜ぶ利益率だ。


だが喜んでいる場合ではない。

私はこれを百本以上買った。


「これは詐欺罪の物証にもなりますが、今はまず民事で攻めます」


高橋弁護士はホワイトボードに矢印を引いた。


「まず消費者契約法で取消権を行使。内容証明郵便で教団に通知を送ります。次に不法行為に基づく損害賠償請求。失われた六年間に対する慰謝料、大学中退による逸失利益を含めます。同時に教団が資産を隠す前に、裁判所に仮処分を申し立てて口座を凍結する」


取消権。

損害賠償。

仮処分。


三つの矢が教団に同時に刺さる。


「法律は感情では動きません。でも」


弁護士は静かにこちらを見た。


「あなたが信じていたことが、どう利用されたか。それを証明することが、あなたの最大の武器になります」


信じていたことが武器になる。

あの六年間が無駄ではなく、証拠になる。


教祖に「感謝しなさい」と言われて「はい」と答えた。

あの「はい」が、洗脳の深さの証拠になる。


「ところで白河さん。教団を出る時に神官から何か言われましたか」


「外では教えのことを話してはなりません、と」


高橋弁護士の目が光った。


光の御柱とは無関係の、法律家としての鋭い光だ。


「それ、2023年改正で追加された取消事由のひとつです。威迫する言動を交えて第三者への相談連絡を妨害する行為。完璧な証拠がまたひとつ増えましたね」


あの神官の捨て台詞が証拠になるらしい。


教団の皆さんにはぜひ法律の勉強をお勧めしたい。

自分たちの台詞が法廷で何点取れるか知ったら卒倒するだろう。


「では、内容証明郵便の準備に入ります。紙が一枚、神を倒す第一歩になります」


紙一枚。


六年間、私は教祖の紙——神託のメモ——に従って動いていた。

今度は私の名前が書かれた紙が、教祖に届く。


「あ、高橋先生。ひとつ聞いていいですか」


「どうぞ」


「弁護士って、神託はないんですか」


高橋弁護士はきょとんとした顔のあと、声を出して笑った。


「ないですね。判例と条文ならありますが」


判例と条文。


神の声の代わりに、法の言葉。

信じなくていい。確認すればいい。


それでいいと思った。




---


第3話 神殿、内側から崩れる


内容証明郵便を送って二週間。


教団から返事はない。

代わりに嫌がらせが来た。


まず尾行。


コンビニに行くと教団の信者がついてくる。


隠れる気がないのか単に下手なのか、二メートル後ろで白い法衣のまま歩いている。

コンビニの防犯カメラにくっきり映る。


尾行というより行進だ。


次にSNSでの誹謗中傷。


「光の御柱を裏切った元聖女」というアカウントが現れ、私の写真とともに「恩知らず」「金目的」「魂が穢れた女」と投稿している。


魂の穢れをSNSで発信する宗教団体の公式見解としては斬新だ。

釈迦もキリストもXのアカウントは持っていなかったと思う。


高橋弁護士はこれらを淡々と記録していた。


「全部証拠になります。尾行はストーカー規制法、SNSは名誉毀損と侮辱罪。教団が自分から証拠を製造してくれるのはありがたい話です」


教団は私を攻撃するたびに自分の首を絞めている。


法律的な自傷行為だ。

止めてあげたほうがいいのだろうか。


いや、止めなくていい。


◇ ◇ ◇


転機は一本の電話だった。


「白河清音さんですか。私も——光の御柱にいました」


山内真由美。三十二歳。


私と同時期に教団にいた元信者だった。

報道で私の提訴を知り、連絡をくれたという。


兄のアパートで会った。


真由美さんは痩せていた。

頬がこけて、目の下の隈が深い。


鏡を見ているような気分だった。


「私は聖女候補でした。清音さんの控え。表には出ないけど、裏で同じように働かされて」


同じだった。


献金。無償労働。外部との接触制限。


「それだけじゃなくて」


真由美さんの声が小さくなった。


「神官から——性的な被害も」


握りしめたコップの水面が揺れている。


「誰にも言えなかった。神罰が下ると思ってたから。でも清音さんが戦ってるのをニュースで見て」


ニュースの取材を受けたのは高橋弁護士の戦略だった。


「個人の戦いを社会の問題にする」と言っていた。

その通りになった。


「一人じゃなかったんだ」


私は呟いた。


「同じだったの」


その夜、真由美さんの紹介でさらに三人の元信者と電話で話した。


全員が似たような被害を受けていた。

被害総額は私を含めて一億円を超えた。


一億円。


教祖がゴルフで使ったグリーンフィーの何年分だろうか。

計算したくもない。


◇ ◇ ◇


被害者が五人になった翌週、高橋弁護士が静かに笑った。


あの困ったような笑い方ではなく、初めて見る、刃物のように鋭い笑みだった。


「揃いましたね。これで被害者弁護団が組めます」


同時に、別の動きがあった。


「藤原さん。久しぶり」


高橋弁護士が電話をかけた相手は、警視庁生活経済事犯課の刑事だった。


大学の同期らしい。

弁護士と刑事が同期。教団にとっては最悪の同窓会だ。


「五人分の被害証言と、聖水の成分分析書。それからSNSの誹謗中傷の記録。資料を送ります」


電話を切った高橋弁護士が言った。


「民事と刑事の両輪が揃いました。片方の車輪だけでは教団は倒れない。でも両方同時に回せば」


回せば。


「逃げ場がなくなります」


ここまでは予定通りだった。


予定外だったのは、次の連絡だ。


◇ ◇ ◇


深夜二時。

高橋弁護士から電話が鳴った。


弁護士は基本的に深夜に電話をかけてこない。

礼儀正しい人だ。


それが深夜二時にかけてくるということは。


「月元雪乃という名前に覚えはありますか」


覚えがある。


私の後任の聖女だ。

教団を出る日に、一瞬だけすれ違った女性。

あの日の私と同じ白い法衣を着ていた。


「彼女から接触がありました。教祖の裏帳簿を持ち出せると」


裏帳簿。


教団の会計資料。

教祖個人への資金流出の記録。

関連会社三社の存在。

聖水の原価が水道水であることの内部文書。


「全部あるそうです」


全部。


「彼女はなぜ」


「こう言っていました」


高橋弁護士が月元雪乃の言葉を伝えた。


「次に使い捨てられるのは私でした、と」


受話器を持つ手が震えた。


鏡だ。

真由美さんの時と同じ。

私を見て、自分の未来を見た人がいる。


被害は繰り返される。

使い捨ての聖女は量産型だ。

私が最初ではなく、雪乃さんが最後でもない。


だから、ここで止めなければ。


「白河さん。聞いてください」


高橋弁護士の声がいつもより硬かった。


「裏帳簿が手に入れば、刑事告発の決定打になります。それだけじゃない。この教団を法人ごと終わらせる道が開けます」


法人ごと。


「宗教法人法第八十一条——解散命令」


解散命令。


教祖個人ではなく、宗教法人そのものを裁判所が消滅させる制度。


「前例は」


「たった二件。オウム真理教と明覚寺。どちらも最高裁まで争われた」


たった二件。


日本に宗教法人は十八万ある。

そのうち解散命令が確定したのはたったの二件。


「ハードルが高すぎませんか」


「高いです。だから」


高橋弁護士は言った。


判例と条文の人が、初めて少しだけ感情を滲ませた声で。


「三件目を、作りましょう」


三件目。


紙一枚が第一歩だと言った弁護士が、今度は前例のない戦いを提案している。


深夜二時の電話。

窓の外は真っ暗だ。


光の御柱の「光」はどこにもない。


でも。


受話器の向こうに弁護士がいて。

隣の部屋で兄が眠っていて。

五人の元信者が同じ空の下にいて。

そして教団の内側から、手を伸ばしてくれた人がいる。


暗い部屋の中で、私は電話を握りしめて答えた。


「作りましょう」




---


第4話 光のない場所で、光を見た


裁判所の廊下は静かだった。


教団の本殿より静かだ。

ただし床暖房はない。


裁判所にも苦行の精神があるらしい。

日本の公共施設は修行に向いている。


解散命令請求の審理。


非公開。傍聴人なし。

密室で宗教法人の生死が決まる。


物々しいが、手続き上は「非訟事件」というやつで、裁判所が職権で事実を調べる形式だと高橋弁護士は説明してくれた。


「白河さん。今日はあなたの証言が必要です」


分かっている。

分かっているが、足が震えている。


証言台に立つということは、私が「元聖女」であることを裁判官の前で語るということだ。


洗脳されていた自分。

壺を売っていた自分。

聖水をありがたがっていた自分。

九十八円の水を一万二千円で買い、それを他人にも勧めていた自分。


恥ずかしい。


「恥ずかしくないですよ」


心を読まれた。

弁護士は神託を使わないが、たまに超能力じみた察しの良さを見せる。


「恥ずかしいのは騙した側です。騙された側が恥じる必要はどこにもない」


そうだ。


九十八円の水に一万二千円の値札をつけた人間が恥じるべきだ。

私が恥じるのは筋が違う。


筋違いは教祖の専売特許だ。


◇ ◇ ◇


審理室に入る。


正面に裁判官。

右側に教団側の弁護士。

左側に高橋弁護士と、文部科学省の代理人。


解散命令の請求者は所轄庁——文部科学省だ。


国が宗教法人を消しにかかっている。

個人の戦いが国家の手続きになった。

スケールの変化に頭がついていかない。


教団側の弁護士は三人いた。


高級そうなスーツ。信者の献金で雇われた弁護士だ。

一時間あたりの報酬を計算すると聖水が何本分になるのか考えそうになったが、やめた。


精神衛生に悪い。


そして。


ガラス越しに、教祖——天光院光春が座っていた。


詐欺罪で起訴され、保釈中の身だ。

あの慈愛の笑みはなく、表情が硬い。


スーツを着ている。初めて見る私服姿だ。


法衣を脱いだ教祖は、ただの五十二歳の男だった。


「証人、白河清音さん」


名前を呼ばれた。


立ち上がる。足の震えは止まらない。


しかし止まらないまま歩くことはできる。

六年間、震える足で本殿に通い続けたのだ。


経験が役に立つ日が来るとは思わなかった。


◇ ◇ ◇


「あなたは宗教法人『光の御柱』において、どのような立場でしたか」


裁判官の問いに答える。


「聖女、という役職でした」


声が小さい。もう少し大きく。


「六年間、教祖の指示で信者への勧誘と物品販売を行っていました。聖水、護符、浄化の壺。全て教祖が書いた台本通りに」


「その台本とは」


「毎晩、教祖から翌日の神託の内容がメモで渡されました。誰に何を売るか、いくらの予算で勧誘するか。全て指定されていました」


証拠は既に提出済みだ。


月元雪乃さんが持ち出した裏帳簿。

教祖の自筆メモ。

関連会社三社の決算書。

教祖個人の口座に流れた資金の記録。


数字は雄弁だった。


信者からの献金総額。教祖個人への流出額。聖水の原価と販売価格の差額。


全部、紙に書いてある。

神の声は証拠にならないが、銀行口座の明細は証拠になる。


「証人は、教祖の指示が神の意志であると信じていましたか」


「はい」


「現在は」


「いいえ」


ここだ。ここが全部だ。


「私は聖女ではありません。被害者です」


言えた。


法廷で、裁判官の前で、教祖の目の前で。


六年前なら絶対に言えなかった言葉だ。

教祖の前では「はい」しか言えなかった人間が「いいえ」を言った。


たった三文字に六年かかった。


「六年間、私は神のためだと信じていました」


声がかすれる。構わず続ける。


「でも、神はいませんでした。いたのは台本を書く人と、それを読む私だけでした」


◇ ◇ ◇


教団側の弁護士が立ち上がった。


「これは信教の自由の侵害です。宗教法人の解散は信者の信仰生活の基盤を奪うものであり、憲法二十条に違反します」


予想通りの反論だ。


信教の自由。教祖の最後の盾。


高橋弁護士が静かに立った。


「最高裁平成八年一月三十日決定。オウム真理教解散命令事件。解散命令は宗教法人の世俗的側面を対象としたものであり、信教の自由を侵害するものではない。信者は法人格のない団体として宗教活動を継続することを何ら妨げられない」


判例。


神の声ではなく、最高裁の声。

三十年前に最高裁が出した答えが、今ここで盾を砕く。


教団側弁護士の顔が強張った。


分かっていたはずだ。この反論が通らないことは。

でも他に手がなかった。


教祖に雇われた弁護士にも同情の余地はある。

依頼人が悪すぎた。


教祖と目が合った。


慈愛の笑みはない。

あるのは怒りだ。


六年間見たことのない、素の感情。


「お前は私が作った」


呟くように教祖が言った。

弁護士が止めるより早かった。


「聖女にしてやったのは私だ。お前は何もなかった。私がお前を——」


「いいえ」


二度目の「いいえ」は、一度目より楽だった。


「私は、私自身です」


教祖が黙った。


神の声を商売にしていた男が、声を失った。


沈黙が審理室を満たした。


裁判所の沈黙は、教団の本殿の静寂とは違う。

嘘のない静けさだった。


◇ ◇ ◇


二か月後。


解散命令が確定した。


宗教法人法第八十一条第一項第一号。

法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為。


三件目の前例が、できた。


教祖は詐欺罪で実刑判決を受け、控訴中。


幹部三名も有罪。


教団の資産は清算手続きに入り、被害者への賠償に充てられることになった。


高橋弁護士は相変わらず地味だった。


記者会見でも淡々と事実を述べ、判例と条文の話をした。

テレビ映えはしない。


しかしこの人がいなければ何も始まらなかった。


「先生。ありがとうございました」


「仕事ですから」


素っ気ない。しかし目が笑っている。


この人は教祖と違って、感情を隠すのが下手だ。

弁護士としてはどうかと思うが、人間としては信頼できる。


◇ ◇ ◇


さらに三か月後。


私は小さな事務所にいた。


「カルト被害者支援センター」。


設立したばかり。

スタッフは私と真由美さんと雪乃さんの三人。


事務所は高橋弁護士の事務所と同じ雑居ビルの三階。一階下。

エレベーターは相変わらずない。


今日、最初の相談者が来る。


別の教団から脱会したばかりの、二十代の女性だ。


電話口の声が震えていた。

聞き覚えのある震え方だった。


一年前の自分と同じだ。


ドアが開く。


青い顔をした女性が立っている。


手にはボストンバッグひとつ。


ボストンバッグ。


一年前、教団の門を出た私と同じだ。


人生が鞄ひとつに詰められる残酷さを、私は知っている。


「あなたは何も悪くない」


高橋弁護士が私に言った言葉を、今度は私が言った。


「一緒に、取り戻しましょう」


取り戻せます、と言われた側から、取り戻しましょう、と言う側になった。


受け取った言葉を渡す側に回る。

それだけのことに一年かかった。


窓の外は曇り空だった。


光の御柱が謳っていたような神々しい光はどこにもない。


でも。


曇り空の下の、エレベーターのない雑居ビルの三階に、本物はあった。


もう聖女ではない。


でも、人を救うことはできる。

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