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エルナ・クラインは、リーゼがシルヴィオの屋敷へ嫁入りしたその日から、身の回りの一切を取り仕切る侍女だった。
まだ若いが仕事はそつがなく、何より、近寄りがたいはずの公爵令嬢に対しても、親しみを持って接してくれる。
ヴァルディエ公爵家で、血の通わない対応をするメイドたちに囲まれる生活を送ってきたリーゼにとって、彼女はもっとも心を許せる女性だった。
「旦那様がお帰りくださって、皆も喜んでおります。奥様もさぞかし心強いことでしょう」
手際よくドレスの紐を締め上げながら、エルナが弾む声で話しかけてくる。
「……そうね。あまりに突然だったから、まだ信じられなくて」
鏡越しにエルナと目を合わせ、リーゼは戸惑いと喜びをにじませて微笑んだ。
わざとらしくならないように努めたが、エルナの「本当ですわ」とすんなりうなずく様子を見れば、夫の帰還を待ち焦がれていた妻だと、信じてくれたようだった。
本当を言えば、春になれば帰還するであろう夫のことはあまり気に留めていなかった。
むしろ、シルヴィオがいなければ、アルブレヒトへ流す情報もなく、弟を案じるだけの日々に専念することができた。
「騎士団員の皆様も、それぞれのお屋敷に戻られて、しばらくは休暇を満喫されるそうですよ」
「お帰りになるとわかっていたら、騎士団員の方々をお招きして宴を開くこともできたのだけど……」
リーゼは申し訳なさげに眉を下げると、詮索してると悟られないよう、何気なく尋ねた。
「帰還の知らせは、シモンに届いていたのかしら?」
シモンというのは、執事のシモン・オルバッハだ。この屋敷を仕切っている中年の紳士。ヴァイス伯爵邸で執事補佐を務めていた彼は、誰よりもシルヴィオの信頼を得ていた。
「いいえ。慌てふためいておりましたから、何もご存知なかったかと」
いつも冷静沈着なシモンが狼狽える様を思い出したのか、エルナは楽しげにくすりと笑う。
緊迫した公爵邸で育ったリーゼには信じられないことだったが、この屋敷の使用人たちは堅苦しさを持たず、打ち解け合っていた。
「本来ならば、騎士団の帰還にはさまざまな手続きが必要だそうですが、旦那様はすべてを後回しになさって馬をお飛ばしになったとか」
「すべてを、後回しに……?」
驚いて振り返ると、エルナは髪をとかす手を止めた。
「はい。一刻も早くお帰りになって、奥様にお会いになりたかったのでしょう」
にこりと微笑むエルナからとっさに目をそらす。鏡の中の自分と視線が合い、気まずい気持ちになった。
嬉しいと……喜んでいいのかわからなかった。
騎士団長としての責務、貴族としての体面。それらすべてを投げ出して、新妻のもとへ帰ってきた彼は、今ごろいい笑い者ではないだろうか。
しかしそうだとしても、うわべだけの妻であるリーゼには何ら関係のない話だった。それなのに、身を切るような罪悪感もあった。冷酷な夫であれば、どれほどよかっただろう。
「……あの方は、本当に良い方ね」
ぽつりとつぶやいて、うつむく。するりと肩から滑り落ちる栗色の髪を、エルナは器用にすくい上げると、編んでリボンを結んでくれた。
「さあ、仕上がりましたよ。本日も大変お美しいですわ」
「……ありがとう」
鏡の中でぎこちなく微笑む自身を見つめながら、リーゼは礼を言って立ち上がる。
その頃には、これから待ち受けるバルタザールとの出会いに緊張していた。アルブレヒトが何の策もなく、リーゼに命令を下すはずがなかったからだ。
扉を開けてくれるエルナとともに部屋を出て、リーゼは階段を下った。
磨き上げられたオークの手すりは、指先に吸い付くように滑らかだが、まだ若い色をしている。
結婚が決まるや否や、シルヴィオがリーゼとの生活のために建てさせた邸宅は、豪華絢爛たるヴァルディエ公爵邸ほどではなかったが、とかく、質のいい建材が使われていた。
贅沢させてやりたいと言っていたとおり、なるべく公爵邸の豪華さに近づけられるような、彼の努力が見える屋敷だった。
この屋敷はシルヴィオの愛で満ちている。
今さらそれに気付かされ、複雑な気持ちで歩いていくと、玄関ホールに姿を現したシルヴィオが目を細めて歩み寄ってきた。
まぶしいものを見るかのような視線に戸惑っていると、シルヴィオは思いもよらないことを口にした。
「例のバルタザールとかいう宝石商だが、店の場所がわかった。すぐにでも出かけよう」
「えっ……おわかりになったのですか?」
リーゼは目を丸くした。まさか、そんなにすぐ見つかるとは思ってもなかった。
「シモンに調べさせたのだが……、しかし本当にその店で合っているのか……」
言いよどむシルヴィオに、リーゼは一気に不安になった。
「……何か、気になることでもあるのですか?」
シルヴィオはすぐさまうなずいて、眉を寄せた。
「バルタザールの店は路地裏の入り組んだ場所にあるようだ。本当に、公爵御用達の店なのかと、気になってな」
やはり、表通りにはない店だったようだ。
(ああ、どうしよう。疑われてしまうかもしれない)
リーゼはどう繕えばいいかわからないまま、早口で答えた。
「お、お父さまからは、職人気質の気難しい方と聞いていますから、ひっそりとお暮らしなのかもしれません」
「なるほど。隠れた名店というわけか」
あごをするりとなでたシルヴィオはすぐに納得したようだったが、リーゼの胸は不安で押しつぶされそうだった。
こんな簡単な嘘に、彼が気づかないものだろうか。しかし、リーゼを信用している彼なら、何も疑わない可能性もある。今はそれに賭けてみるしかなかった。
リーゼは気を取り直すと、ゆったりとした笑みを浮かべ、彼の手にそっと指を絡ませた。
「シルヴィオ様とのお出かけ、楽しみです」
「あ、ああ……」
どういうわけか、彼はわずかにほおを赤らめると、彼女の手を引き、待たせていた馬車の中へと乗り込んだ。




