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耳元でうなる風、規則的に刻む蹄の音だけが、夜の街道に響いていた。
シルヴィオは手綱を固く握りしめ、そのまま愛馬を加速させた。
『弟はまだ15歳の少年です。……どうか、どうか彼を助けてください』
別れ際に願ったリーゼの苦しい表情が、暗闇の中でもちらついた。
彼女はずっと、重たい何かを背負っているかのように儚げだ。
初めて彼女に出会った、あの時もそうだ──
シルヴィオはどこまでも続く闇の中を走る。暗闇に吸い込まれるような感覚が、彼を遠い過去の記憶へといざなっていく。
リーゼ・ヴァルディエを初めて垣間見たのは、ヴァルディエ公爵夫人の葬儀だった。
今にも雨が降り出しそうな薄暗い空の下で、公爵夫人の早すぎる死を悼む参列者たちは、ひそひそと噂話をしていた。
『病弱な娘がようやく元気になったというのに、今度は夫人がバルコニーから転落して亡くなるなんて……。なんと不運な家だろう』
哀れんでいながら、どこか好奇心に満ちた目をする彼らの視線の先には、リーゼがいた。彼女は父であるアルブレヒト・ヴァルディエの後ろで、喪服に身を包み、長いまつげを伏せて立っていた。
その頼りない姿は、消えてしまいそうなほど儚く、美しかった。
たちまち、シルヴィオの心は奪われた。
生きるためにヴァイス伯爵家の養子になることを選んだが、あのときほど、貴族の仲間入りを喜んだ日はない。
シルヴィオは伯爵家の養子になる前、行商人の父とともに、大陸のあちらこちらを旅していた。
あの日も、いつものように王都を目指していた。慣れた山道に、危険などないはずだった。
しかし、山賊に荷を奪われ、大けがをした。息も絶え絶えな父に覆いかぶさり、『助けてくれー!』と叫んでいると、たまたま通りがかったレナートに救われた。
当時、レナートは18歳だったが、両親を亡くしたばかりで、すでに公爵の地位についていた。
山賊はあっという間に縛り上げられ、荷も返ってきたが、深い傷を負った父は助からなかった。
レナートは父を丁寧に弔うと、身寄りのないシルヴィオをブラッツ邸へ連れていき、下働きの仕事を与えた。
今でもレナートは、『あのときはそうしてやりたい気分だった』と笑って話す。
彼の気まぐれで助けられたとはいえ、シルヴィオは恩を返すため、薪割りも馬の世話も一生懸命にやった。
あるとき、なんでも器用にこなすシルヴィオにレナートは興味を持ち、読み書きを教えてくれた。
それから一年後、レナートに『子のいないヴァイス伯爵家の養子になるのはどうか?』と聞かれ、承諾した。
断絶の瀬戸際にあったヴァイス家もまた、ブラッツ家当主のお墨付きであるシルヴィオを、喜んで迎え入れた。
ヴァイス家は代々、騎士を輩出している名門だった。それにならい、シルヴィオも騎士団入隊試験を受け、騎士の道を歩むことになった。
そして、14歳のとき──あの葬儀で、リーゼに出会った。
葬儀から帰ってきたあと、来る日も来る日も剣の訓練に励んだ。しかし、ふとしたときにはリーゼを思い浮かべていた。
今まで美しい貴族の娘たちは目にしてきたが、彼女たちは若き公爵レナートの気を引こうと互いの足を引っ張り、少しも魅力的ではなかった。
それに比べ、リーゼは守ってやらなければ消えてしまうんじゃないかと不安になるほどの魅力を持っていた。
気の進まない社交パーティーにも参加してみたが、リーゼは一度も現れなかった。悶々と過ごしていたある日、レナートに「ヨウム探し」を頼まれた。
なんでも、異国から取り寄せたヨウムという鳥が荷物から逃げ出し、ヴァルディエ公爵邸に逃げ込んでしまったというのだ。
ヴァルディエ公爵に鳥を探させてほしいと頼んだが、無碍に断られてしまったらしい。
シルヴィオは迷うことなく引き受けた。
ヴァルディエ公爵邸は広大で、衛兵による厳重な警戒があるにもかかわらず、使用人たちが暮らす家のある裏庭が手薄なのは知っていた。何度か、リーゼに会えないものかと様子を窺ったことがあるからだ。
深々とフードをかぶり、使用人のふりをしてまんまと忍び込んだシルヴィオは、中庭でリーゼを見つけた。
そこにいたのは、葬儀のときのような、今にも消え入りそうな少女ではなかった。
灰色の鳥をひざに乗せ、愛おしげに目を細め、鈴が鳴るように笑っていたのだ。
鳥と戯れるその姿はまるで、知らない世界の天使のようだった。
その笑顔を誰にも渡したくないと、少年だったシルヴィオは、強く思ったのだった。
十数年を経て、その彼女との結婚話が出たときは、血が湧き立つほどの喜びだった。
身に余る結婚ができたのは、身体の弱いリーゼの結婚がうまくまとまらず、シルヴィオに婚約者がいなかったからだ。
レナートは『ヴァルディエ公爵が何か企んでいる』と忠告したが、そんなことはどうでもよかった。
たとえ罠だとしても、彼女が手に入るなら構わない。すぐに結婚を承諾した。
彼女はあの日、中庭で出会ったことを忘れてしまっていたが、シルヴィオにとってはそれもささいなことだった。
リーゼが妻であり、自身が彼女を守れる立場にある。
それだけで、満足だったのだ。
頬に冷たいものが当たり、シルヴィオは現実に引き戻された。
「……くそっ、雪が降ってきたか」
夜中のうちに、隣町の宿まで行くつもりだったが、視界が悪くなる前にたどり着けるだろうか。
(……この幸せを、みすみす奪われてなるものか)
シルヴィオはより一層、手綱をつかむ手に力を込めた。




