2
(どうして……?)
リーゼは息をするのも忘れるほどに驚いた。
この結婚は、父……ヴァルディエ公爵の野望を遂げるための計画的なもの。愛など、かけらも必要とされていないはずだった。
だからこそ、意に沿わぬ結婚を強いられたシルヴィオは、口づけ一つだけで婚儀を終わらせ、戦地へ発ったのではなかったのか。
今さら、「会いたかった」と言われても、リーゼにはその言葉を信じることができなかった。
「シルヴィオ様……部下の皆さまはどうされたのですか? お食事の用意もしておりませんのに」
やんわりと諭すように、リーゼは背中に回した腕で、彼を引き離した。
すると彼はその手を取り、扉を開くと彼女を部屋の中へと押し戻した。
「その必要はない。屋敷へ着くなり解散させ、レナートへの報告は副官に押し付けた。明日は朝から小言を言われるだろうな」
レナートというのは、夫シルヴィオがもっとも忠誠を誓うブラッツ家の当主レナート公爵だ。
呼び捨てするのには驚いたが、レナートも若く、リーゼにはわからない関係性があるのだろうか。
「そんな……騎士団長が、それでよろしいのですか? レナート様は今ごろ、王城へ向かっているのではありませんか?」
「それはレナートの役目だ。……半年だぞ? あなたに会うのを我慢していたほうがよかったと言うのか」
シルヴィオは不機嫌な顔つきでつぶやいた。
派兵された騎士団が帰還したのだから、国王への報告は義務のはず。
何を言っているのか、この人はわかっているのかと、リーゼはあきれるよりも先に戦慄いた。
「でも、隣国との争いはいまだ続いていると……」
「停戦だ」
「え……?」
「今年の冬は雪が深い。兵の消耗は激しく、身動きが取れなくてな。春が来るまで、争いは起きない」
「では……」
「ああ、あなたの父上は春になればまた、俺を死地に送り出すだろう」
困ったようにシルヴィオは眉を下げるが、彼が派遣を断ることはないだろう。
長く続く隣国との国境沿いの紛争。
半年ごとに、ヴァルディエ公爵家とブラッツ公爵家は王命を受け、総司令官として軍を率いる決まりとなっていた。
これまで、ブラッツ家はシルヴィオ率いる第一王国騎士団に全権を委譲し、一任していたが、リーゼとの結婚により、ヴァルディエ家もまた、その義務のすべてをシルヴィオに押し付ける気なのだ。
どこまでも彼を利用し尽くすつもりの父にリーゼは不快感を覚えたが、自身が怒る道理もないのはわかっていた。
「ほんの少しでも、あなたといられる時間を大切にしたいのだ」
「私との……?」
「意外そうだな。……仕方がないか。何も言わずに戦地へ向かったのは、俺だ」
シルヴィオはリーゼの頬をざらりとした指先でなでた。
この荒れた手には、彼の背負う苦労が刻まれている。これからも彼は、想像を絶する覚悟で戦地へ向かい、武功を立てるだろう。
レナート公爵に引き立てられ、ヴァルディエ公爵の娘婿として待ち受ける、順風満帆なこの男の未来に、リーゼは絶望せずにはいられない。
「なぜ泣きそうな顔をする?」
「春はすぐに来ます。……長くは一緒にいられないと言ってるようではありませんか」
リーゼはあわてて取り繕うが、シルヴィオは何も疑わない優しさを帯びた目で見つめてくる。
「このように美しい公爵令嬢と結婚できたのだから、あなたのために俺は天寿を全うすると約束しよう」
「本当……ですか?」
「約束は守る男だ」
シルヴィオはわずかに目を細めると、逃がさないとばかりにリーゼの腰を引き寄せ、唇を塞いだ。
最初はリーゼの気持ちを確かめるように優しく、次には自身の欲望を満たすように深く……。
結婚式後、形ばかり交わした口づけとは違う。あまりに情熱的で……胸の内から込み上げてくる感情のうねりが、シルヴィオの熱い息と交わり、破裂しそうだった。
なぜこんな気持ちになるのかと、リーゼが苦しくなる胸をつかんだとき、彼は名残惜しそうに唇を離した。
「メイドたちには決して不自由させないよう頼んでおいたが、不便はなかったか?」
「え、……ええ」
「願いがあれば、なんでも遠慮なく話すといい」
リーゼはほんの少し迷った。
願いはあった。13年前に生き別れた弟の安否が知りたい。
母とともに連れ去られた幼い弟はいま、母の死後、どこでどう暮らしているのか。
生きていると信じて、父の命令に従ってきたけれど、あまたの戦いを生き抜いてきたシルヴィオなら、弟を救い出せるのではないか──
でもそれを、願う言葉は出せなかった。
「満ち足りた生活を送れています」
「そうか。それならば、よかった。いつか、ヴァルディエ公爵邸での生活がそうであったように、あなたに贅沢させてやりたい」
まるでそれが使命であるかのように話す彼の熱っぽい視線を受け、胸が痛む。
もしかして、この人は私を愛してくれているのだろうか。
そう気付かされたら、ますます苦しくなった。
本当は、父の命令であなたを監視しているスパイだなんて、言えるはずがない。
私は公爵令嬢ではない。本来なら、シルヴィオと結婚できる身分でもない。
何もかも嘘で塗り固められた結婚のすべてを、今さらさらけ出せるはずがなかった。
不意に扉がノックされ、「誰だ?」とシルヴィオが不機嫌そうに返事をすると、メイドの声がした。
「旦那様、お風呂の準備が整いました」
「……わかった。すぐに行く」
シルヴィオは、まだ離れたくないとばかりにリーゼの肩を一度強く抱きしめ、それからわずかに自身の体の臭いを気にするようなしぐさをした。
「汗を流してくる。寝室で……待っていてくれ」
「お疲れですよね。すぐにお休みになれるよう新しいシーツのご準備をしておきます」
「ああ……、まあ、その……頼む」
なぜか彼はうっすらと口元に笑みを浮かべて部屋を出ていく。
ひとり残されたリーゼはほっと息をつき、窓の方へと視線を向けた。
フィンは、無事に父のもとへ着いただろうか。
あの密書が届けば、リヒトは今日も生かされる。
その代償として、夫の命を差し出し、裏切り続ける日々に終わりはないのだ。




