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重苦しい緊張感に息をひそめるリーゼの心など、まったく気に留める様子のない鮮やかな青空が、窓の外には広がっていた。
シルヴィオはいつもより丁寧に身支度を整えながら、低い声でリーゼに話しかけた。
「これから王城へ行ってくる。……そんな苦しそうな顔はするな。陛下は冷静な判断をなされるお方だ」
「でも……、まだお若い方ですから、裏切り者が近くにいると知ったら、直情的にお怒りになるかもしれません……」
「リーゼは陛下を誤解している」
あきれたのか、情けなさそうに眉を下げたシルヴィオは、リーゼの頬をするりと撫でると、ほんの少し触れる程度の口づけをする。
「心配することはない。陛下の身に危険が及ぶ前に対処するのは、我が第一王国騎士団の使命だ」
力強い声とは裏腹に、ゆったりとした余裕のある笑みを見せる夫の姿は誇らしかった。
なぜ、こんなにも素敵な騎士との幸せな結婚が、これから先も続いていくと、ほんの一瞬でも信じていたのだろう。
後悔したくなるほどに、シルヴィオに心を奪われてしまっている自分に気づいて、リーゼはそっと彼の手をつかんだ。
離したら、もう二度と、こうして優しく見つめてもらえる日は来ないのではないかと怖かった。
「……陛下には、すぐにお会いできるのですか?」
「いや、まだわからない。本来なら宰相を通すべきだが……、実はあまり大きな声では言えないのだが、このところ、閣下の具合があまりよろしくないらしいのだ」
それをリーゼは知っている。
老齢のマシュー・ブライが病を患い、宰相を降りるとのひそかなうわさは、一年ほど前からある。次期宰相の座を狙うアルブレヒトの、待ちに待った機会がようやく巡ってきているのだ。
リーゼとシルヴィオを結婚させたのもそのためだ。マリウス陛下は必ず、次期宰相は誰が適任か、信頼するレナートに相談するだろう。その情報を、アルブレヒトは喉から手が出るほどに欲している。
「……そういうわけで、閣下にはお会いできないかもしれないからな、昔馴染みの侍従長に頼んで、陛下の散歩の時間に会わせてもらうつもりだ」
「そのようなことができるのですか?」
「俺一人ならな。陛下もたまには話し相手が欲しいのだろう」
たびたびレナートが王城へ出かけているとは聞いていたが、非公式に何度か陛下に会っているのだろう。シルヴィオもそのようにして会うつもりなのだ。
なかなか陛下に会えないと嘆いていたアルブレヒトは、よほど警戒されているのだろうか。しかし、なぜ。陛下との対立姿勢はまったく取っていないはずなのに。
「旦那様、……申し訳ございません」
寝室へ姿を見せたエルナが、肩身が狭そうな表情をして頭を下げる。
「どうした?」
「旦那様の愛馬が、どうもご機嫌斜めのご様子で……。厩舎から出ようとせず、厩番が手を焼いているそうです」
「何かあったのか?」
「なんでも、薄汚れた鳥が出入り口の梁に陣取って、馬が通ろうとするたびに翼を広げて威嚇するのだとか。追い払おうとしても、すばしっこくて捕まらないそうで……」
(フィンだわ……)
リーゼは口もとを引き締める。出発の時間稼ぎをするよう、フィンに頼んだが、うまくやってくれたみたいだ。
「困ったものだな。わかった、俺が行こう」
シルヴィオがあきれたように鼻を鳴らし、扉へ向かう。
「リーゼ、あなたはここで待っていなさい」
彼は一度振り返り、そう言い置いて、エルナとともに部屋を出ていった。
パタンと静かに扉が閉まる。足音が遠ざかるのを待って、リーゼはテーブルの上に置かれた革の鞄に目を移す。
その鞄の中に、シルヴィオがしたためた書状が入っている。
(……今よ、リーゼ)
勇気を奮い立たせるように心の中でつぶやくと、ごくりとつばを飲み込んで鞄を開いた。
そこには、封蝋がほどこされた一通の封筒が入っている。それを取り出し、テーブルの上に置く。そしてリーゼは、震える手でスカートの中に隠していた封筒を取り出した。
アルブレヒトから渡された、偽の告発状だ。昨夜、シルヴィオが寝入ったあと、まったく同じ封筒に封蝋をした。並べてみると、本物と見分けがつかない仕上がりになっている。
これを入れ替えれば、リヒトは助かる。
その代わり、レナートは断罪され、シルヴィオも破滅するだろう。
リーゼは二つの封筒を見つめ、やがて、偽の書状からそっと視線をそらすと、もう片方を手に取った。
(リヒト……あなたは必ず、私が助けてあげるからね)
ぎゅっと苦しくなる胸に手を当てたとき、こちらに近づいてくる足音に気づいた。
リーゼはあわてて封筒を鞄にしまい、もう片方をスカートに戻す。ほどなくして、シルヴィオが姿を見せた。
「待たせたな、リーゼ」
ちらりと、シルヴィオが彼女の抱える鞄に目を移す。
「い、いいえ。このままご出発ですよね? 鞄を今、お持ちしようと思っていたんです」
鞄を差し出しながら、強張りそうになる頬に力を入れて、努めて明るく微笑む。
「馬のほうは大丈夫でしたか?」
「ああ。俺が行ったときには、もう鳥はいなくなっていたよ」
「どこからか迷い込んでしまったのかもしれませんね」
フィンは今ごろ、部屋へ戻っているだろう。ほっと胸をなで下ろす。
「あまり見たことのない鳥だったようだ。次に見かけたら、捕まえて飼うとしよう。あなたは鳥が好きだからな」
シルヴィオは冗談交じりに言い、屈託のない笑みを見せたあと、くるりと背を向けて歩き出す。
「では、行ってくる」
「……お気をつけて」
「ああ」
その強い決意を見せた背中を、リーゼは複雑な思いで見送った。




