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カチャリ、と遠くで扉の閉まる音が聞こえた気がして、リーゼは重いまぶたを持ち上げた。
隣を見ると、ベッドにシルヴィオの姿はなかった。そっとシーツをなでると、ひんやりしている。
「奥様、おはようございます。お薬をお持ちしました」
リーゼが身体を起こすと、枕元にやってきたエルナが、銀の盆をサイドテーブルに置く。そこには小さな陶器の薬つぼが乗っていた。
「お薬……?」
「はい。旦那様が早朝から使いを出して、一番効く塗り薬を用意してくださったんですよ」
エルナはほこらしげにそう話す。
昨夜、彼はあざの理由を何も聞かなかった。ただ優しく抱き寄せて、傷が痛まないよう、胸を貸してくれた。
その優しさに報いるものを、自分は何も持っていない。リーゼの胸は罪悪感のようなもので詰まった。
「……すぐにお礼を伝えたいのだけど、シルヴィオ様は?」
「旦那様なら、先ほど街へ出かけられました。急ぎの用事があるとおっしゃられて」
「すぐにお帰りになるかしら?」
「夕方には戻られるかと。なんでも、明日は王城へ出かけるそうで。今日はそのご準備かもしれませんね」
エルナはそう答えると、リーゼの背中へ丁寧に薬を塗る。
「陛下にお会いになるの?」
「そこまではおっしゃいませんでしたが、陛下は旦那様を大層お気に召していらっしゃいますから、登城されたと知れば、お会いになりたがるかもしれません」
戦を知らないラグローリアの若き国王マリウスが、シルヴィオの武勇伝に興味深く耳を傾ける姿を想像するのは容易にできた。
シルヴィオが謁見を望めば、すぐに許可される可能性は高いだろう。
(急がないと……)
リーゼはドレスを着せてもらうと、長い髪は櫛を通すだけにとどめて、エルナへ願い出る。
「朝食は部屋へ運んでください。フィンもお腹をすかしているわね」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
エルナが部屋を出ていくとすぐに、リーゼは自室へと向かった。
「フィンっ、仕事よ」
部屋へ入るなり声をかけると、リーゼの役に立てることがうれしくてたまらないとばかりに、フィンは翼をバタバタさせた。
ほどなくして運ばれてきた朝食のナッツをフィンに分け与え、急いで羽根ペンを手に取った。
食事をさげるように言わなければ、メイドたちがここへやってくることはない。時間は十分にある。しかし、白い紙にペン先を落とす手は震えていた。
これは、アルブレヒトの計画を破綻させようとしている夫を裏切る行為だ。
この手紙が父の手に届いたとき、何が起きるかは想像できていない。そのぐらい、大それたことをしようとしている。
リーゼは意を決して、ペン先を走らせた。
『計画、露見の恐れあり。陛下への奏上、間近』
これだけ書けば、アルブレヒトなら察して動くだろう。
落ち着けとばかりに、リーゼは深く息を吸って吐き出すと、小さく丸めた紙片を筒に入れ、フィンの足に結びつけた。
「フィン、行って。お父さまに必ず、会うのよ」
まるで、勇敢な騎士のような目をしてうなずくフィンを、リーゼは祈るような気持ちで空へと放った。
(シルヴィオ様……、こうするしかできない私を許して……)
次第に小さくなるフィンを見つめながら、リーゼは指を組み合わせ、祈った。
シルヴィオなら、きっとアルブレヒトの野望を打ち砕いてくれる。けれど、弟を見殺しにすることはできない。
(リヒトは私が守らなきゃ。だから……どうか、シルヴィオ様もご無事で……)
シルヴィオは信じてほしいと言った。だからこそ、スパイとしての役目を果たすのだ。彼がすべてを終わらせてくれると信じているから。




